経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、鈴木三郎助

2011-03-10 03:05:46 | Weblog
   鈴木三郎助

 鈴木三郎助という名称の人物は初代から四代まで計4名います。ここで取り上げる人物は、味の素株式会社の事実上の創立者である三代目三郎助です。また味の素KKは創立の事情からして昭和電工とのからみが深く、系列がややこしくなります。鈴木家の祖先は相模国(神奈川県)葉山の中農でした。初代三郎助は勤勉な人物でかなりの財を積みます。二代目は当初投機にこり、財産を失います。二代目の母親と妻が、村田春齢という人物から、海藻からヨウドを取り出し、それを輸入されたチリ硝石と反応させて、火薬の原料になる硝石を作る方法を教わります。二人の女性はわらにもすがる思いで、この方法を試み、やがて二代目も加わって、少しづつ産を為してゆきます。ヨウド製造に取り組みだしてからは、二代目三郎助の経営者としての手腕は遺憾なく発揮されます。こういう父親の子として三代目三郎助は1890年(明治23年)に神奈川県葉山に生まれました。幼名は三郎です。後に三代目を襲名して三郎助となります。なお「三郎助」という名は、ペリ-来航時に浦賀奉行の与力として、黒船に乗り込み、ペリ-の来航の意図を糾し、後に函館の五稜郭で戦死した、中島三郎助の名にちなんだとも言われています。
 三郎は小学校から京華商業学校に通います。父親はスパルタ教育を三郎にほどこします。教育方針は、一番嫌な仕事、一番つらい仕事は、全部息子にさせる、でした。商業学校在学中も家業はちゃんとさせられます。この点では野村證券の創始者野村徳七と同じです。父親の経営するヨウド製造会社は外国製品と競争するために、大倉喜八郎の指導の下で、他の同業者と合同し、日本化学工業KKに統合されます。父親二代三郎助は専務におさまります。
 1908年(明治41年)ごろ東大の池田菊苗が鰹節からうま味の素を取り出す研究を始めました。鰹節を微温湯に浸し、その煮出し汁を低圧で濃縮すれば、結晶が得られ、それがグルタミン酸である事、そしてそれがうま味の素であることを突き止めました。鰹節では原料として高価すぎるので、小麦からグルタミン酸を取り出すことによって工業化の可能性をつかみます。この特許は池田と二代目三郎助の共同特許になりました。こうして合資会社鈴木製薬所が創立され、グルタミン酸つまり味の素が製造され始めます。三郎は宣伝と販売を、伯父の忠治が製造を担当します。売れるはずの味の素がなかなか売れません。なにしろ味の素は、全くの新製品です。化学工業という新手法を用いて工場でできる新製品です。塩や砂糖あるいは味噌醤油のように、その製造過程がだれにでもわかる、その意味で自然な製品ではありません。味の素はなにやら魔法の産物あつかいされかねませんでした。使い方は普及せず、新製品についてまわる誤解や反発は絶えません。蛇を原料にしているというたちの悪い風評には泣かされます。本列伝の主人公三郎、三代目鈴木三郎助の人生は、この売れない味の素をいかにして売ってゆくかという、宣伝と販売戦略の創造の歴史であるといってもいいでしょう。
 三郎はどんな宣伝方法をとったのでしょうか?新聞広告や折込広告は序の口です。チンドンヤも使います。というよりチンドンヤの行列の先頭に立ち、宣伝文句を朗誦し、旗をもって歩くのは三郎の役目です。同級生に会うのが恥ずかしくて、路上を逃げ出したこともあります。地上スタンプという方法も考案しました。大きなゴム靴に穴をあけ、中に白い粉を入れておき、地面に「味の素」と書いてゆきます。道路を汚すとお上からお叱りを受け、この方法はやめました。当時日本に三台しかないといわれた自動車の中古を買い、横断幕をつけて宣伝します。全国行脚の途中名古屋でエンコして、立ちどまります。名古屋には自動車修理の技術を持つものがいず、警察から叱られます。鉄道馬車の中吊り広告もします。現在ではありふれたこの宣伝の手法は三郎をもって第一号とします。吊看板の方式も開発します。諸々の形の容器などに「味の素」と字をいれて諸々の店に吊り下げてもらいます。
 「者」方式と名づけた宣伝を考えます。医者に味の素が健康にいいといってもらいます。座敷で芸者に味の素を使って作った料理の美味しさを宣伝してもらいます。役者にも一役買ってもらいます。演劇の中でアドリブに味の素という語句を挿入してもらいます。公演の一日、最前列の席を買占め、味の素デ-と名づけて宣伝をかねて公演を守り立てます。こういう趣向は前もって張り紙や折込で宣伝しておいて、当日盛り上がるように工夫します。特に曾我廼家五郎一座は三郎のこの企てに、協力的でした。「今日のご飯美味しいな」「味の素を使っているからな」などの台詞は簡単に盛り込めます。医者、芸者、役者それに学者などなど「者」のつく職業は専門的で、その言には一定の影響力があります。三郎はそこに目をつけました。
 三好野という料理店がありました。そこの雑煮は美味で有名でした。三郎は三好野の板前に味の素を使ってくれるよう依頼します。雑煮はさらに美味になりました。三好野の盛名に便乗して宣伝します。都々逸の文句に味の素の語句を盛り込みます。新聞広告では「美味、重宝、経済」という長所をくりかえしくりかえし力説します。大きな広告ではなく、ほどほどの規模の広告をくりかえし載せます。鰹節40グラムが味の素3グラムに相当するとして、いかに味の素が経済的かと説きます。一流商品とタイアップして、それらの商品が売れるとおまけに味の素をつけます。
 「四季の料理」という本を作り、女学校の卒業生に贈呈します。料理の作り方を解説した本です。彼女達はいずれ母親になり料理を作ります。その指針になる本ですが、若い母親には非常な人気で、昭和13年までに数百万部発行されています。もちろん解説された料理の随所に、味の素の語句が並びます。「新家庭日記」という日記帳も出しました。日付、日記と同時に日々の献立も載せます。主婦にとって毎日の食膳のメニュ-をなににするかは、結構面倒な問題です。(うつ病になると献立が浮かばなくなります)主婦には非常に喜ばれました。
 博覧会を利用します。博覧会に出品されたものを使って、料理屋を作りそれを展示し、味の素(博覧会に出品された)を使った料理を振舞います。料理講習会も盛んに催します。アドバル-ンも利用します。垂幕で宣伝するのですが、昼のみならず、夜は豆電球を用いてあかあかと広告文を出しました。
 精進料理浸透作戦なるものがあります。名刹名寺では精進料理が出ます。通常この種の料理は美味しいものです。(例、宇治の黄檗山万福寺の普茶料理)のみならず信者さんにとってお寺に参詣する事は信仰と言う浄化行為ですので、後で出る料理はことさら美味に感じられます。まかないに味の素使用を頼みます。料理はさらに美味になりました。こうしてお寺、僧侶、信者の口を通じて味の素の効能を広めます。富山の薬売りが各地の客に贈呈するお礼に味の素をもっていってくれるよう依頼します。
 家庭訪問による味の素の消費動向の調査もしました。女学校卒で容姿に自信のある女性を公募し、彼らを各家庭に派遣して、調査します。これも宣伝になります。調査員公募の広告だけで一大宣伝になります。クロスワ-ドパズルも利用しました。
 看板での宣伝はあたりまえです。吊り下げられたお椀型、短冊スタイルの柱賭け看板、絵入りの柱賭け看板、五色看板、横書き看板、矢入りの吊るし看板などいろいろあります。圧巻は看板部隊です。あちこちに看板を貼り付けていたら、市町の当局から、町の美観を損なうといわれました。そこで町名を記した木版を貼り付けてまわりました。これは当局からも歓迎されました。もちろん町名の横に小さく味の素と入れます。全国津々浦々にわたりサイドカ-でこの町名入りの看板をつけてまわりました。大野立看板も全国の国鉄私鉄沿線に作りました。
 ともかく三郎はアイデアの人です。広告以外にもいろいろな機知を働かせます。小麦粉からグルタミン酸を取ると大量の澱粉が残ります。これをどう処理するのか。廃物利用を考えます。当時三郎は大阪支店長でした。味の素の販売額は大阪7割東京3割でした。鐘紡の社長武藤山治と交渉します。綿紡績には糊が要ります。この糊を取る過程でグルタミン酸ができます。お互いにとっての廃物は、立場を変えれば必要な原料です。味の素と鐘紡は澱粉とグルタミン酸を交換します。
 取り込み詐欺などで掛け金を踏み倒されないように、相手の商店の信頼度を測る簡単な指標を作成します。社屋が自前のもの、支払いが日々ちゃんと為されていること、トイレがきれいである事、などが指標になりました。
 乱売防止もしなければなりません。乱売は値崩れを起こし、またまじめに定価で売っている店に迷惑をかけます。通常乱売防止の対策は特約店制度ですが、特約店が乱売しないとも限りません。そこで抽選制度が発案されます。かなり手の込んだ仕組です。特約店に卸す荷にナンバ-を付けておき、同時にこのナンバ-を載せた葉書を同封します。小売店が荷を開いたらその葉書に住所と店名を書いて、返信してもらいます。これでどこの特約店が販売区域外に品を流しているかがわかります。協力してもらうために、一定の金額を返します。ただすぐ直接に返したら、値引きになり値崩れの原因になります。そこで特約店の扱い高に応じて、一定の金額の抽選券を与えます。そして年度末に抽選大会を開きます。大会そのものも宣伝媒体になります。
 割戻制度も積立金という形で行います。割戻の金額を5年定期にして積み立て、贈呈金証書という形で特約店に与えます。5年後現金が手元に届くという方法です。玉手箱という仕組もあります。金額も利率も明示しない積立金を作り、それを成績のいい店に与えます。
 経営を引き締めるために、予算制度を作ります。広告費はいくら、交際費はなんぼと決めたら、絶対にその枠をはずさないようにします。無駄の削減も徹底します。例えば、味の素の包装紙の紙の値段を調べます。さらに印刷費、インク代、断裁費など上流へ上流へ遡って費用を調べ、無駄あるいは不当と思われる部分は手直しします。天引貯金といって、経営が黒字であろうと赤字であろうと一定額を積み立てます。予算制度と天引き貯金は当然、店の経費削減の手段ですから、三郎は社員から一時憎まれました。
 1917年(大正6年)、会社は株式会社鈴木商店になります。三郎は取締役、翌々年大阪支店長になります。これよりさき二代目三郎助は、味の素を鈴木商店の主力製品とする方針を堅持しつつも、第一次世界大戦の影響で世界的に不足する火薬の原料としての塩素酸カリの製造にも進出します。会社は元々がヨウド製造から出発しています。ヨウド製造の過程は塩素酸カリの製造とドッキングしています。塩素酸カリの製造過程には電気分解が必要です。そこで大量の電気を作るために、信州の長野電灯と組んで、地元に大規模な発電所を作り、東信電気株式会社を設立しました。そういうわけで鈴木商店は味の素といういたって平和的な製品と、軍需品そのものの火薬の原料製造という二足のわらじをはくことになります。東信電気は後に昭和肥料をへて昭和電工になります。
 第一次大戦は未曾有の好況をもたらし、また戦後には大反動不況を引き起こします。鈴木商店も例外ではありません。倒産の危機に立ち至ります。経営とは難しいもので社長の三郎助は、あらかじめ反動不況を見越して対策を立てていました。そのために株の信用売りで在庫の暴落に保険をかけようとして、逆に暴騰にあい、大損害を蒙ります。どうしても100万円は欲しい。この時三郎は鐘紡の武藤に頼み同額を融通してもらいます。これに懲りて三郎は先に述べた、予算制度や天引貯金を実施して緊縮経営をとろうとしました。かいあって1926年(大正15年)年産12万貫、年間売上総額1000万円の目標を達成します。鈴木商店という名の企業はもうひとつ神戸で金子直吉が立ち上げた鈴木商店があります。二つの商店には直接の関係はありません。
 1931年(昭和6年)二代目三郎助が死去し、三郎が三郎助を襲名します。三代目です。鈴木商店の社長は伯父の忠治、三郎助は専務におさまります。昭和7年社名を、味の素本舗株式会社鈴木商店に変更します。暖簾をまもるためです。余談になりますが、味の素という製品はその普及過程でよほど不思議がられたのでしょう、奇妙な用いられ方をされています。栄養剤、睡眠剤、糖尿病治療薬などとしても用いられました。生魚に注入すると味が引き立ちます。釣りに際して魚を集める装置にも使われました。太公望連中の秘伝であったようです。水虫や寝小便にも効くといわれました。蛇原料説がなかなか払拭できなかったのもうなづけます。関東大震災で鈴木商店は緊急食糧提供に協力して在庫の小麦を寄付しました。大量の小麦をみて、蛇原料説はかなり鎮火したそうです。
 時代は次第に軍事一辺倒になります。味の素本舗は原料供給を削減され、徴兵で労働力も奪われます。こういう中昭和14年50歳時、三郎助は社長になります。軍需産業化を強いられ、15年には社名を鈴木食料品工業KKと変更され、ブタノ-ル、アセトン、アルミナなどの製品を作らされます。
 終戦、1945年(昭和20年)に社名を味の素株式会社に変更します。昭和電工が財閥指定になります。味の素KKに累が及ぶのを恐れ、三郎助は社長を辞任します。3ヶ月後彼自身が追放処分にあいます。戦時中昭和電工の会長になり、ただ1度役員会を開いたのを問われました。追放中は会社に入る事は許されません。失業者です。仕事を失った三郎助は岡に上がった河童同然でした。昭和25年、伯父忠治とともに味の素の相談役になります。追放を解かれ会社に復帰しました。27年同社会長に就任します。以後三郎助には経営上めだった事跡はありません。味の素の社外重役に高崎達之助、石坂泰三、小林中を招き、経営の安全を計ったことと、葉山マリ-ナを建造したことくらいです。1973年(昭和48年)死去、享年84歳でした。「葉山好日」などの著書があります。

  参考文献  販売戦略の先駆者、鈴木三郎助の生涯  中央公論

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