経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、益田孝

2010-10-15 03:13:38 | Weblog
     益田孝

 益田孝、三井財閥の大番頭といわれる人です。しかし彼と三井の関係はかなり複雑です。三井は江戸時代初期から続く豪商ですが、時代の異変をいつも簡単に乗り切ってきたのではありません。天保の改革では水野忠邦ににらまれて、あわやというところまで行きかけたそうです。維新の荒波を乗り越えた旧来の豪商は多くはいません。新しい権力に乗り換える気転の速さ、時代が要求する経営の方向を見定める能力が必要とされます。三井財閥形成において、特記すべき人物は4人います。三野村利左衛門、益田孝、中上川彦次郎、そして池田成彬です。三野村により、三井は方向を誤ることなく、幕府から新政府に乗り換えました。益田により設立された三井物産は、金融業に傾きがちであった三井の経営を、より広く、より積極的に利益のある方向に転じさせます。三井の基幹経営体は三つあります。江戸時代から本業であった両替商から発展する三井銀行、そして三井物産、三井物産が政府から払い下げられた三井炭鉱です。益田孝は後二者の設立に深く関わっています。
 孝の祖先は6-7代前に佐渡へ移住してきた医師です。父親鷹之助の代に佐渡の地役人になります。武士ですが、正式な幕臣ではありません。鷹之助は能書と名算に秀で、地元の能吏として出世します。目付役助になり、30俵3人扶持、役3人扶持、役金25両の給付を受けます。私の概算では、石高に直すと約70-80石になります。鷹之助は正式の幕臣に取り立てられました。孝(幼名徳之進)は嘉永元年(1848年)に鷹之助の長男として佐渡の相川に生まれました。相川という地名は現在私が所持している地図にはありません。大佐渡山地が南に延びて、海に落ちるところに相川町はあったそうです。現在は佐渡市、近くに佐渡金山があります。
 孝7歳時、父鷹之助は北海道函館に勤務する事を命じられ、一家は函館に移住します。鷹之助は函館奉行配下の、まあ中どころの役人でした。鷹之助は、北海道の鉱山の探索と開発を命じられていました。この間孝は函館でオランダ通司名村五郎から、オランダ訛りの英語を習っています。奉行所配下の役人の子弟はみな英語を習得させられました。孝の思い出話によれば、函館には日本各地から人が集まり、彼らの中に入った当初は、彼らが話している言葉が全然わからなかったそうです。方言とはそういうものなのでしょう。
 1859年(安政6年)、鷹之助は江戸出府を希望して、許されます。奉行の用人郷純造の斡旋によります。孝はすぐ外国方出仕を命じられます。エリ-トコ-スです。ここで福沢諭吉や松木弘庵(後の寺島宗則)を知ります。しばらくして孝は善福寺に駐在するアメリカの公使ハリスの護衛を命じられます。ハリスの動向を観察していた孝は、ハリスの力量と日本への好意を評価し、後に善福寺に、ハリス顕彰の碑を作っています。1863年(文久3年)15歳時、池田筑後守を正使とする遣欧使節団の一員としてパリに行きます。はじめは父親一名のみ許されましたが、鷹之助の必死の根回しで、鷹之助の家来ということで同行を許可されます。一行がパリを去る時、孝は父親から、欧州に残留するか(そのまま留学するか)、帰国するかの、選択を迫られ、帰国を選びます。帰国後は運上方(税関)勤務を希望します。英語習得のためです。また同様の目的で、幕府歩兵の勤務を希望します。更に騎兵の勤務を希望します。ところが、騎兵はフランス人の軍事顧問の指導下にあったために、かなりの苦労を強いられました。孝は騎兵頭並(多分騎兵中佐くらい)に任じられます。孝は騎兵としては優秀でした。鳥羽伏見の戦の後に、幕府内は恭順か抗戦かでもめます。戦闘指揮官の一人であった孝は勝海舟の主張する開城恭順に同調します。もっとも彼の弟荘作は榎本武揚に従って函館まで行っています。
 幕府瓦解後、孝は静岡への移住を断り、横浜で古着屋を営みます。21歳結婚、古着屋はむしろ細君の仕事であったようです。明治5年井上馨を知ります。多分井上の意向でしょう、大阪で五代友厚が始めた、金銀分析所の経営に参加します。幕府の旧金銀貨の含有量を測定するか、あるいはそれから純金銀を抽出して、金銀を政府に納める仕事です。必ずしも分析結果どおりに収める必要はないので、これはぼろい儲けになります。明治6年、大蔵大輔井上馨、同少輔渋沢栄一の下で造幣寮権頭(ごんのかみ)つまり、造幣局長官になります。再び大阪勤務、この時代孝は造幣寮内に、英語学校、舎密学(セイミ、ケミストリ-、化学)の学校を造り、更に複式簿記を導入しています。高峰譲吉もここで舎密学を学んでいます。
 明治7年、井上が政府を辞職し、渋沢も孝も袖を連ねて政府を去ります。この三人は協議して先取会社を作りました。政府への租米を運送して、転売輸出する会社です。併せて他の商品も扱いました。これもぼろい商売です。まず損はしません。明治9年大久保暗殺を機に、井上は再び政府に出仕します。先取会社をどうするのか?ここで孝は三井家と提携します。介在した人物が三野村利左衛門です。三井が資本を出したのではありません。ただ三井銀行は5万円の過払(オーヴァ-ロ-ン)を認めます。後はすべて孝の責任と経営に待ちます。同時に当時三井がしていた、大島方面との交易も引き受けます。孝の月給は200円、さらに純利益の10%は孝の取分になります。Commision business・請負業です。この前後工部卿伊藤博文から、三池炭鉱(当時は政府所有)の石炭輸出の下請けをしないかと、誘われ応諾しています。これもぼろい儲けです。断るなんて考えられません。そして西南戦争、三井、三菱、大倉、藤田の各豪商の懐が潤ったのは周知の通りです。明治12年、国内国外の物価の変動を、日本内地の商人に知らせるために、中外物価新報を創刊します。この新聞はやがて中外商業新聞になり、現在の日本経済新聞に至っています。当時の孝の仕事振りは、独断、多忙、叱言、情の三つに要約されると、言われました。ともかく多忙で物産の社員も彼をつかまえるのには苦労しました。明治15年には三菱の海運独占に挑戦し、渋沢等と共同運輸を設立します。三菱と共同は猛烈な競争を繰り広げ、結局両社合同して郵便船舶通称郵船ができました。
 松方財政が一段落した明治20年前後、三井にとっての危機が訪れます。まず三池炭鉱の払い下げがあります。三井は運送や鉱業など鉱工業部門では三菱に遅れをとっていました。どうしても三池は欲しい、もしこれも三菱に取られれば、三井は永遠に三菱の下風に立つことになる、と孝は思います。思案に思案を重ねて出した額が455万5千円、次点の三菱は455万2千7百円、僅差の勝利でした。三池炭鉱取得と同時に、すでに官営鉱山の官僚に決まっていた、団琢磨を懇願して事務長として採用し、炭鉱の全経営を委任します。団は孝に請われて三井に入り、そしてそのために後凶弾に倒れることになります。炭鉱払い下げの資金援助として、三井から100万円が出されました。この頃から物産への三井の影響力は大きくなります。ほぼ併行して孝の茶への関心が現れ始めます。
 明治20年くらいから日本の資本主義は盛んに成長を開始しますが、当時まだ松方デフレの影響が大きく、世間では一揆が勃発し、世情は騒然としていました。加えて三井の支柱である三井銀行の不良債権問題があります。ここで三井の役者が交代します。山陽鉄道から中上川彦次郎が三井銀行の副長として迎えられ、銀行再建に全力をあげます。中上川は、銀行資本を政府御用から解放して、投資銀行にしようとします。工業重視です。民間製造業を育成するのが、銀行の任務であり、そうする事によってのみ、政府との腐れ縁を断って、銀行は近代化され、成長できる、と中上川は確信していました。(中上川列伝参照)こうして孝の商業重視路線は変更され、孝は平の委員に落とされます。雌伏の時期です。もっとも孝がそうへこんだ様子はありません。孝は表面に出る事を嫌いました。孝は渋沢と組んでいろいろな事を行いましたが、常に表は渋沢、裏は益田と言われていました。明治34年中上川死去、孝は事実上の三井の総帥として復帰します。
 明治41年孝は、クルップやロスチャイルドなどの欧州の富豪の家政と経営を視察して帰国します。そして三井家の財産と会社経営のあるべき姿を定めます。本来、つまり家祖高利の代に定められた三井のあり方は、総本家、本家、連家の11家が総体として家産を掌握する事、選出された大元方の方針には異を唱えない事とありました。三井の家産は三井11家総体の資産であって、個人所有ではありません。孝はこれを合名会社制に改めます。三井11家がそれぞれの格に応じて株式を持ち合い、当然のことですが、無限責任となりました。持株会社です。
 大正3年ジ-メンスそしてヴィッカ-ス社による汚職事件が持ち上がります。後者の方には三井の幹部クラス二人が関係していました。多分この事件による三井への影響は孝が、せき止めたのだろうといわれています。益田孝にとっての、最後の仕事は、昭和7年の団琢磨暗殺後、の三井合名の方向転換です。団は孝が強引に招聘した人物でした。後任をどうするか?孝はいろいろの名を思い描いた末に、自分にとって一番縁の少ない人物、池田成彬を合名の理事長(あるいは筆頭常務理事)に選び、池田に懇願します。池田は中上川の女婿であり、中上川の影響を大きく受け、中上川死後彼の選んだ幹部が三井を去る中、最後に残った中上川の弟子と言ってもいい人物でした。商業重視の孝とは縁の少ない人物でした。自分が正しいと思うことははっきり言う、そして工業重視、さらに工場労働者の待遇改善にも理解を示す(そのために三井家からは受けがよくない)池田でないとこの難局は乗り切れないとして、団の死後1年以上の時間をかけて、池田を三井合名の指導者に押します。池田がどのような手腕を発揮したかは、彼の列伝を参照して下さい。
 昭和6年幕末に来日して日米通商条約を結んだアメリカ公使ハリスの顕彰碑をハリスが住んだ善福寺に作ります。この行事に数年後参加した公爵徳川家達を見た孝は、寒い中外套を脱いで、かっての将軍様に幕臣としての礼を示しました。1938年(昭和13年)、90歳死去。
 孝の報酬は高いものでした。本来の給料に、三井物産設立当初の約束で純利益の10%は彼の取得するところとなります。明治末年の時点で多分10万から20万円の月収はあったのだろうと推測されます。当時100円で米が50俵(20石、3トン)買えました。三池炭鉱払い下げの頃から、彼は茶に凝りはじめます。茶道の究極は茶器等の収集に尽きます。当時の貨幣価値で何万円もする茶碗が売買され展示されました。孝も例外ではなく、馬越恭平らとともに、茶道具収集に情熱をかけます。大きな屋敷を沢山作り、造園し数奇屋を作り、茶道三昧にふけりました。彼の号は鈍翁といいます。酒は一滴も飲めませんが、女道楽は盛んだったようです。中上川の全盛期、雌伏をやむなくされた時、復帰を諦めもせず、事を荒立てることもなく、時機を見れたのは、茶道三昧にふけれたからでしょう。私も茶道の意義は解ります。日本の生活文化の粋を集めたア-トです。しかし孝のようなことをする事はできません。とても資金が続きません。使う金の桁が違います。私から見れば、富豪の道楽に見えます。
 孝の親族には奇人めいた人物が多いようです。二人の弟は共に優秀な人物でしたが、二人とも脱俗超凡に生き、茶道に徹します。孝の長男太郎もどこか並外れた遊び人でした。妾腹の男児信世は、どうにもこうにもならない道楽息子として人生を終えたようです。父親鷹之助は、最後は素人説教師のようなことをして、周辺のやっかいになり、孝を困らせました。

 参考文献
  鈍翁、益田孝(上下) 新潮社

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