経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、横河民助

2011-03-27 02:53:28 | Weblog
         横河民助

 横河民助は1864年(元治元年)播磨国二見村(現明石市)に医師の四男として生まれます。父親は当時としては珍しい洋方医でした。中学卒業後、上京し三田英語学校や工部大学校予備、これらの学校は大学に入り外国人教授の講義を受けるための受験予備校ですが、を経て、明治16年19歳時、工部大学校(東大工学部の前身)に入学します。定員50名、希望者1000名、競争率20倍でした。病気で1年休学し、明治23年24歳の時卒業しています。卒業制作は「tokyo city building」、壮大な記念碑的建築ではなく、日常の実務に即した建築物でした。西洋風の外観に日本の伝統的町屋の形式が取り入れられています。
 民助に影響を与えた建築家は、辰野金吾の場合と同じく、英人ジョサイア・コンドルでした。コンドルは日本人に西洋一辺倒にならずに、日本の伝統を重視する事を強調して指導します。卒業して民間で建築事務所を開業します。象牙の塔にとどまることなく、広く社会のために---、が民助のモット-でした。最も現実は厳しく、彼の思惑通りには進まず、細々と食いつなぐ生活が続きます。1891年(明治24年)濃尾大地震が起こります。マグヌチュ-ド8.4、死者7273名、全壊家屋数14万戸以上という大惨事です。民助は地震の1ヵ月後緊急に「地震」と題した本を出版します。この本で、地震国日本は、地震の少ない欧州の建築技法を簡単に受け入れてはいけない、と警告します。
民助の希望が充たされる時がきます。明治28年31歳時、民助は三井組に入ります。当時三井は中上川彦次郎の指導下に、近代的な産業資本に脱皮しようとしている矢先でした。同時入社の、後に三井合名会社の理事長になった池田成彬の月給が30円、民助のそれは100円でした。月給の差は期待の差です。彼は技術課長として三井営業総本店の建築の責任者になります。従来から主張してきた耐震性の建造物を造る機会に恵まれます。民助はそれを鉄骨製の建築で果そうと思いました。鋼材の買付けと鉄骨建築の実際を視察するために4ヶ月米国に渡ります。
三井総本店は今までにない工法をもって造られました。従来の鉄骨建築は、レンガの間に鉄鋼を埋め込む方式でした。民助は、まず全体の構造にあわせた鉄骨の枠組みを造り、その周囲をレンガで包む方式を採用しました。鉄骨レンガ造り、現代ではカ-テンウオ-ル工法です。三井総本店は明治1902年(明治35年)に竣工します。地下一階地上三階、延べ総面積2800坪(約9000平米)でした。
三井総本店を完成させたその翌年の明治36年、民助は再び独立をはかり、横河工務所を開設します。民間の建築設計だけで食う、それがほんまの建築技師だ、は彼の終生の信条でした。明治44年帝国劇場を竣工させます。建坪645坪、地下を含めて五階建、座席総数は1700席でした。多くの人に利用してもらうために、全館を椅子化し、貴賓席や特等席以下、一等から四等の席まで作りました。三越呉服店本店も設計します。地下一階、地上六階で、スエズ以東最大の建築物と呼ばれました。時代はそろそろ大正に入ります。サラリ-マン階層が社会に進出し、市民は生活を楽しみ始めた頃です。今日は帝劇、明日は三越、というキャッチフレ-ズが人気を呼びました。民助の設計になる主な建築物は他に、東京株式取引所、日本工業倶楽部、東洋綿花ビル、千代田生命ビルなどがあります。
 一介の建築技師で終えるのは惜しい、と鐘紡の武藤山治をして言わしめたほどの起業能力を民助はもっていました。建築用鉄材がほとんど輸入品なので、せめて加工くらいはと思い立ち、大阪支店開設と同時に、鉄骨家屋の製作組立を目的として工務所付属の工場を作ります、しばらくして工務所から独立し。横河橋梁製作所という独立した企業になります。
電気計器事業にも進出します。電気測定法の施行を前に、積算電力計を製作します。この会社は後に、横河電機製作所になりあます。東亜鉄工所も設立しました。この会社は次第に暖房設備に重点を移します。1937年(昭和12年)には満州に進出し、満州橋梁KKを作っています。
建築業の近代化にも民助は尽力します。明治44年民助は、原林之助(清水建設)、大倉粂馬(大倉土木)らとともに、東京都の建築請負業者に呼びかけて、建築業者有志協会を設立します。民助は全会一致で理事長に選出されます。当時、現在でもややその嫌いはありますが、建設業という仕事は社会からあまり高い評価は受けていません。土建屋、土方のイメ-ジがついて回ります。業界自身の責任でもあり、近代的経営に脱皮すべく、この協会は作られ、民助が指導者になります。技術面での啓蒙、人材の育成に努めます。手軽に活用できる資材情報を盛った「建築土木資料集攬」や「積算基礎資料」などを刊行します。
 建築家としての民助が一番関心を持ったのが、地震国日本の耐震設計でした。従来耐震性といえば、材料を大きく強くすればいいだけの設計でした。民助は日本の神社仏閣や城郭の構造を研究し、ショックを吸収して柔らげる、木組みの消震構造に着目し、そういう方向での工法開発を預言しています。これは後に彼の後輩達により発展させられ、柔構造方式として完成します。現在の超高層ビルはこういう設計でできています。ですから60階や70階に暮らす人は、ビルがゆっくり揺れるのが解るそうです。この技術は日本の誇る建築技術の一つです。
民助は人の和を計り、問題を無理せず纏め上げてゆくタイプでした。彼は大学卒業以後、一回も設計図を描いたことはない、という神話の持ち主でした。ほとんどすべての仕事において彼は大略の方針を示し、後の具体的設計は他の人に任せ、濫りに口を挟まない、のが彼の方針でした。仕事をしている人の間を静かに通り抜けてゆく、何事も言われなかったらOK、ちょっと首を横に傾けたら問題あり、「いいね」と言われたら最上、でした。この性格は歳を経るに従い、顕著となり、民助は春風駘蕩とした寛厚の長者になります。若いものには、仕事でもうけようと思うな、技術を磨け、と言いました。誠実であれ、良いものを作れ、が彼のモット-でした。日本の国家が早く近代国家にならなければならないという、強い使命感をもった人でした。
 趣味は多彩でした。その中で特記すべきは、古陶磁の蒐集です。50歳前後からはじまります。三井の益田孝の影響によるといわれます。次第に熱を上げ、目利きとなり、一流の古陶磁を蒐集します。そしてそのすべてを帝室博物館(現国立東京博物館)に寄贈します。新しく集めたものも順々に寄贈しました。博物館内に横河コレクションができます。このコレクションの品目の増加が楽しみでした。古陶磁の他、書画、金石、盆栽、囲碁、能楽、音曲などあげればきりのないほどの趣味をたしなんだ人でした。筝曲にも凝りました。三尺(約1m)足らずの携帯用筝を製作します。その普及を計るべく倭楽研究所を創設しています。
1945年(昭和20年)7月死去、享年81歳。

参考文献 是の如く信ず 横川民助を語るつどい、横河建築設計事務所、横川電機KK他

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