marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(774回) (その2)神学に必要な「自分で考える」ということ

2021-01-07 06:42:26 | 日記

◆僕がなぜ、澤瀉久敬(おもだかひさゆき)の古い過去に読んだ文庫の再読に引かれたのかと言えば、世界のベストセラーを学ぶ(「読む」ではなく、この国においてキリスト教神学を学ぶと言い換えてもいい)人々の心構えということに必要な前提であろうなと思われたからなのである。だから、僕はこの国の歴史にも関心があって、この国の古来からの人々がもつ信仰心というありどころ、その所作や伝統に残されてきたところの形にもその本来の、本当の行き所を提示しく求めたいがために学んできたところなのです。現に形としても伝統としても残されて来ていることがあるではないか、そのおおもとは何なのかということ。言葉が文字となってから、歴史が始まるのだろうが、結局、信仰心、まして神が人を創造されたというその神を求める、慕う、願う信仰心というものは、文字以前のことだからである。しかし、僕らは、神を求め、学ぶにしてもその「学ぶ自分」という当然のことが分かっていない。本当の歴史も教えられていない。だから、イエスが「自分を捨て・・・我に従え」などと言う言葉にであうと、面食らってしまうのである。◆「人と言うのものは誰でも過去をもつ、自分の過去を現在に保存しながら、現在の自分をふくらませることによって、はじめて自分と言うもの、すなわち他人ではなくこの特殊な自分というものが形成されるのである。文化と言うものはそういうものである。・・・現在とは、拡がった過去を現在の一点に集め、それを更に未来に開いてゆくものである。それは、拡がった過去と拡がった未来を結ぶ一点である。・・・現在とは扇子の要なのです。」(「自分で考える」ということp84~86)◆欧米の哲学や特に実存主義などは、まさに自分とのすべての関りを言葉にすべくための格闘だったのではないだろうか。イエスは、生きているというその彼との対話であり、格闘であった。「天国は激しく攻められている、攻めるものがそれを奪う」の言葉のとおりである。先に書いた二つの「J」のためにと、この日本を愛した内村鑑三の信仰心は、神がこの国を導かれているに違いないという確信があったからなのです。しかし・・・  続く