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「君民令和 美しい国日本の歴史」ch7勅撰和歌集 注2

2022-02-19 20:52:29 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」ch7 勅撰和歌集 注2


(後撰集から千載集まで)
① 後撰集 951年、村上天皇、紀時文・坂上望城
 成立した時代にも意味があります。まず何はともあれ朝廷が栄えた時代でした。道真の怨霊への恐れもやや薄まり、将門純友の乱は平定され、天歴の治と言われる一見盛時と見える時代でした。最後の班田法が施行されたのもこの時代です。時代の兆候、地方の情勢はともかくまあまあ平和な時代でした。加えて村上天皇の性格もあります。豪放でかつ閨房も盛んでした。古今集成立から50年たち、和歌は公卿の教養と朝廷儀礼の執行に必須となっていました。男女双方が和歌を歌いあい優劣を決める歌合わせが盛んになります。その代表が960年の天徳内裏歌合です。天皇の気質を反映して過去最大の規模で行われました。紫式部の父親藤原為時は子供時代この歌合を見る機会があり、生涯最大の感激だったと言っています。後撰集はそういう中で作られました。ただし後世の評価はよくありません。「十六夜日記」の著者阿仏尼の評価は厳しく、国学者特に本居宣長にいたってはボロチョンです。古今集の糟糠(のこりかす)とまで酷評されました。話題性のある歌だけを数個抜粋します。
 在原業平の孫娘と大納言藤原国経とは相思相愛の仲でした。この仲を道真事件の主犯時平(国経の甥)が奪い取ります。国経と女の相聞歌、
  国経 「昔せし我がかね事の悲しきは、いかに契し名残なるらん」
  女返し「うつつにて誰契り剣定めなき、夢路に迷う我は我かは」
 しかし解らない事があります。奪ったとはどういうことでしょうか。女が利にくらんだかレイプしか考えられせん。実権者時平といえども力ずくで女を引っさらう事ができるのでしょうか。後世の武士社会なら血の雨が降ります。もっともこの時代婚姻関係は曖昧で、辻(町中)での逢瀬や誘拐はかなりあり「強姦」という考え方が出現したのは三条天皇の時代つまり11世紀初頭になってからです。
 次の歌は人口に膾炙しています。
  「人の親の心は闇にあらねども、子を思う道に迷いぬるかな」 藤原兼輔
②  拾遺集 1005年、花山院、藤原公任
 花山院とは前章で述べました花山事件の被害者花山天皇の退位後の称号です。花山院は和歌が好きでした。という事は結構遊び暮らしていたことになります。前章で道長と伊周の権力闘争について述べましたが、伊周(あるいは弟の隆家?)がある女をめぐって花山院と取り合いになります(実際は誤解でしたが)。伊周がおどしに花山院の車に矢を射かけます。矢は花山院の従者を殺傷します。これが伊周の命取りになりました。そういう時期、そういう人物によって拾遺集は編纂を命じられました。もっともこの和歌集が正式な勅撰と言っていいのか否かには疑問があります。花山院は政争の敗者で公式の命令を出す能力はありません。院の私歌集の可能性もあります。編者藤原公任は摂関家の傍流(つまり外戚になれなかった家柄)で和歌、漢学、書道に長け、そして年中行事・故事来歴に詳しく、いわば万能の人でした。道長全盛期に藤原行成などと並び四大納言と言われ道長の執政を補佐した人物です。年中行事の指南書「北山抄」の著者でもあります。当時年中行事に詳しい事は貴族政治家として必須の教養でしたから、公任の政界での重みは解ると思います。ただし私なりに考えれば、道長と公任は父祖を二代前の師輔と共有しますから、思いは複雑であったろうと思います。拾遺集の冒頭の歌は壬生忠岑の
 「春立つというばかりにや、み吉野の、山もかすみて今朝はみゆらん」です。
 非常に個性ある作者は曽禰好忠です。通常の歌言葉と異なる型破りの言葉を使い生き生きとした和歌を詠みました。
 「なけやなけよもぎが杣(やま)のきりぎりす、すぎゆく秋はげにぞかなしき」
   非常に感情に訴える名歌です。好忠は官位が六位で地下人であるため、多くの催し物にも締め出されえています。しかし後世の評価は高く、以後の勅撰集に九十首以上採録されています。また彼は和歌の短さに飽き足らず、和歌相互を連ねて詠む百歌首という作品も試みています。催し物から締め出され、入れろ入るな、の押し問答もしています。型破りでかなり偏屈なしかし創造性に富む人物だったのでしょう。もう一つ彼の歌、
 「秋風は吹きなやぶりそ我が宿の、あばら隠せる蜘蛛の巣がきを」
 和泉式部の歌が登場します。有名な歌です。
 「暗きより暗き道にぞ入りぬべき、はるかに照らせ山の葉の月」
 彼女が播磨書写山の性空上人に贈った歌と言われます。十代の時作ったとされますがそれは伝説でもっと後年の歌でしょう。出来過ぎています。確かに彼女は暗い道から暗い道へと人生転々としましたが。彼女の歌は以後の勅撰集で二百四十首採られています和泉式部もまた通常の歌言葉にとらわれない作風でした。曽禰好忠と和泉式部の歌を採録したところに拾遺集の斬新さがあるのかも知れません。なお拾遺集で初めて連歌が登場します。好忠の百歌集作成にもつながります。
 あと二つ和歌を挙げておきます。
 「八重葎茂れる宿の寂しきに、人こそ見えね秋は来にけり」 恵瓊法師
 「世の中を何にたとえむ朝ぼらけ、漕ぎ行く舟の跡の白波」 沙弥満誓
③ 後拾遺集 1075年、白河天皇、藤原通俊
 白河天皇には弱みがありました。父親の後三条天皇は白河天皇の異母弟実仁親王を皇太子とし、次代はこの親王に継がすべく遺言しました。こんな遺言守られるはずがありません。白川天皇は約20年に渡って実仁親王、更にその同母弟の即位を阻止し我が子を堀川天皇として即位させ院政を行います。その為密教呪符などの陰謀が行われています。ですから即位三年後の勅撰集編纂には、自分の王統の正統化という意味が含まれています。
 後拾遺集の特徴の一つは女性歌人の歌が大量に採取されていることです。和泉式部67首、相模40首、赤染衛門22首が採られています。入集した歌人の大部分は受領クラスです。受領に関しては前章で説明しました。紫式部も清少納言も和泉式部もまた右大将道綱の母の父親も受領階層です。この連中は院政時代そして武家政権創設の主役です。
 和歌六人衆という熱心な歌人達がいました。彼らの中の一人源頼実は住吉神社に参拝し、名歌が詠めれば命に代えてもいい、と祈りました。住吉神社はどういうわけか和歌の神様です。まず彼の歌を挙げましょう。なにせ命を懸けた歌なんですから。
 「木の葉散る宿は聞きわくことぞなき、時雨する夜も時雨せぬ夜も」
 しかしやはりこの歌集で一番優れているのは和泉式部の歌です。彼女に関しては別項で取り上げるので、ここでは一首のみ挙げます。男の恋情というより性欲を刺激するような歌です。はっきり言って発情します。
 「黒髪のみだれもしらずうちふせば、まずかきやりし人ぞ恋しき」
 才媛赤染衛門の歌も優れています。和泉式部が最初の夫橘道貞と別れた時、忠告の意味を込めて贈った歌です。彼ら二人はともに藤原道長に女房として仕え友達でした。赤染衛門は「栄花物語」の作者に擬されています。「栄花物語」は日本で最初の個人編纂の歴史書といわれています。歴史に詳しい人でした。なお「栄花物語」は「源氏物語」を参照にした形跡があります。
 「うつろはでしばし信太の杜を見よ、帰りもするぞ葛の浦風」
 この歌には暗喩があります。昔摂津阿倍野に住んでいた若い男が信太の森に行きます。そこで猟師に追われていた白い狐を助けます。ある日若い美しい女が男の家を訪問します。二人は夫婦になり一人の男児を産みます。女はやがて消えなくてはいけません。男児は母親を恋い慕います。男は女が書き残した文をみます。そこには「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる、信太の森の葛の裏の葉」と書いてありました。男が男児とともに信太の森にいったらお稲荷さんがありました。この男児が平安時代最高の陰陽師安倍清明です。そういうお話です。だから赤染衛門の歌には、夫婦と子供への愛情は大切だという暗喩が含まれているのです。ちなみに赤染衛門は当時の碩学大江匡衡の妻で彼らの曽孫が大江匡房です。匡房は白河法皇の院政期に学者近臣官僚として活躍しました。匡房が生まれた時曾祖母の赤染衛門が詠んだ喜びの歌も紹介しておきます。
「雲のうえにのぼらんまでも見てしがな、鶴の毛衣としふとならば」
 匡房は後世雲の上に登ります。中納言まで昇進したのですから殿上(雲上)人です。
相模の歌、
 「やすらわで寝なましものを小夜ふけて、かたぶくまでの月を見しかな」
 相模も奔放な女性でした。次の歌は、不貞のはて夫が去りゆく時の未練を歌った歌です。けしからん女ですが、良い歌ですね。所詮女は娼婦でしかない、というところでしょうか。
 「逢坂の関に心はかよわねど、見し東路はなおぞ恋しき」
 「綱絶えてはなれははてにしみちのくの、おぶちの駒をきのふみしかな」
 男性歌人としては能因法師の歌が優れています。色気なしのどちらかと言えば叙景歌です。
 「都をば霞とともに立ちしかど、秋風ぞ吹く白河の関」
実際は白河に行かず都で想像して作ったともいわれます。しかし良い歌です。人口に膾炙しています。
 「葦のやのこやのわたりに日は暮れぬ、いぢちゆくらん駒にまかせて」
「こや」は「昆陽」でしょう。現在の兵庫県伊丹市界隈で詠んだことになります。
 「こころあらん人に見せばや津の国の、なにはわたりの春のけしきを」
 この歌には本歌があります。本歌取りという手法です。本歌も紹介しておきます。
 「心あらむ人にみせばや朝露に、ぬれてはまさるなでしこの花」 大江嘉言
更に後世源頼政(摂津源氏、以仁王の乱の主導者、だから治承寿永の争乱の起動者)が能因の歌を受けて
 「都にはまだ青葉にて見しかども、紅葉散り敷く白河の関」
と詠みます。本歌取りの手法が多用されるようになるのは後拾遺集からです。能因の歌をもう二首挙げます。いずれも叙景歌です。
 「こほりとも人の心をおもはばや、けさたつ春の風やとくらん」
これ貫之のある歌に似てますね。
 「山里の春のゆうぐれきてみれば、いりあひの鐘に花ぞ散りける」
④ 金葉集 1124年、白河法皇、藤原俊頼
当時の独裁者である白河法皇の命令で編纂されましたが、あまり良い和歌が散見しません。一首のみ挙げておきます。
「夕されば門田の稲場をとずれて、あしのまろ屋に秋風ぞ吹く」藤原経信
⑤ 詞歌集 1144年、崇徳上皇、藤原顕輔
この集も金葉集同様、面白い歌はそうありません。崇徳上皇は周知のごとく保元の乱の首謀者の一人です。上皇とその敵に回った関白太政大臣藤原忠通の歌を例示します。
「わたのはら漕ぎいでてみれば久方の、雲いにまがう沖つしらなみ」藤原忠通
「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、われてもすえにあわむとぞ思ふ」崇徳上皇
⑥ 千載集、1183年、御白河法皇、藤原俊成
微妙な時期に編纂が命じられたものです。編纂命令の半年後平家一門は都落ちし2年後には壇ノ浦で滅亡します。編集の動機は保元の乱で讃岐に流され都への帰還を許されないまま現地で憤死した、と伝えられる崇徳上皇の怨霊を宥めるためと言われております。また滅んだ平家一門の怨霊慰霊の意味も追加されます。俊成は新古今和歌集の編者になる藤原定家の父親です。前二者に比しわりと優れた歌が多いとは言えます。崇徳上皇の歌は23首あり、怨霊慰撫には充分でもあります。平家一門は朝敵とされましたが、詠み人知らず、時には実名で載っています。というより新古今集においてもそうですが、作者に有名人が多いのです。印象に残る歌を列記します。
「天つ空ひとつに見ゆる超しの海の、波を分けても帰る雁が根ね」源頼政
「夕されば野べの秋風身にしみて、うずら鳴くなり深草の里」藤原俊成
「ながむれば思ひやるべきかたぞなき、春のかぎりの夕暮れの空」式子内親王
「ほととぎす鳴きつる方をながむれば、ただ有明の月ぞ残れる」藤原実定
「花は根に鳥は古巣に帰るなり、春のとまりを知る人ぞなき」崇徳上皇
 


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