marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(780回) 内村鑑三『余はいかにして・・・』第九章・・・神学に触れる

2021-01-19 11:05:22 | 日記

◆今日は、吹雪、窓枠にも雪が貼り付いて、朝、強風で目が冷めた。雪深い山奥の寺でも朝早く4時ころから、住職、雲水らがお勤めがされ経を唱え、坐禅を組む。寝起きに僕は、いつもこの時間帯にも、すでに雪深い山奥で、坐禅をしている雲水がいるのだ、この時間にすでに、と思いつつ意識を目覚めさせる。それらが行われている限り、この国は滅びないだろう・・・。◆アメリカ、キリスト教国の混乱。このような時こそ、内村の「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」の第6章以降のキリスト教国アメリカに渡った以降の体験記は、多くの人に読まれるべきだと思う。”これを読むように”とは、かつてどこの教会の牧師からも聞いたことがない。学びとしてはあるだろうけれど、少なくとも僕はなかった。それは、彼自身も序文で書いているとおり、「いかにして」であって「何故」ではないからである。実際、信仰を持つということは、「いかにして」と言うような自分が主体として受け入れようというものでは、決してないからである。いまでも、”まるごとわかるキリスト教”などという本はあるが、人の言葉の知識としてはいくらも増やせるだろうけれど、最終、人の書いた文字や言葉を越えたもの(ここが肝心)だからである。したがって、内村の本は、入信するための体験記とはなるが、これを理解すれば(すでにそこに人の言葉で表されているという限界がる)信者になれますよ、というものではないからである。◆科学的な思考も充分であったし、武士の流れをくむ、先祖伝来のアイデンティティーもしっかり持った(ここに古代、大陸から東まわりで日本に流れ着いた”信仰の核”のようなものをDNAに受け継いでいたのだろうと思われるが)内村の、特に「第9章のキリスト教国ー神学に触れる」の章は、とても鋭い的を得た常識的見解であると僕は思われてならない。ここで、真の命を与えられている、誰にも変わることができない自分と言う存在に、”霊の経験の実在感”とう個人的体験が言葉として出てくるのである。最終、信仰を持つとは、今も生き、動き、働いている神の側からの一方的な啓示によるものであるのです。・・・続く