marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(656回) 天気がいいので田舎へお墓の掃除に行く

2020-04-23 16:23:27 | 日記

 ◆2020年のイースターを超え、新型コロナの大変な中、外出禁止のお触れが全国にでるその前に天気がとてもいいので、裏山をとおり田舎へ行ってきた。途中、いつも山菜のまだ季節にはなっていなかったけれど、春を迎える山々や道端の花を見て、太陽が出ている青空に気分も爽快。気持ちがいいなぁ・・・と。ふきのとうは少し大きくなっていたけど小さなのを一つ、土筆(つくし)を数本採った。

◆お墓につくと墓石に彫られたミツ婆さんの戒名の上からべったり鳥の糞がついていた。ミツ婆さんは僕をとてもかわいがってくれた。村のみんなからは慕われてそれでも厳しい人だった。それで、お墓を見たとき、あぁ、これかぁ とお墓を掃除しなければいけないなと何となく思わされてきた理由が分かったような気がしたのだった。

◆キリスト教のことを語りながら、いきなりこの国のしきたりたる宗教の現場である。多くの読者へはこのようなことは序論の序論なのだが、これを語らないと本当の神様のことは分からないのではないかと書いている。僕の先祖は真言宗なので一応仏教の範疇ではある。それでも、この国の信仰心というものを僕は全く否定はしない。日本の代々のクリスチャンであるという家の方は、教会のお墓にはいるだろうが、日本の大部分の方は仏教徒である。僕の知り合いのクリスチャンの方の多くもお寺さんに先祖のお墓がある。それでもキリストのイエスさんを信じている。何も矛盾は感じていない。

◆それで、もっとご自分の家の仏教を調べてほしいと思っているが、否定ではなくそれをも許容してイエス・キリストを信じて欲しいのだが小難しい話になるのでやめる。しかし、手短に書けば、「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に帰依する)は聖書の真の父なる「神」に同じ、あるいは似ている。日蓮さんのは「南無妙法蓮華経」(妙法と蓮華の教えに帰依する)ですが、阿弥陀仏は、たくさんあった宗教が混然一体となっていた隣国のあの時代に観念的にできてきたもの。真言宗、空海さんも何が確かなものかを求めて唐へ渡ったのだが、そこですでに西から来ていたキリスト教に触れていた。さて、さかのぼること国家神道(これは明治期になったもの)以前の国家成立以前の古い時代の天皇バックボーンの古代神道に、先祖を敬う仏教が融合したのはおかしなことではなかった。これはあくまで心情的な話でのこと。(大化の改心など起こったが、政治的なことは抜きにして)現在では、天皇家は、神道も選ばれしお寺も菊の御紋を掲げている。そこで、僕がいつも聖書の中で思わされる記事。それは、やはり、昔思った聖書の疑問に行きつく。******

◆ご先祖を敬うということは、聖書旧約では、おかしなことではなかった。ただ、彼らは家畜を飼い、遊牧の民だったからは固定かされる墓というのを、早くから地上の一時期の眠る場所と考えていたということ。選民族としての役割が、つまりキリスト教が世界宗教となる彼らの生きる状況設定から既にできていたということになる。先祖はとても大切にされていたことを忘れてはいけない。だからこそ、先祖の歩みがあって現在の今があるのだということは、代々、文字として大切にあらわされてきたという理由につながるのだ。・・・続く