marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(660回) (その2)退任牧師との会話(世界の人々への伝道)

2020-04-26 22:19:57 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

◆先理解として、キリストを神の子として信ぜず、預言者の一人であるとのみ信じているユダヤの人々も、無論、キリスト者の大切とされている先理解の物語。旧約聖書の初めから、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記 (モーセ五書と言われる)。そして、大きな一区切りとなるそのあとの神の示された地に入ったモーセの後を継いだ物語のヨシュア記。とても重要で大切であると言われているのにも関わらず、その物語の中の異邦の地にいたころの信仰の持ち方、神の存在ということをどうして学び、声高に語り継がないのでしょうか。この国は異邦の国であるにも関わらずです

◆ただ一点、ヨセフが幼いころの境遇と解夢の能力、兄弟に裏切られ、奴隷に売られ、夢を解く力の故にエジプトの宰相まで上り詰め、最終、一族同胞を救済するという内容が、イエスの救済物語に投影されているところのみですね。創世記50章19節 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あんたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。・・・」困難試練を、その時は訳がまったく分からず不幸に見えようと、神はすべてのこと相働きて益となるを我らは知る(パウロの手紙)、すべてを神はよきに計らって下さっているのだとうこと。旧約で重要とされているこの創世記からの物語を僕らはさらに深く創造主と言われる歴史の演出家、神の存在を学ぶべきかと思います。

◆一応この国の歴史から、ほとんどの方が確かなる信心はどうかだが、失礼でない言い方をすればしっかりとした知識としてではないであろう、先祖が一応それで葬られて来たからという意味でのみの仏教、あるいは神道であろうと思われます。ここで先の”しがらみ”から言えば、多くの人は伝統、風習でそうしてきたからという先理解があるということになりますね。そういう人たちからすれば心の問題、信仰心を人の言葉で理詰めであれこれというのはとんでもないということになりますが。しかし、死者を弔い、先祖を思うということが、創世記から始まりヨシュア記の最後に記されていることに僕らはもっと考えを深くしなければいけないと僕は思っています。・・・続く 


世界のベストセラーを読む(659回) (その1)退任牧師との対話(世界の人々への伝道)

2020-04-26 07:52:38 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

ほとんどが仏教であるこの国の人々の信仰心について、僕が思わされていることです。旧約のヨセフ物語を掲載した理由について。

◆先の旧約聖書のヨセフ物語は、イエスを信ずる人ならば誰でも知っておくべきとても大切な物語ですね。まさに、先(前)理解の重要物語です。初めに学ぶこと、キリストの神とは、地上の肉なる人という生き物が機械的言語化される対象物ではないということでした。その理由は人が作られたものとされているのですから、作者(創造者)をすべてわかったように話し出すこと自体が本末転倒ということになる訳でした。ですから彼らイスラエル人は神の名を言葉にすることも畏れ、何というのかも忘れたくらいでしたからね。ですからアドナイ(主)と呼んだのでしたか。先のヨセフの物語は、その対象そのもではなく地上の選ばれし人のあしらわれ方を学んで神という方はどういう方であるかを示しているのでしょう。この国、そして異邦人のいずこの国の創造されし肉なる人という生き物がいるところにおいては、とても真の神という方を知るために大切な物語だと思っているのです。神は観念的なものではなく、実際、人に働きかけれ歴史を支配されてきた。だから、「わたし(神)は、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」と言われるのでした。それは家の代々の神は・・・ということではなく、彼らのわたし(神)が行った導かれ方、そのあしらわれ方を見なさいという意味でした。この物語にはとても異邦人にとっても重要な内容が含まれていると考えます。そして、いまもれ歴史を見なさい、時代を見なさいと神は言われているのではないでしょうか。

◆その時代、時代に生きる人間。僕が”しがらみ”と呼んできたもの、つまり人が生きている内に、その伝統、因習、社会、時代、生きてきた環境、さらには個人的自分でも意識していない気質など、あらゆるものから影響(制約)を受け、自分という意識を持つその要因というそのものです。新約時代、イエスが闘ったのもその時代までの凝り固まった”しがらみ”に対してと言えないでしょうか。当時、常識と思われていたそのことの否定をとおして、世界中の創造せし人類救済のために、自らの訪れ(突入)を拡散とし知らしめるためにイエスが地上に(神は独り子を派遣)遣わしたということになります。

◆最後に”しがらみ”として残るのは、今生に生きる自分という肉の欠片です。それも、必然的にこの世を去っていかねばなりません。ほとんどの宗教のここに行きつく。イエスは真理は私だと言った。真理の追究、西洋の哲学、思想史などは、ほとんどが彼の十字架から始まっている、それが底辺に流れていると言って過言ではないと思われます。無論、地上の歴史はもっと古くあった。ギリシャ哲学もつまるところ彼、イエスに係わる人が神の創造せし、この地上の人間のいかなるものかを追求するために備えられていたように思われますね。使徒パウロはキリストの霊に遮られ、マケドニア(ギリシャ)に行き、そこから手紙に書かれたところのまさにパウロ神学というもの、言葉の宗教となっていったのでした。近代になり”しがらみの塊”となっていく宗教を排除しつつも結局、哲学者、思想家が求めたものは、それはつまるところ”人とは何か、人に係わるすべて”だったのです。その追及は何故なされて来たのでしょう。それはあからさまに言語化することを哲学などではおこないませんが、彼イエスが示していたのは、復活、永遠の命という希望であったから。それが底辺にあったからと僕は思っているのです。・・・続く