経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

江戸時代、商品作物の栽培と経済の発展-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-02-22 13:29:24 | Weblog
江戸時代,商品作物の栽培と経済の発展-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

 換金作物とも言います。作ってすぐ喰う穀物のような作物ではなく、商業ル-トに載せて売るつまり金と変える(変え得る)作物を言います。本文にあるように、木綿、菜種、酒米、煙草、藍、紅花、茶、櫨、麻、桑、塩、砂糖、陶磁器等です。商品作物の特徴は、大量の肥料が必要であることです。従来の水稲栽培なら肥料は大量には要りません。水の流れにより水上からある程度の肥料は補給されるからです。商品作物はすべて畑作です。肥料を常時補給する必要があります。ちょうどこのころつまり江戸時代に入って日本の周辺で鰯が大量に捕れるようになりました。鰯が取れなくなると今度は鰊が豊漁になります。農民、特に先進地帯である畿内東海更に江戸周辺の農民はこの鰯(あるいは鰊)を干した干鰯や鰊粕を肥料として使いました。更にこれらの魚肥に菜種をしぼった残り油粕が加わります。また大阪・江戸などの大都市では、都市住民が輩出する屎尿は周辺の農村の肥料として使われました。このような事態は「肥料革命」と言っても過言ではありません。こうして商品作物は市場に流通します、しかも大量に。
 ここで商品作物をそれぞれ吟味してみましょう。いずれも当時の生活水準では奢侈品(贅沢品)になります。木綿は丈夫で保温性が強く、吸湿性にもすぐれ、加えて栽培と製造染色が容易です。木綿の相棒が藍です。藍を栽培し藍玉を造り染料にします。藍染の木綿は労働着に最適でした。藍を補完する染料として紅花があります。菜種はそれまでの胡麻に代わり油の主原料になります。こうして生活は夜の闇から解放されます。その意味では奢侈品です。茶は千利休以来民間にもどんどん普及します。タバコは多分南蛮人から伝わったのでしょうがこれも江戸時代に入り普及します。酒は江戸時代に入って清酒になりました。伊丹の鴻池家が最初の清酒酒造メ-カ-だったと聴きます。茶とタバコ酒には嗜癖があります。一度味を覚えたらやめられません。その意味では典型的な奢侈品です。自動的に消費生産量は亢進します。また醤油の醸造も播州竜野で始められました。醤油で味付けされた料理は一度食べると忘れられません、それほど美味です。塩は中世までは全国で生産されていましたが、海水の緩慢を利用して作る塩田法が開発されると生産は条件のいい(干満の差が激しくなく、陽光の多い)瀬戸内沿岸に集中します。砂糖は貴重品でしたが、かなり使われていたようです。櫨は蝋の原料ですから燈火にとって絶対必要なものです。換金価値は充分あります。後に述べるように肥後の細川重賢や米沢の上杉鷹山は、経済改革の時櫨の栽培を奨励しました。桑は以前から栽培されていましたが、江戸時代に入り質量ともに増加します。特に中国との白糸貿易で輸入された生糸の生産は国内の生産を刺激し技術も改良されます。西陣織、丹後ちりめん、長浜ちりめん、結城紬など全国に名産品が現れます。陶磁器も同様です。茶の湯の流行を受けて全国に名産品が現れました。
 こう見てくると商品作物の基盤は魚肥(金で買えるので金肥ともいいます)です。これと当時大地から湧き出でるがごとく産出された銀(及び金)です。銀が出回るから内需が増え、中国からの輸入も可能になります。また銀があるから金肥も買えます。金肥は農業生産および商工業生産を大いに促進します。もちろんコメ作が放棄されたのでもありません。金肥の使用によりコメ生産も増大します。しかし多くの農民が米より他の商品作物を作ろうとしていたことは事実です。なぜなら後者の方が付加価値が高く、加えて課税を免れやすかったからです。
 ここで経済成長における奢侈贅沢の意味を考えてみましょう。もし人間がその生存レヴェルぎりぎりの生活を維持する為だけなら、穀物と塩だけで(それに最低限昆虫や泥鰌蛙の類を捕食する必要がありますが)やってゆけます。人間以外の動物はそれで満足します。しかし人間はそうはいきません。一度美味贅沢を覚えたらそれをあくなく追及します。奢侈品を覚えるとその需要は増加します。需要が増加すると言う事は同時にその供給つまり生産能力も増加する事を意味します。なぜなら需要がある、欲求があるということは、すでにそれだけの生産能力がある事を意味するからです。民度の室は需要にも供給にも同様に作用します。需要があるから価格は上がる、価格が上がれば生産は増える、生産が増えれば価格は下がる、という按配で需要と供給が一定の価格を(若干上昇気味で)保証しつつ同時に増加します。奢侈贅沢品の経済的意味はそこにあります。つまり資本蓄積が一定の量に達すると経済は自動的に進歩するのです。トマ・ピケッティ氏は「21世紀の資本論」の中でそう述べています。欧州では18世紀に入り銀と奢侈品(コ-ヒ-、茶、砂糖)が銀とともに流れ込みこれが農業革命ひいては産業革命に連なりました。日本との違いは日本の方がこのような農業革命は100年早く、また略奪ではなく自力で成し遂げた点に違いがあります。
 とまれ商品作物の栽培を中心として日本の農業はこの時期に飛躍的に発展したことは事実です。人口は初代将軍家康から五代綱吉に至るまでの100年間に推定2000万人から3000万人、つまり1・5倍に増えました。これは既に革命です。日本は1700年までに農業革命を成し遂げていたのです。
 では、このような農業革命はどうして起こったのでしょうか。鎌倉室町戦国時代の400年間の間に常に緩慢なる下剋上があり、農民は常に武士階層に上昇してゆきました。従って農村は原則として皆武装でした。あえて身分を例示すると土豪地侍-名主-農民(作人)になります。ここで名主と言うのがなかなかにややこしい。名主は農民でもあり土豪でもあり得ました。つまり農村では大小の名主が混在し、上は土豪として農村に強い影響力を持ち、下は単なる農民名主であったと言えます。大名主である土豪の下には彼らに隷属する被官百姓もいました。そして名主である農民と土豪、また農民と被官百姓の区別も判然としません。
 こういう状態にメスをいれたのが織豊政権と徳川幕府です。徳川幕府は農村で武器を持ち、領主である大名将軍に明確に忠誠を誓うでもなく農民に影響力のある土豪を武士として奉公に専従させるか、それとも武器を放棄して農業に徹するかの選択を迫りました。一般の農民に関しても同様です。小名主農民や被官百姓から土豪の影響力を削ごうとしました。その方法が検知と刀狩り、さらに武士の都市集住と参勤交代です。ともかく農村から武力を取り上げ、しっかり土地を測量して隠匿財産をなくしようとしました。江戸時代の初期に起こった一揆はこのような中央政府のやり方に不満な土豪地侍層に率いられた農民の一揆です。幕府は被官百姓も含めて農民(純粋に濃厚に専従する者)を土豪から切り離し、独立した自営農民に育てようとしました。しかしこの作業にはかなり長い時間を擁します。だいたい幕府の地方官である代官も中央から派遣された官僚ではなく、地方にあって強い影響力を持つ旧土豪が多かったのです。幕府は徴税を彼らに一任していました。彼らは彼らの仲間(名主庄屋になっていますが)と結託して年貢の3-4割はごまかしていました。幕府は折からの財政難もありこの事態を放置しえず、代官の徴税を監督する役職として勘定吟味役を設け厳格に取り締まります。同時に本来の働き手である農民を旧土豪の下から解放し、彼らを直接の担税者にし、彼らの耕作権を保証します。中間搾取を排除しました。この過程が促進され完了するのが五代将軍綱吉のころです。同時にこの時期に農業革命は頂点に達します。この直接農業に従事する農民を小前百姓といいますが、彼らが商品作物栽培を始めとする農業革命の主人になって行きます。旧土豪の支配から解放された百姓の耕作意欲と富蓄積が奢侈品の需要を喚起しました。解説は以上の通りです。ここで農民の概念がややこしい。私は専門家の指摘に従って小前百姓と言いましたが、それなら戦国以前は百姓農民はすべて土豪の支配下にあった事になりますが、下剋上の動きから見ると決してそうではないはずで、農民の自立はもっと早くからありました。また畿内東海と東北九州では事態は当然違います。私の論述はあくまで先進地帯である畿内を中心に展開されています。


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