経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、坪内寿夫

2011-03-05 02:58:42 | Weblog
    坪内寿夫

坪内寿夫は1914年(大正3年)愛媛県松前町に生まれています。父親は百松といい船大工でした。その実直さを同町で映画館を経営していた坪内家に見込まれ、婿養子になります。寿夫は弓削商船学校を卒業した後、南満州鉄道に入ります。独立して河川航行の汽船の船長をしているうちに、終戦となりシベリアに連行され、そこで捕虜生活を強いられます。戦後シベリアに連行された日本軍将兵及び民間人総数は約60万人、過酷な環境の中で重労働を強いられます。1割の6万人が当地で死去しています。ソ連軍による日本人捕虜のシベリア抑留は、ポツダム宣言違反です。昭和23年寿夫は帰国します。シベリア抑留に関しては、彼は多くを語りません。よく生きて帰られた、とだけ言っています。帰国した寿夫に両親は240万円の金を渡し、好きなように事業をしなさい、と言ったと伝えられます。この240万円はどうみても現在の貨幣価値で換算すると10億円を超えます。寿夫は銀のスプ-ンをくわえて生まれたことになります。寿夫はみるみるうちに映画館経営を拡張し、数年後には四国全土で100を超える映画館を経営しました。現在と異なり昭和20年代、映画産業はリ-ディングインダストリ-の一つでした。戦争中抑えられていた消費と快楽への欲求は映画を見るという事の中で発散されます。映画の「青い山脈」と歌謡曲の「りんごの歌」は戦後の生活解放のシンボルでした。こうして寿夫は金満家になります。
 1952年(昭和27年)久松愛媛県知事が寿夫に倒産寸前の、波止浜船渠の経営を要請します。寿夫は乗り気ではありませんでした。映画館経営と造船は全く異質の業種です。寿夫が私淑する小林一三は勧めます。またある知人は、乞食になるつもりかとまで、言い切ります。この要請には、寿夫が有する資産を利用するという以外の、意図はありません。寿夫は侠気をだして引き受けます。この時彼は38歳でした。社名も来島船渠と変え、資本金5000万円で出発します。
 経営は独得でした。まず瀬戸内を走る内海航路に眼をつけます。その中で小規模家族経営を行う一杯船長、つまり単身あるいは夫婦のコンビで、1隻のみ船を持って、貨物を運搬している海運業者を焦点において、船を造ります。彼らの船の多くは木造機帆船でした。彼らのために、小型で簡便な鉄鋼船を安く造ります。総トン数は499トン、価格は4900万円です。500トン以上の船は免許がうるさいので、このトン数にしました。溶接方式、ブロック建造など当時最新の技術も取り入れます。支払いは10%自己資金、40%銀行融資、50%は月賦にして、支払いを容易にします。船の月賦は国内初の試みでした。鉄鋼船と木造船では機関関係の免許が違います。船長の女房を、会社から派遣した家庭教師により教育し、機関助手の免許を取らせます。さらに各一杯船主のもとに社員が出向いて注文をとります。これらの試みはあたり、小型鉄鋼船は飛ぶように売れました。速力、馬力、船腹、搭載量、工期に優れ、海のトラックと言われ好評でした。こうして寿夫は中堅造船会社の経営で成功し。四国の大将という仇名を頂戴しました。
 海運業は内航船から近海船の時代に移ります。韓国や東南アジア諸国との交易が盛んになります。食うや食わずの時代から、高度成長の時代に突入しつつありました。船舶も大型化しなければなりません。昭和33年に川崎重工業と技術提携します。年7000万円を4年に渡って支払い、15000万トンの船の建造技術を獲得します。昭和38年にはドックが手狭なので、近隣の大西町に新しく大西工場を建設します。この間高知重工業や愛媛海運を吸収合併しています。この当時愛媛の造船量は45万トンに達し、東京、大阪、兵庫についで日本国内では第四位でした。
 造船と並んで寿夫は昭和34年から奥道後の開発に取り組みます。松山の近辺に有名な道後温泉があります。ある人から奥道後の温泉採掘権を移譲されます。熱心に採掘を試みているうちに大量の湯が出てきました。寿夫はこの地を一大レジャ-ランドにしようと取り組みます。百万坪の土地に、遊歩道、ロ-プウエイ、展望台、野外音楽堂、ダンスホ-ル、劇場、映画館、温泉プ-ル、ジャングル温泉、テ-マパ-ク、動物園、子ども館、そして野鳥観察館などなどを建設します。もちろん豪華なホテルも作ります。圧巻は京都の金閣寺を模したお堂の建造です。麓から見上げる金色の建造物です。また山という山に、四季おりおりの花木を植樹しました。スタ-や有名人を招き、公演や講演を盛んに催します。昭和39年開園しました。道後温泉のさらに山奥に、新たな温泉郷を開発したので、バス路線などをめぐり道後温泉と対立し、以後寿夫は愛媛県の政財界と微妙な関係になります。やりだしたらとことんやる、が寿夫のやり方です。現在愛媛県の地図には道後温泉とならんで奥道後温泉が載っていますが、奥道後の開発は寿夫をもって嚆矢とします。
 海運や造船にいつまでも良い風は吹きません。オイルショックでは照国海運の倒産もあってかなりの損害を蒙りました。その間神戸のオリエンタルホテルの経営再建も引き受けています。寿夫は再建王と異名をとりました。生涯で100以上の会社の更正再建を引き受けています。頼まれれば嫌とは言えず、まず会社の従業員が路頭に迷わないようにすること、を第一の使命と心得ていました。
 1978年(昭和53年)、白州次郎や永野重雄などに頼まれて、佐世保重工業の再建を引き受けます。この会社は戦前の佐世保海軍工廠の後身で、造船業では名門でした。おりからの海運不況を受けて赤字がまし、2000名近くの大量解雇が必要になっていました。退職者に支払うべき83億円の資金がまず問題になります。関係者は政府を動かし、協調融資、元金支払い猶予、利子免除などの特典を会社に与えます。この前提で寿夫は佐世保重工の社長に就任します。銀行の融資には寿夫の個人保証が求められました。関係者は寿夫の経営手腕と同時に彼の持つ莫大な資産の利用も意図していました。問題は労組です。
寿夫は労組に合理化三項目を提案します、週休二日制の廃止、定期昇給・ベ-スアップ・一時金の三ヵ年停止、賃金カットの三項目です。これに労組のよる会社人事への介入禁止が付け加わります。退職金が支払われた直後から、労組の態度は変わり、猛烈な反合理化闘争が始まります。労組側には名門意識があり、戦後ぽっと出の来島ドックを四国の田舎者扱いします。寿夫や来島側としては救済される方が救済する方より、優遇された賃金体系は納得できません。労使の争議は長期化し、5度のストライキが打たれました。寿夫の家に血のついたわら人形が置かれ、抗議や嫌がらせの郵便物が殺到します。佐世保重工の軍事的性格、安全保障の問題、そして米国との外交関係なども勘案され、寿夫は合理化三項目を撤回し争議は終焉します。この頃から本家の来島ドックの経営にも黄信号が点滅するようになります。どの程度佐世保重工の経営合理化が進んだのか明瞭ではありませんが、私個人の意見を言えば、倒産寸前の企業では減資と賃金カットは当然です。日航のようなことになれば賃金は半額になります。無いものは無いが経済の過酷な哲理です。
 昭和56年横路北海道知事の懇請で、寿夫は函館ドックの再建も引き受けます。この件に関しては社内の反対は強く、強引にそれまでの形を踏襲して拡大路線一本槍で進む寿夫のやり方には幹部社員の多くが批判的になります。昭和59年寿夫は高血圧と糖尿病で倒れます。彼70歳の時です。幸い闘病の成果があがり活動可能になりますが、以後は病身を抱えて経営に尽力するはめになります。
 1986年(昭和61年)来島ドックを始めとする来島グル-プは経営危機を迎えます。人件費高騰により韓国を始めとする後進国に競争で不利な立場に、日本の造船は立たされました。それにプラザ合意による円高が重なります。人件費と円高で日本の造船業は国際競争で遅れをとるようになります。構造的な造船不況です。来島グル-プも例外ではありません。このグル-プは多くの企業を立ち直らせてきましたが、その大部分は本職の造船です。日本債権信用銀行以下の銀行団が協調融資を行います。ドック削減などの合理化が行われます。寿夫は代表取締役を降り、実権のない社長になります。代表権は日債銀からきた副社長がなります。そしてここでク-デタが起こります。寿夫の知らないうちに、来島グル-プの幹部は相談し、古参幹部の一人を副社長にしてしまいます。寿夫は人事権を始めとする経営権喪失を実感します。事実上寿夫は会社から放逐されました。飼い犬に手を噛まれたようなものです。しかし噛んだ側にも理屈はあります。
グル-プは経営の優良な部分は新来島ドックに集約させ、負債と不良資産は来島興産という新会社を作ってそこで整理させるよう計らいます。そしてこの負債全部に寿夫は個人補償をしていました。こうして寿夫の全財産は失われます。もっとも来島興産による債権処理は当初の予想よりはるかに順調にゆきました。バブルで土地の価格は急騰しました。株式も同様です。1998年(平成10年)寿夫は死去します。原因は脳梗塞でした。享年は84歳です。
 寿夫は生涯で100以上の会社を再建し再建王と言われました。原点は波止浜船渠(来島ドックの前身)の再建にあります。この時点で寿夫は相当な資産家でした。時代を見通して行う大胆な投資、高度な技術の導入、奇抜なアイデアによる需要の開発、そして合理化があります。こうして稼いだ資産を次の会社に投資します。再建すべきボロ会社の株を買います。むしろ買わねばならなかったでしょう。会社が再建されれば、株価は上がります。寿夫の含み資産は急膨張します。大胆な投資も技術の高度化も需要開発の奇策も大いに結構です。ただこの方策が成功する条件があります。それはその業界(寿夫の場合は造船業)の成長性です。昭和20代からの四半世紀は造船業の成長期でした。戦後すぐの物資不足時代には、物資を国内で早く運ぶ内航船が栄えます。日本の経済が復興してきて国際貿易が拡大すると近海船が、高度成長期に入ると大型タンカ-が主役になります。寿夫はこの推移を見つめ、将来を見通して経営を拡大します。しかし人は二つの時代には生きられません。人件費高騰と円高による構造的不況を、彼には見通せませんでした。この時期つまり昭和50年代になっても彼は従来の強気拡大路線を突っ走ります。佐世保重工や函館ドックの再建救済には幹部の多くは反対の態度をとります。こうして来島グル-プ自体が倒産の危機に襲われます。寿夫はワンマンでした。だから次第に増える反対派は結束し、寿夫が病気療養で前面にでられないのを利用して、銀行と連絡し、寿夫を経営から追います。それもやむを得ないことです。この点では鈴木商店の金子直吉も、大映映画の永田雅一も、ダイエ-の中内功も同じです。彼らとの違いは、寿夫の個人資産が豊富であり、それを巧に利用して経営を拡大させたことでしょう。
 寿夫は長く愛媛県に留まるべきではなかったと思います。郷土愛が強すぎました。経営が拡大する中で、さっさと関西か東京に地盤を移せばよかったのです。田舎の人は根性が小さい。嫉妬深く足をひっぱります。寿夫を担ぎ出した郷土の名士はほとんどが、寿夫の窮境に無関心であったようです。ざまあ見ろ、という気持ちさえ持たれたかも知れません。また寿夫がより大を為そうとすれば、造船のみでなく、もう一つか二つの基軸商品を持っていれば話はちがってきたでしょう。その点ではファスナ-からサッシへ、さらに工作機械へと進んだYKKの吉田忠雄や、カメラから複写機さらに卓上計算機へと進んだキャノンの御手洗毅がいい参考例になります。
 寿夫は一時期日本でも有数の人気者でした。寿夫を主人公とする本は15点、総計150万部に昇り、ベストセラ-だったこともあります。レジャ-ランドを経営しているので交友範囲も豊富でした。特に作家の今東光と柴田練三郎には私淑していました。こういう超人気者であった点も郷土の嫉妬を買った由縁かもしれません。明治の元勲である伊藤博文と山県有朋が故郷の山口県に帰りたくなかったという逸話も参考になります。ただ確実に言えることは、寿夫が義侠心に富み、他者のためを優先し、私財を投じて事業を起こし拡大したことです。その点で彼はなにより陽気な無私の人でした。

  参考文献  夢は大衆にあり、小説坪内寿夫  中央公論社

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