言葉と感覚とは深い相互性を持っているように思う。
感覚とは快感もあろうが話題にしたいのは痛み
朝4時に目が覚めて左奥歯の痛み=鈍痛にそれから一睡もできなかった。
夜中にトイレで目が覚めたりすると枕元に置いている読みかけの本を開いて読み進めていく内眠気が再来してそのまま朝方までぐっすり・・・だったのだがー
今朝は歯の痛みが伴っているので本を読んでもなかなか眠りがやって来ない。とうとう宮部みゆきの「楽園 下」を読了したのだが痛みが続いていてだめ
今度は綱淵 謙錠「戊辰落日 下」を開いて読むのだが同じ。痛みは少しも減らない
起きて痛み止めを飲めばいいのだが眠っている妻を起こすことになるのは避けたい。
我慢して読書を続けていたらとうとう7時になったので「朝のルーチン」(神棚と仏壇の水替え・食卓の朝食の準備ー作るのではない!)をやって、バファリンを2錠飲んで書斎に来た
さて本題。
昨日仲間と毎週月曜日に行っているウォーキングで歯の痛みについて話した。ここで他者に痛みを口にした。痛いという感覚を言葉で表出したのだ。これがまずかったのかもしれない。
言葉にして表現してしまったことで痛みが増幅したような気がする。
近くの歯医者にかかっているのだがどうもいまいち信頼が置けない。
先日伺ったって見せたところ虫歯ではなく「歯周病」という。歯茎が腫れても歯周病でも持たせるクスリはいつも同じ抗生剤と痛み止め。そして効かない
田舎に移住したことのリスク=町にいることの利便性を失ったーかもしれない。年寄りには病院の問題が大きいのだ。遠い所まで毎日通う訳にはいかない。
我慢できないので今日はその歯医者に行くことにする。
バファリンが効いてきた。何だか気持ちが良くなって眠くなってきたぞ
午前中、ボランティアで高齢者の集いに出なければならないので、病院はその後。それまで我慢我慢
「イタイイタイの飛んでケー」
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