経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本人のための政治思想史(13) 連歌と茶会

2014-07-30 17:33:25 | Weblog
(13) 連歌と茶会
連歌と茶会(飲茶・茶道)は典型的な日本の文化です。両者に共通する特徴は、集団で行う遊び、文学芸能であることです。連歌も茶会も淵源は平安時代にまで遡れます。連歌が始めて登場するのは白川法皇の命で編纂された金葉集です。茶は成尋(の弟子達)や栄西など、僧侶によって宋国から日本に将来されました。連歌も茶会も盛大になったのは室町そして戦国時代です。鎌倉時代から室町時代にかけて日本の農村社会は大きく変わります。郷村が出現します。荘園領主の支配とは無関係に、耕作農民は独自の地縁集団を作ります。郷村の農民も都市の商工業者も座を作って団結しました。この団結を一揆といいます。連歌と茶会は座と一揆という極めて大衆的な動向から生まれた文化であり芸術です。
 連歌は大衆の生活文化です。鎌倉時代既に庶民が春の花見時木の下で一杯やりながらわいわいがやがやと和歌を作りあって連歌が催されていました。大衆的な連歌を文学にまで仕上げた人物が二条良基です。彼は準勅撰といえる連歌集「筑波集」を作成し連歌の規則を定めます。連歌は和歌の5-7-5-7-7の語のつながりを上の句の5-7-5と下の句の7-7に分断します。まず上の句を歌い、それに他者が下の句を付けます。さらに第三者がその下の句に新たな上の句を付けます。こうして句あるいわ歌が連ってゆきます。だから連歌といいます。会衆は三人以上です。二条良基は連歌に関しては極めて大衆的な人で、連歌作成には身分は関係しない、と断言しました。連歌自体が花の下でのがやがや連歌から始まっているのですから当然です。二条良基は五摂家の当主、一流の歌人、有職故実の家元、同時に北朝の有力な廷臣である最高の貴族です。連歌はさらに一条兼良や心敬をへて宗祇に引き継がれます。一条兼良は最後の勅撰集「新続古今集」の編纂者です。良基、兼良そして三条西実隆の三人は上層公卿の出身であり、室町戦国時代を通じての貴族文化の保持者であり、そしてこれらの文化を江戸時代の庶民文化に仲介する役割を果たした人達です。単なる仲介ではありません。彼ら公卿達は江戸時代に貴族文化を家職として受けつぎます。同時にこの家職としての古典文化は江戸時代の庶民文化の背景基軸として重要な役割を果たします。朝廷公卿は武家政治全盛の時代にあっても文化の護持者として生き残り、現在の天皇制の基礎を造ります。
 宗祇は1421から1502年にかけて生きました。80年の人生のうちその前半は室町将軍の権勢の盛期、後半は応仁の乱以後の戦国時代の開幕期です。和歌を一条兼良や東常縁に学び古今伝授を受け、連歌界の英才として頭角を表します。彼は西行や芭蕉と同様に終生旅に生き旅に暮らしました。戦国大名の教養指南者であり、また情報提供者でもあったようです。宗祇も二条良基にならい、連歌作成における季節と気分の変化を重視します。連想の自由を保障するためです。彼が二人の弟子とともに詠んだ「水無瀬三吟何人百韻」のうちから最初の部分を掲載してみます。
   雪ながら山もと霞む夕(ゆうべ)かな        宗祇
      行く水遠く梅にほう春            弟子A
   河原にひと叢(むら)柳春みえて          弟子B
      舟棹す(さす)音も著き(しるき)明方    宗祇
   月やなお霧わたりたる夜に残るらむ         弟子A
微妙なニュアンスの差ですが五句の季節は、晩冬か早春-春-晩春か初夏-夏-秋と変化してゆきます。発句は後鳥羽院の
   見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思いけむ
からとられています。新古今集冒頭の歌です。後鳥羽院の歌は、清少納言の枕草子冒頭の「春はあけぼの、秋は夕暮れ」への反論です。連歌は掛け合いです。そこには相手の立場への配慮はむろんのこと、駆け引き、からかい、滑稽、さらには遊びの趣向も含まれます。宗祇の発句は後鳥羽院の清少納言への掛け合いを背景として詠まれています。連歌では発句、最初の第一句が重視されます。発句だけが独立し俳諧俳句というジャンルができました。江戸時代は俳句全盛の時代です。宗祇は「新撰筑波集」という作品を残しています。なお俳諧の諧は諧謔つまりしゃれの諧です。
 茶はインドのアッサムから中国の雲南を中心とし四川と湖南の一部を含む照葉樹林帯、東亜半月弧といわれる一帯を原産地としています。シナの河北には後漢の時代に持ち込まれました。日本には留学僧が平安時代以後持ち帰りました。有名なのが栄西です。この頃から茶は寺院特に禅宗の寺院で愛飲されました。禅苑清規と茶令という規則が設けられます。なぜ禅院で愛飲されたのか。答えは簡単、眠気覚ましです。コ-ヒ-の初期愛飲者がイスラム神秘主義者達であったことと軌を一にします。禅僧もイスラム神秘主義者も眠けには勝てなかったのです。
 茶は鎌倉時代には寺院外でも多くの人に賞味されます。室町時代になるとさらに飲み方が大規模になり、闘茶の会が開かれます。茶の銘柄を懸物つきで当てる大会です。南北朝期に活躍したバサラ大名佐々木道誉が有名です。この頃にはすでに武士豪商のみならず一般の庶民も飲茶を楽しんでいました。
 画期は東山文化、八代将軍義政が主宰する銀閣寺を中心として展開された文化の時代です。義政が日本の文化に尽くした貢献には大なるものがあります。建築、作庭、書画、茶道、陶磁器の収集鑑定、能狂言などなどへの影響は甚大です。政治はおっぽりだして遊び人ですが、美的感性は鋭敏でした。特に茶道への影響は計り知れません。義政は陶磁器それも唐物の収集にふけりました。彼が鑑定収集した陶磁器は東山殿御物として権威を持っていました。彼が建てた銀閣寺の東求堂は書院造りの第一号です。書院造と言えば畳の間、書院、床の間があります。日本建築の元型です。書院、畳の間の出現で日本式茶会が中国式茶会から独立しました。東求堂同仁斎はまだ単なる書院でしかありませんが、ここから茶室が始まります。
 それまでの茶会はかなりらんちきな宴会でした。舶来の物品を掛け物とする博打でもあり、最後は酒席になりどんちゃん騒ぎで終わります。村田珠光という人物が出現します。彼は奈良で生まれ興福寺下の称名寺に入ります。仕事をさぼって追いだされます。珠光は京都大徳寺に入り一休宗純のもとで参禅します。ここで彼は、茶湯の中にも仏道があると悟り、従来の茶席を著しく精神化します。茶禅一味です。唐物礼賛を控えます。床には唐絵に代り墨蹟をかけます。茶席は四畳半の小座敷で行います。そしてここが肝心なところですが、飲茶を通じて亭主と客人の精神的交流をはかるべく務めます。草庵風、山里風、わびさびの世界が開かれます。珠光の事跡はやがて堺の商人武野紹鴎に引き継がれます。紹鴎の弟子が千利休です。利休から和製の陶磁器も名物として尊重されるようになりました。利休も堺の大商人です。茶会茶道発展は堺の商人により了導されました。利休は秀吉の政治的顧問になりました。それが仇となって彼は非命に倒れます。現在の茶道は利休の子孫が後継する裏表両千家の流派、さらに多数の流派があります。
 茶会の精神は数寄心です。茶を飲んで憩うのが、贅沢をして遊ぶのが、「好き」なのです。現在ではこの数寄心も多分に精神化されていますが、本来数寄とは好き、遊び好き、女好きという意味です。茶会の盛行とともに、舶来の中国製製品、特に陶磁器書画大好き舶来品大好きに変わります。陶磁器には莫大な金が使われます。渡来していた欧米人には日本人が茶器に金で数万両も出すのが不思議でならなかったようです。
珠光、紹鴎、利休と代を重ねて茶会は精神化されます。紹鴎は数寄心を定義して「数寄者というは隠遁の心第一に侘びて、仏法の意味をも得知り、和歌の情を感じ候へかし」と言います。しかし私は数寄という言葉に本来の原意である好き、遊び好き女好きというニュアンスをどうしても感じてしまいます。数寄の発展形態である侘びさびにも、隠された贅沢と若干の嫌味そして滑稽さを感じます。本来ともに飲む茶、共同飲茶、茶会とは明るくて楽しいものです。侘びさびにはどこかひねておどけて滑稽なところがあります。飲茶の風習、茶道の盛行により日本料理が発展しました。懐石料理です。これは宮廷や幕府で行われる正式の料理の簡易版です。一汁三菜、酒と菓子、実質的で食べやすい料理です。
 茶の心とは何でしょうか?数寄・好き心を別の角度から見れば、当座性(座興)、雑談の連鎖そして振舞いになります。茶会を催すに際して重要なことは会話です。茶と料理などを楽しみつつ、自由な会話をします。つまり雑談、肝要なことはこの雑談がとぎれない事です。そのために一定の形式を定めます。茶礼および茶器の鑑賞です。雑談は自由な連想です。連想の自由、気分の自由を楽しみます。そして振舞い。振舞いとは相手の心境を慮って配慮し行動すること、奉仕の提供です。茶会のかなり煩瑣な礼式はこの奉仕を継続的に保証するための装置です。雑談の連鎖、奉仕の応酬となりますと、当然そこには当座性即興性という特質が入ってきます。これらの特質は最後に集団での遊びにつながります。人為的に行動の形式規範を定め、それを演じることにより即興的に振舞い会話して楽しむ、つまり遊びままごと、好き遊ぶのが大好き、です。ままごと遊びは滑稽の精神を含みます。別の言葉で言えば一座建立、人為的に作られたお芝居です。一会一期、即興を楽しむことつまり数寄です。
 数寄についてもう一言。数寄は茶会や連歌に共通の精神ですが、この心は徒然草の吉田兼好、方丈記の鴨長明、そして平安時代の大原三寂、さらに枕草子につながります。数寄の原点には明らかに清少納言の枕草子があります。枕草子の主題は、おかし、です。この言葉は、興趣がある、滑稽だという両義を含みます。連歌そして茶会の原点には「おかし」の精神がありその意味の半分は「滑稽である」です。日本の文化は根底にこの滑稽さを抱えています。古事記の岩戸開きの情景を思い出してください。アメノウズメの裸踊りで神々が哄笑し夜が明ける、明るくおかしなそして滑稽な情景でしょう。
 茶会は連歌とつながります。連歌も、集団での掛け合い、言葉の連想、即興性と相互の気持ちへの配慮しそして遊び好きを特徴とします。連歌と茶会は、詩作と飲茶という外面的行為をはずせばその精神は同じです。こういうある種の滑稽味を帯びた、集団での遊びを芸術文学にまで高めたところに日本文化の奥深さと豊かさがあります。この事は現在日本が主導しているアニメ制作にも通じます。茶道は現在でも厳然とした文化であり儀礼です。連歌の後裔俳句は今も盛んです。誰でも俳句は作れますから日本人は一億総詩人です。連歌と茶道は大衆性、衆議性、そして諧謔性を大量に含む庶民の美意識です。大衆の美意識をここまで育てあげた文化は他国の歴史にはないでしょう。
 茶会と連歌は身分に関係なく楽しめる大衆の生活文化です。その精神は数寄、おかし、滑稽さを基本とします。重要なことはこの二つの文化における共同性と即興性、自由な会話の連想、かけあいと遊び、相手の立場への共感、平等性です。評定衆、座、と並び日本人の衆議性、集団帰属性そして仲のよさを表す文化です。

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