経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、甲州の豪強・根津嘉一郎

2010-04-14 03:24:57 | Weblog
     根津嘉一郎

 根津嘉一郎は1860年現在の山梨県山梨市(旧平等村)に生まれます。幼名は栄次郎、喧嘩好きのガキ大将として有名でした。父親の名は嘉市郎、家業は油商で雑穀の仲買もしており裕福な商人でした。父親は勤勉に働きかなりの家産を二人の子供に残します。栄次郎は次男ですが、兄が病弱なため、常に長男代理として遇されていました。小学校を出て、家業に従いますが、自己の才能を自負する栄次郎は不満です。この間、支払い拒否常習の顧客から掛け金を強引に取ったという武勇伝もあります。郡書記になり、仕事はこなしますが、ついに21歳時、東京に出奔します。陸軍士官学校入学が念願でしたが、年齢超過のため、入学資格なしということになります。やむなく馬杉雲外の塾に入り、主として漢学を中心に3年間東京で過ごします。その間父親は栄次郎に仕送りしました。
 郷里に帰り、家業に従います。商売は上手く、父親の残した家産を増やします。25歳結婚。この結婚には逸話があるようです。嘉一郎は当時はやりの自由民権運動に関心を持っていました。運動中、警官の不当な弾圧にあいます。抗議をする中出会った、知事の書記官の義妹を見初め、婚姻を申し入れ、見合いの結果、結婚にいたります。30歳病弱な兄に代り家督を継ぎ、嘉一郎と名乗ります。「一」が「市」でないところに、何か微妙なものを感じます。嘉一郎が相続した家産は、田畑評価額で8万円、現金8千円でした。相当な家産と見ていいでしょう。
家業に専念する傍ら、郡会議員そして県会議員になります。このような経歴を見てきますと、嘉一郎の初志は軍人か政治家にあったようです。自由民権運動への関与は続いており、集会への警官による過剰な妨害行為を見ていて、抗議します。警察や県庁からは相手にされませんが、新聞報道で名を挙げます。県会議員としての活動そして、この種の派手な行為は、嘉一郎の政治的資産になり、彼が将来実業界に進出する、元手になったと言えます。攻撃的で、売られた喧嘩は受けて断つ、というのが彼の信条であり、性癖でした。ですから彼が関与した会社では必ず喧嘩しています。また彼の腕力を期待しなければならない会社を再建する事が、嘉一郎の終生の仕事であったと言えます。県と郡の議員に加えて村長の仕事も引き受けます。村長時代、洪水で決壊しかかった堤防を補強するために、条例を犯して神社の神木を切ったという逸話もあります。この話は、石田三成が米俵で洪水を防いだという話に似ています。頭の回転が速く、決断力に富む、という性格です。
 県会議員在任中、郷里出身の実業家若尾逸平と知り合います。若尾から株式売買の妙味とともに、実業は経済の動向特に将来性を知ることが大事、これからは「のりもの」と「あかり」が有望であると、と教えられます。同じく郷里の先輩雨宮敬次郎の知遇も得ています。
 若尾の教えを実践したのか、嘉一郎は日本郵船を始め海運株を買いまくります。一時は順風満帆でしたが、やがてガラが来て株価は暴落し、大借金を抱えます。借金をかかえたまま、隠忍自重を強いられます。株では大損をしましたが、嘉一郎の派手な行為は、実業界で次第に有名になります。徴兵保険株式会社の設立発起人に推されます。維新以来の経済界の黒幕井上馨が主催する、有楽会という有力経済人のクラブにも推薦されます。
 39歳、東京電灯(東京電力の前身)の取締役に推されます。この会社は創立が明治16年と古いのですが、経営不振でした。嘉一郎の役目はもちろん会社再建です。まず冗費を徹底的に省きます。メモ用紙は新聞広告の裏を使う、無駄な電灯はつけない、などなどです。当たり前のことですが。この態度は私生活でも同様でした。コ-トの襟が少しほつれていても、気にかけず着ていました。次に石炭購入に関して、従来のやり方を改めます。仕入係と業者との癒着を断ち切り、購入費を抑え、燃費を節約します。そのために暴力事件も起きました。まず経営の合理化、支出の削減、銀行への返金、そして銀行の信用獲得に勤めます。経営は受身の対策だけでは不十分です。銀行信用が回復したら新しい社債を発行し増資します。弱小企業である品川電灯を買収合併します。このような経営態度を見ていますと、嘉一郎の生活観が変化したのを感じさせられます。彼は40歳を転機に禁酒禁煙を実行し、極力健康に気をつけるようになります。若い頃の彼の生活は、むしろ放漫でした。喧嘩好き、青雲の大志、出奔、自由民権運動、大酒、茶屋遊びなどなどが例証です。
 45歳衆議院議員に当選します。以後3期務めます。ほぼ同時に東武鉄道の社長に就任します。東武鉄道はその10年前に出来ました。東京北千住から埼玉県久喜間までの40kmが走行区間でしたが、併行する利根川水運との競争に勝てず、経営は不振でした。嘉一郎のやり方は基本的には東京電灯でのそれと同じです。綱紀粛正、冗費節約、信用の回復、事業の拡大です。彼は鉄道路線を利根川を越えて北へ延伸する、提案をします。周囲は大反対でした。利根川架橋という大工事に40万円が必要でした。嘉一郎は反対を押し切って、路線を延ばします。そのためには増資が必要です。こうして東武鉄道は危機を克服しました。後に路線は日光まで延びます。この時も日光東照宮初め、日光の観光業者は反対でした。しかし旅客は倍増し、結果として反対の声は消え去ります。鬼怒川温泉もこうして有名になります。
 当時の東京には3つの市街鉄道がありました。東京市街鉄道、東京馬車鉄道、東京電気鉄道です。嘉一郎は東京市街鉄道の取締役をしていました。これら三社の合併気分が盛り上がります。合併反対派と賛成派が対立する中、嘉一郎は賛成派になり、将来を見込んで自社の株を買い占めます。やがて合併して東京鉄道株式会社ができます。後の市電・都電の母体です。新会社の成績は好調で路線は延長につぐ延長です。こうして嘉一郎は資産を増やします。
 福沢桃介から名古屋の山三ビ-ル買収を勧められます。買い取って加富登(かぶと)ビ-ルとします。ビ-ルを巡っては日本ビ-ルの馬越恭平と対立します。やがてキリンを除くビ-ル会社は大日本ビ-ルに統合されますが、嘉一郎は馬越と長きに渡って緊張関係を続けるはめになります。ビ-ル会社の離合集散はややこしいので、山本為三郎の列伝を参照して下さい。ビール会社経営では嘉一郎は成功したとは言えないでしょう。
 明治39年渋沢栄一を団長する渡米実業団に属して米国を旅行します。日露戦争以後米国の対日感情は悪化しており、不愉快な経験も多かったようです。
 高野登山鉄道という会社がありました。大阪府の堺市から河内長野市を結ぶ鉄道です。路線が路線のためか、赤字の連続でした。嘉一郎はこれを買い取り、経営を刷新します。東武鉄道の時と同じ手法です。河内長野から高野山の直下まで一気に路線を延長します。これで大阪方面から、高野山に日帰りで参詣できるようになりました。要は鉄道の路線上に人を集めるものがあるか否かの問題です。高野登山鉄道は黒字に転換します。この会社は南海電鉄からの申し出でで後に南海に合併されます。現在の南海電鉄高野線です。
 他に、1922年武蔵高等学校(現在の武蔵大学)設立、1923年富国徴兵保険株式会社設立、1926年、国民新聞相談役、貴族院議員、1927年南朝鮮鉄道設立、東京地下鉄道会社取締役、などの事歴があります。国民新聞は徳富蘇峰が主宰していました。徳富の学術活動援助のために、嘉一郎は一肌脱いだつもりでしたが、両者はやがて袂を分かちます。
 1940年の時点で嘉一郎が関係する会社の主なものは、
  
東武鉄道(東武自動車、東武運輸、日光登山を含む)、秩父鉄道、東京地下鉄
  大社宮島鉄道、富士身延鉄道、富士山麓鉄道、東京湾汽船、南海電鉄、南朝鮮興業
  富国徴兵保険、太平生命、昭和火災、関東ガス、武州ガラス、日本殖産興業
  日本観光、東京興産、日本土地証券、

等、単に株式を所有しているだけの会社は数えきれない、という事でした。
 1940年死去。前年の南米旅行が答えました。享年81歳。嘉一郎没後長男藤太郎は嘉一郎を名乗り、翌年27歳の若さで東武鉄道の第4代社長に就任します。嘉一郎は子供に東武鉄道だけ譲りました。嘉一郎の会社の判定基準は、

  経営者の資質、信用度
  事業の性質が時代の要請に合致しているか否か
日進月歩の技術を持っているか否か
です。当たり前と言えば当たり前です。要は実行の問題でしょう。
 根津嘉一郎の会社再建の方式は

  綱紀粛正、冗費節約、信用回復、増資、営業拡大

に集約されます。経営者として当然あるべき理想であり、今更口に出すほどのことでもありません。しかしそれを断固やりぬくところが彼の彼たる由縁です。この彼たる由縁の一つが、嘉一郎の攻撃的性格です。売られた喧嘩は必ず買います。だから押しがきき、効果がでます。単に効果が出るのみならず、その派手な言行はある種のブランドとなり、彼はカリスマ化されます。こうして嘉一郎は多くの経営不振の会社を自己の傘下に入れて、再建し、株を買って、資産を積み重ねます。嘉一郎が活躍し始める明治30年前後は、日本資本主義の勃興期でした。泡沫会社が乱立します。そういう中彼のような腕力(気転と押しと決断)の強い人物が現れて、弱小資本を押しつぶし、併合し、再建しつつ、自己の会社の資産を肥らせて行きます。この点では、堤康次郎も五島慶太も同様です。嘉一郎は、無能な怠け者には厳しく、有能で熱心なものは引き立てました。資本主義下にあっては、100の小資本より、1つの大資本の方が、効率よく雇用を増やす事ができます。嘉一郎は経営不振の会社に眼をつけたので、ぼろ買いちろう、と仇名を付けられました。これは彼の最大の趣味である古美術収集にかこつけて、皮肉った表現です。彼の知己である福沢桃介によれば嘉一郎は、東京で一番美術品に金を使った男、とのことです。
 嘉一郎の生国山梨県、甲斐国からは多くの経済人が輩出しています。彼の他、若尾逸平雨宮敬次郎、小池国三、小林一三、小林中(あたる)などです。彼らの近代経済への貢献は大きく、また団結も固く、世間では彼らを甲州財閥と称しました。もっとも小林一三はやや違った立場にあります。甲州は戦国大名武田信玄の治めた国で、この国の人は信玄を敬愛しました。江戸時代になり甲州は天領(幕府直轄領)になります。大名領地に比べて統治は緩く、尚武の気風は強ち土地柄でした。だから甲州は任侠の徒(侠客、つまり極道・やくざ)の産地でした。代表が黒駒勝蔵です。清水次郎長のライヴァルであり、維新の戦争で幕府に尽くし、ために官軍に処刑されました。嘉一郎のやり方の中には、明らかにこの任侠道の影響があります。彼はまずどすの効いた声と態度で相手を一撃します。すべてはそこから始まります。この一撃が成功すれば、後は経済の図式に従って事を進めます。
 根津嘉一郎に大きな影響を与えた若尾逸平について、私のわかる範囲で述べてみましょう。逸平は1820年甲州原七郷在家塚村に生まれます。生家はかなりの資産家でしたが、彼が生まれた頃は没落していました。天秤棒に桃を積んで西隣の信州松本に売りに行きます。さらに東に向かって江戸に売りに行きます。時間を惜しんで、徹夜で甲州街道を進んだそうです。やがて開国。ビジネスチャンスです。横浜に生糸を運びぼろもうけします。こうして資産の基礎を固めました。この資産で第十国立銀行を乗っ取ります。さらに東京馬車鉄道を傘下に収め、更に東京の電車事業に進出します。こうして「のりもの」を押さえました。その資産で東京電燈(現在の東京電力)を支配下におきます。「あかり」も抑えます。やり方は、この種の経営者の常套手段である、ぼろ会社(経営不振の会社、ただし将来伸びる見込みのある、この辺が乗っ取りのコツ)の株を買い、その経営を徹底して合理化する、ことです。しかしこの若尾財閥も昭和の金融恐慌で没落します。逸話があります。若尾財閥華やかなりし頃、米騒動に際して若尾邸焼討ち事件が起こります。暴徒による襲撃です。この時消火作業に当たった消防士は誰一人として、放水しなかったそうです。彼らは暴徒を恐れたのか、あるいは暴徒に共感したのか、どちらかでしょう。めぐる因果は小車の、でしょうか?

参考文献 東武王国-小説・根津嘉一郎
      寡黙の巨星(日経新聞出版社)

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