経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、荻生徂徠

2010-11-01 03:12:08 | Weblog
     荻生徂徠
 荻生徂徠は徳川幕府が開かれて約半世紀後の1666年、館林藩主徳川綱吉の侍医荻生方庵の子として江戸に生まれました。この間に幕府の統治は安定し、経済もめざましく発展します。商品作物の栽培と商工業の発展により、農民町人は裕福になります。江戸初期年貢率は5-6割とされましたが、元禄期には実質的には3割を切るようになります。
 大名統制のための参勤交代他の政策は、武士から庶民への所得移転になりました。武士の生活は困窮します。将軍大名から幕臣藩士に至るまで、貧乏になります。政治は根本的に立て直されなければならないと、為政者は考えます。幕政藩政の改革がさかんに行われました。
 政治改革に理論的支柱を与えたのが荻生徂徠です。当時の例にもれず、彼は儒者でした。幕府公認の儒学の家元林家に入門します。しかし彼は林家の儒学、つまり朱子学とか宋学とかいうものとは全く異なる、彼自身の体系を作り上げます。彼が創始した学問は儒学の範疇を大きく超えます。徂徠の主著「弁名」「弁道」「政談」「太平策」を中心に彼の思想を検討してみましょう。前二者は哲学・形而上学、後二者は実務のための政策提言です。
 徂徠は儒学を勉強しました。そのためには中国語で本が読めなければならないと考え、中国語の発音練習から始めます。当時の中国語は、四書五経が書かれた時代の発音と同じなのかどうかと考えます。彼は古代中国語の研究をします。彼が始めた古典言語の研究は、古文辞学と言われます。彼は四書より五経の方を重んじました。五経の内容の方が古いからです。徂徠は儒学の源流を突き止めようとしました。五経、特にその中心である礼記は、殷周時代の漢民族の風習と儀礼の書です。
 徂徠は、制度という概念にゆきつきます。彼の言葉では「礼楽刑政」です。礼は儀礼と風習、楽は音楽、人と人の間を取り持ち和ませ柔らげるための音楽、刑は刑法、政は政治です。徂徠は宋学で重視される倫理中心主義と唯心論を排し、礼楽刑政、つまり政治制度が重要なのだと強調します。
 制度を建立した人物を先王あるいは聖人と名づけます。作られた制度が先王の道です。一度作られたものなら、また新しく作り上げることができるはずです。倫理といわれれば、作り変えがたく見えるが、制度としてみると、作り変え可能になります。
 朱子学・宋学には、変革を試みる公理がありません。何事も精神主義です。自己を内省して自己変革を期するのみです。聖人君子の道、といいますが、ありていにいえば大勢順応です。倫理から制度に視点を移し変えることにより、徂徠は体制変革の公理を作ります。
 1279年、南宋最後の継承者は崖山に亡びます。近侍していた陸秀夫は,衣冠を正して「中庸」の一節を講義していたとか。徂徠はこの話を引いて朱子学の無内容さを憫笑します。
 徂徠は以上の思考を総括して、「礼は物なり、衆議の包塞するところなり」といいます。物は具体的状況、包塞は塞ぎ包み満ちていることです。具体的状況の中で、それをみんなで討議することによって形成された何かに、一定の名をつけて形にしたものが礼なのだ、と徂徠はいうのです。
 徂徠は「元享利貞」という宇宙の循環を再解釈します。元は物の始まり、享は勢い盛んな様子転じて変化、理はその結果、貞は変らぬこと、を意味しました。
 易のこの原理に、徂徠は彼自身の解釈を加えます。元は事を起こすこと、享は起こされた過程の推移、利は結果としての収穫効果、貞はその過程に潜在する不変のものあるいは自然、と解釈します。
 徂徠の解釈の鍵は「元」にあります。これを彼は、過程の起動者、つまり制度の建立者と解します。彼の解釈に従うと、自然に働きかけて、過程を起こさせ、収穫を取り入れた後、元の自然に戻すとなり、こうして一循が終わり、再び新たに起動させるものが----となります。
 易は自然の過程を読み取る図式ですが、易の枠組を設定するのは人です。徂徠はこのからくりを見破り、自己の思想に組み込みます。自然の過程は作為の対象になります。
 徂徠は義も再解釈します。義は仁義と併称されるように、儒学の基本概念です。義を重視したのは孟子、しかし徂徠は孟子に飽き足りません。
 仁が、人と人の間の柔らかくて自然に流れる関係を示唆し、対立や葛藤を含まない関係様式なのに比べ、義は仁の流動的状況に一部を切り取り組み合わせてできる、かなりごつごつしてぶつかりあうあり方です。したがって義には仁の外在化されたものという意味も含まれます。
 徂徠は、義に仁の流動性を含ませつつ、それを適用と理解します。適用は、運用であり、流通であり、需給関係であり、利の追求です。
 元享利貞と義の再解釈は、運動、適用、運用そして循環を意味します。徂徠は政治行為の拠って立つ基盤を探りつつ、同時に経済現象をも視点に組み込みます。
 徂徠は、宋学が重視する仁のもつ曖昧さを排除し、その背後にある制度を、眼に見えるように顕在化させ、それを人間の主体的行為の対象としてとらえます。
 徂徠は、具体的政策を提案します。武士社会の危機を、旅宿の境涯、と表現します。本来武士は農村から出てきた。そのころは有能で強かった。都市生活を営むようになって柔弱で貧乏になった。だから武士は農村に帰るべきだと、帰農論を説きます。ここまでならいいところを突いても所詮はアナクロニズムです。
 徂徠は続けます。旅宿の境涯に武士をおきながら、何の制度も設定しないのはおかしいと。彼はいいます、旅ではとかく金がいると。ここから彼の提案は未来に方向を転じます。
 人材の登用は、だれでもいうことです。徂徠は極めて大胆な提案をします。能力のある者なら百姓町人でも武士に取りたてよと。士農工商の身分撤廃を主張します。
 徂徠はさらにいいます。高位にある者は苦労が足りないから馬鹿が多く、下賎な者の方が有能だとも。さらに、人は使って見なければその能力は解らない、適材適所で使って専門家を作れ、やる気になるようにおだてて使え、と。朱子学的精神主義の欺瞞への批判です。徂徠にとってはまず実用、倫理より制度と政策です。
 8代将軍吉宗は、就任早々、老中に江戸市内の米の値段を尋ねます。1人がかろうじて答えられたのみで、他の老中は知りません。徂徠の「政談」は吉宗の要請により書かれました。
 徂徠は寛刑を主張します。金銭にまつわる紛争は激増していました。しかし幕府は極力当事者間の和解を勧めます。徂徠はこの態度を批判し、ともかく民事法を作れといいます。この要求は寛刑を必要とします。金銭沙汰をそれまでの荒っぽい刑法で裁かれては、首がいくつあっても足りません。武は武断です。うかつに民事法を作れば、幕府存立の精神的基盤は崩れます。しかし幕府は不充分ながら作りました。公事御定書(くじがたおさだめがき)は徂徠の死後1742年、吉宗の時代に成立します。
 民事法の必要性を説く徂徠は、また訴人と私闘に関して明白な意見を述べます。訴人をなぜ非難するのか、と。由比正雪の事件の時、彼の片腕である丸橋忠弥を、密かに訴えでた仲間がいました。訴人の功績で、彼らは旗本にとり立てられましたが、旗本は彼ら訴人を仲間あつかいしません。武士にあるまじき卑怯な行為というわけです。徂徠はこの態度を非難します。まず公権力、それを護った訴人は公儀への功人ではないのかと、いいます。
 裁判判決や政策判断の記録を残せ、と彼はいいます。それまで記録がないから、かなりいいかげんな判断で執行されていました。だから記録の保存とその担当者である留役の必要性を主張します。帳面を留めるから留役あるいは調役といいます。係長級のこの役職は次第に重要になります。
 幕末の能吏、川路聖アキラは勘定奉行留役でしたが、老中阿部正弘から常に相談を受けました。西郷隆盛は薩摩藩郡奉行調役から彼の政治人生を始めます。記録の保存は行政と裁判の手続きの明文化を意味します。同時に実務官僚を育成します。
 徂徠は経済政策について2つの重大な提案をします。
 田畑の自由売買。幕府および諸藩は農民が自由に耕作地を売買することを禁じました。農村には真の地主はいなかった。入質という形で所有権が委譲されることもありますが、基本的にはそれは質であり、農民はいつでも取り返せました。原則的にはそうなるし、事実そうなる事例も多かったのです。地主が育たなかったことがいいかどうか解りません。しかし耕作地の自由売買が資本制生産の基盤であることは確かです。徂徠の大胆な発言は、武家政治の否定に連なります。
 徂徠は貨幣流通量増加を提案します。
 元禄期荻原重秀が金銀貨を改鋳し金銀の含有量を減らして財政を救いました。対して新井白石は逆をします。経済政策としては荻原の方が先進的です。徂徠は荻原の政策を支持します。
 貨幣量の減少は不景気につながります。徂徠の提案に乗ったのか、吉宗は貨幣の金銀含有量を減らし、新貨と旧貨を含有率に応じて交換する政策を施行します。貨幣流通量増加を目的とした誠実なやり方です。
 併行して定量銀貨を発行し、金銀比価を固定し金本位制への先鞭をつけます。これは幕府が経済行為に積極的に乗りだそうという決意でもあります。吉宗以後、幕府は中央集権化を進めます。吉宗はお庭番という将軍直属の諜報機関も作りました。
 徂徠学の要点をまとめました。
 民事法の制定、田畑の自由売買、貨幣流通量の増加、百姓町人からの人材登用、は武家政治の否定です。
 これらの提案はフランス革命の人権宣言とほぼ同じ内容です。人権だ平等だと使いようによっては危険でもある空手形・空念仏を振りまわさないだけのちがいです。維新政府が施行した政策とも同じです。徂徠は政談提言のすぐ後の1728年死去します。人権宣言は1789年、明治維新は1868年です。
 徂徠の貢献は、政治を伝統と自然の過程に任せるのではなく、政府が積極的に政治に関与し、必要な制度を状況に合わせて製作してゆくための原則を明示した点にあります。具体的に彼が提案した内容は、武家政治を超え、それを否定するものでした。徂徠の思想の特記すべき点は、彼の論旨が流れるように首尾一貫していることです。彼は言語学者でもあります。彼の創始した古文辞学は日本語の研究に受けつがれています。本居宣長は徂徠の孫弟子です。
 徂徠に関する挿話を2-3紹介しましょう。彼は幼少児期を上総国(千葉県)で過ごしました。青年になって江戸に移住します。この時彼は、少しでも儒学の本家である中国に近くなったと喜んだそうです。
 彼が大家となった時、弟子や知人を集めて、毎月一回例会を催します。酒と一汁三菜、他の食物は各自自由に持ち込んでよし、出入り自由、でした。彼は弟子の独創性を愛し、学問に関する限り、意見は自由でした。
 徂徠は礼記の内容に見習って、古代中国の音楽を皆で練習しました。彼がある楽器を吹くと、彼の家猫がくしゃみしたそうです。
 最後にもう一度徂徠の経済政策への貢献をまとめてみましょう。彼は政治を作為(さい、人が意図して為し、作ること)の対象として捉えます。政治は可視的な存在として浮かび上がります。この存在を具体的に吟味考察すれば、政策の選択肢の一環として、経済現象が捉えられます。政治を作為として捉えることは、政治を公権力の独占から解放するための前提でもあります。民意を前提としてのみ経済現象の理解は可能になります。
 政治から経済への推移の重要なステップが、土地の資本化、つまり耕作地の自由売買です。こうして財貨は流動化され貨幣で計算されうるものになります。徂徠が提唱した、耕作地の売買自由を前提としてのみ貨幣流通量の増加という政策とその提案は可能になります。 
 
参考文献
   弁名、弁道、政談、太平策  日本思想体系・荻生徂徠に所収  岩波書店
   荻生徂徠  中央公論社

コメントを投稿