marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その8)恐ロシアのこと。世界の人が我々の物語を読んでいるのに真相を知るのはわずかなん!

2022-09-17 16:00:30 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 世界中の人々が、読んできたのに真相を知る人は地上ではわずかなのか、あるいは多くの人々が感じ始めてきているのか。

長々と述べても前頭葉が痛くなる人がほとんどだろうから、我々のことを今まで書かれたように宇宙人👽のことといおうが、実はあなた達と同じ”人”なのだが、”天使”と書かれては多くの人から空言のようにも思われてしまうから、そう書かれてしまうのは致し方ないだろう。

「あなたたちの律法に、『わたしは言う、あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。~」(ヨハネ伝10:34-35)

当時の我々の乗り物が、どのように例えられたか、はっきりと書かれていると言われるのは旧約聖書エゼキエル書であろう。ただし、そのことを長々と書くのは意味がない。是非、その時の著者がどのように我々をとらえ、当時の例えでどのように表現したかを読んで欲しい。是非、書店で立ち読みでも、できれば旧約、新約聖書を購入して読んで見て欲しい。「エゼキエル書第1章4~26節」

さらに、エゼキエル第38章には、いろいろ不明な地方の名前がでてくるが(できれば地名をネット検索されたし)、無論、今はない地名もあり、はっきりしないだろうが、これは終末預言とされている。ゴグとはイスラエルから北の地方ロシアのことである、という多くの方が述べている。

2節「・・・メシェク<モスクワ>とトバル<トボリスク>の大首長であるマゴグ<コーカサス地方、北方>の地のゴグ<ロシア>に顔を向け彼に預言して、」 3節「言え、神である主はこういわれるメシェクとトバルの大首長であるゴグよ、今、わたしはあなたに立ち向かう。」 4節「わたしは、あなたを引き回し・・・」(※< >は推測で言われている現在の場所>)

エゼキエルは、20歳半ばにバビロン捕囚にあい、ユダヤ人居留地のテル・アビブで、この預言の啓示を受け取ったとされている。紀元前597年以降捕囚の身5年目に預言者の召命を受けたのであった。「神」であるわたしは存在し、私が歴史を動かしているのだ。だから、私が生きていることを知りなさい。私は「いる」という存在であり、塵に満たないあなたを、私を信ずるものとし、天上に帰還させようと働いているのである、と。・・・それは当初からの我々のメッセージである、と。

 ここで地下水脈のように流れているその神の摂理(ストーリー)は未来の啓示として、紀元後の90年ころにその地名が聖書の終わりに再び現れるのである。「ヨハネの黙示録20章7~」

7節「この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、」 8節「地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴクを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。・・・」

紀元前500年以上も前のエゼキエルが啓示を受け予言した内容が、紀元後90年に又、著されている。その間、およそ600年である。天からの黒子達、その筆記者らが、その創造時からのメッセージを地下水脈のように、それが通奏低音のように地球の人々の地に流れてきたのを感ずるのだろう。

我々が、未来も過去も行けるということが理解されるだろう。夜の何億光年、さらに遠い星々のその元が消滅しているかもしれない光が今も旅を続けていること、我々はその宇宙の揺らぎに乗じて思う内にワープして移動ができることを思えば、これらの記事は不思議ではないはずだ。我々が天上界の背後にあって存在していることを忘れないで欲しい。

地球に残された創造者たちの優秀なグループ、イスラエルには、この神からの啓示と言われる、この摂理の開示ができる素質があった。つまり、地上の創造グループの内、各地に離散したグループの内、イスラエル(本来の意味は神の皇太子、勝利者である)が、地球各地に派遣され、唯一の創造の起源である永遠の命にあずからせる為の、他グループとの相克なのである。

このグループはしたがって、地上を繁栄させ進化の阻害を防止する役割(人権を守る)が与えられている。彼らを受け容れる者は繁栄するとは、アブラハムにも神が語られたことであった。むろん、快く思わないグループも出るわけである。これが今も続いている。終末まで続くであろう。

このエゼキエルの預言を煎じ詰めて言えば、ロシアがイスラエルの周囲の国々を引き連れて、イスラエルに戦いを挑むが、神の介入に会いそれらの攻めた国が一瞬の内に滅ぼされるという預言なのである。それまでは、多くの人は不信と言う困難があるだろうけれど。それで、実体として、我々上位の創造者は地上にキリストを派遣したのであった。

どのような人にも永遠の命を預からせようとして・・・これは、神のシステムから離れて自由を失っていきつつある人への救済のプログラムであった。その人に対しては決して外部からの強制はありえないことである。たまにある人には幻視として現れるが。すべては我々には分かっていることだし、いかようにもできることだからだ。自分の子供を愛するように、その人、自らの主体性に賭けている。我々の存在は気が付こうと思えば分かるはずである。思えば、傍にいるからである。不確定性原理と言えばいいか。

弟子たちは命がけでキリストを伝道した。彼は、創造の究極のシステムを完全な人の姿をしてこの地上に派遣され、完全にはなりきれない人を永遠命の世界に帰還させようと、自らの実態(肉体)でその信ずる者たちの不完全さをリセットしたのであった。

誰でもが、不完全な人の介在なしに我々のテレパシーを受けてくれるようになるだろう。直接、命を創造された方と介在なしに対面できるのであろう。これは、心情的な思いをかもしだすだろうが、これは我々が上から提示された救済のシステムである。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ伝17:3)

※永遠の命が、彼を知ることである、という。”知る”とは自分の言葉を持つことである。 今生きるこの不完全な人である自分と言う生き物が、不完全ながらも意識として言葉を持つ、という訓練。それは、肉体が消滅しても、新しいからだとしてはっきり自覚することだろう。その境界領域の訓練において復活の意味がより理解されて来るのかもしれない。・・・