経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本にないもの-「天皇制の擁護 第五章 王家の系譜」解説(2)

2008-11-25 23:25:39 | Weblog
日本にないもの
奴隷制
 この種の制度が皆無だったとは言いません。古代にはという身分がありました。また中世の農村には隷農もいました。しかし彼らが生産の主力になったことはありません。古代のギリシャ・ロ-マでは肉体労働はすべて奴隷により担われ大規模な奴隷市場がありました。近代西欧が勃興する過程で黒人奴隷の果たした役割は重要です。16世紀以降の200年間にアフリカから新大陸に連れてこられた奴隷は約1000万人。彼らに現在の日本人が享受している給料を支払ったとすると、その額は私の試算では日本のGDPの10倍になります。途中で死亡した人数もいれると多分その倍にはなるでしょう。

宦官
 宦官は宮廷の女性を管理するために、生殖器を切り取られ去勢された男性です。この制度は西欧と日本を除いてほぼ全歴史に存在します。特に古代の専制君主体制下にあっては重要でした。独裁者は臣下を信用できません。身辺整理の雑用に従事する宦官を秘密信頼しやすくなります。中国の歴史ではこの宦官が跳梁跋扈しました。特に秦の趙高は有名です。「馬鹿」の語源を作った人です。宦官のすべてが悪ではないでしょうが、このような制度は女性というより人間への不信の極地です。正直私は気持ち悪い。

ジェノサイド 
 旧約聖書はジェノサイドの記録です。ジェノサイドの代表的事例を挙げてみましょう。
 カルタゴの抹殺---ロ-マはカルタゴを滅ぼし、生存者はすべて奴隷にし、都市城砦は破壊して平地に塩まいて、二度とカルタゴが復活しないようにしました。同時期コリントも同様の目にあっています。

 アルビジョア十字軍---13世紀南フランスにアルビ派という異端がはやりました。フランス国王とロ-マ法王は討伐軍を派遣します。司令官は「どれが異端か否かは天の神様が判断してくださる 全部焼き殺して天に昇らせろ」と命じたそうです。以後フランスの南北の経済的力関係は逆転します。

 タスマニア人抹殺---オ-ストラリア方面に入植したイギリス人は南方洋上のタスマニア島の原住民を抹殺します。人間とは意識されていなかったのか、射撃の的にしたそうです。

南北アメリカ大陸にはインデアンという褐色の肌の人間が住んでいました。南米では白人による征服と略奪、銀鉱山での酷使、白人が持ち込んだ疫病で人口は一時期1/10に減りました。北米ではインデアンは居留地という貧寒な土地に押し込められます。私はJ・フォ-ドのファンです。「駅馬車」は好きな作品ですが、あれほど事実を歪曲した作品も珍しいとはいえます。50年前まではアメリカ人の大多数にとってインデアンは凶悪な野蛮人だったのでしょう。
 世界の歴史においてこの種の事例は無数にあります。日本にはほとんどと言っていいほどありません。

傭兵
 金で戦争を請負い雇われた人間です。仕事の内容からして尊敬されません。殺人を生業とする以上それなりの大義名分と倫理はいります。傭兵の動機は金だけです。だから戦争には強いが残忍です。戦争そのものより傭兵の被害のほうが恐ろしい。傭兵の元祖はギリシャ人です。彼らは小さな都市国家を作って戦争に明け暮れました。負ければ殺されるか奴隷です。他国へ逃げ放浪する連中もいます。彼らのほとんどは傭兵になりました。中世の封建諸侯の騎士団がだめになると、王侯は傭兵を頼ります。まずイタリア人、ついでドイツ人、スイス人、最後にアイルランド人などが傭兵になりました。共通する点は、国内で戦争が耐えないか、外国の侵略下に生きる事をよしとしないか、などです。もっともスイス人は土地が貧寒なので出稼ぎでした。フランス革命で最後まで王に忠実だったのはこのスイス人傭兵です。多くの場合戦争が終わればお払い箱です。戦争から戦争へと戦争を求めて動かざるをえません。虚無的になるのは当然、犯罪も多発します。中世から近代にかけての西欧社会で傭兵は最も貧しく卑しめられた階層でした。
日本の歴史で足軽というのが登場します。南北朝期からです。彼らも傭兵です。農兵であり一揆の主力をなす連中です。大名は彼らを傭兵として抱えました。戦国大名の主力部隊は足軽です。彼らは原則的には一年ごとの雇用契約でしたが、江戸時代の大名は彼らを維新まで扶持します。

宗教裁判
 ともかくこの裁判が多いのはキリスト教です。中世になりカトリック教会が社会に魂の支配者になってからは異端審問の連続です。コペルニクスもガレリオも危なかった。ブル-ノ-は焼き殺されました。みな地動説に傾斜したからです。魔女裁判という集団ヒステリ-も一種の宗教裁判です。先にのべたアルビジョア十字軍もそうです。日本で宗教裁判といえばキリシタン弾圧ですが、西欧のそれにくらべるとままごとです。

防衛都市
 城壁で囲まれた都市を知らないのは日本の歴史くらいかもしれません。他の国では近代まで人々はこの壁の中で生活しました。理由は外的への警戒からです。日本ではこの種の心配がないので都市を護る壁は要りません。戦国時代戦争は専門家の武士が請け負います。庶民はどこかへ逃げて戦争を見物しておればいいのです。死ぬのはサムライだけ。だから戦争による被害特に死者の数は多くありませんでした。

議会
 一同が会して丁々発止と議論を戦わせる。これを議会といいます。議会の起源は古代ギリシャです。議会は戦場の討論から生まれました。近代での議会の模範はイギリスと言われています。ではなぜ?以下は本文を見てください。(第九章)
 日本で明確な形の議会は出現していませんが、集団の意思を統一するための制度組織は充分に発達していました。鎌倉幕府の評定衆・貞永式目とイギリスの議会・マグナカルタはほぼ同じものです。

日本の歴史にないものを7つあげました。奴隷制の上に議会がある方が幸せでしょうか?これも本文を参照して下さい。

王家の系譜-「天皇制の擁護 第五章」解説 

2008-11-25 01:43:00 | Weblog
 王家の系譜(1)---「天皇制の擁護 第五章」

比較の対照を英仏露三国の君主制に取ると、日本には7つの王朝があったことになります。内乱による廃位と傍系相続(介在する世代が7世代以上の)を断絶とみなすとそうなります。以下のようになります。

 継体天皇 ---------- 弘文天皇 
 天武天皇 ---------- 称徳天皇
 光仁天皇 ---------- 仲恭天皇
 後堀河天皇 ------- 後亀山天皇
 後小松天皇 -------- 称光天皇
 後花園天皇 -------- 後桃園天皇
 光格天皇 ----------- 今上天皇
           (平成19年2007年10月現在)

この基準で四国の君主制を比較すれば下のようになります。周知のようにフランスとロシアでは君主制は廃止されています。もっともあちらにはロ-マ法王という潜在的君主が存在しますが。
        君主制の継続期間   君主の数  王朝の数
 イギリス   942年       41名    9
 フランス   884年       38名    8
 ロシア    306年       17名    4
 日本     1467年      100名   9

 女帝の数は
   
イギリス 6名、ロシア 4名、日本 9名、フランス 0名

です。実質的に統治した女帝は全くといいほどその国の勃興期に登場します。イギリスのエリザベス1世、ロシアのエカチェリーナ1世、日本の持統天皇です。
 殺害された君主は 

イギリス 1名、フランス 2名、ロシア 2名、日本 2名

です。処刑された君主は英仏露各1名ですが、日本では存在しません。
こう考えると万世一系ではないような観があるのですが、しかしやはり日本の天皇制は万世一系と言っていいのです。なぜかは本文を読んで下さい。