marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(502回目)(その1)新しい時代の始まりのための誰でもが通過する個人的障害

2018-04-19 07:00:00 | 日記
 500回を越えて小難しい話がつづいてます。この地上の駄目さ加減の露呈であることに、本当に僕らは気づいて行かなければいけない。大義名分はどうでも・・・・。真実は、闇の中でも地球の裏側では、命が善か悪かの演出で失われていっているのだから。その演出ごときに僕らが気づき始めたというのは、人類の考えの大きな転換を図るべく、今までの人類の考えの終わりの始まりを感じてきたということなのだろうと思わされます。
◆新しい時代の始まりということも言えるが、人の体のつくりや、僕が述べてきたところの”肉体に引きずられる言葉”の仕組みが変わらない限り、つまり、結局はそれに起因する今までの道徳観とか・・・もろもろ、歴史などを実はこうでした・・・と暴露されても? びくともしない芯の確かな生き方の根を僕らは持たないといけないのだろうと思っています。 でなければ、これからも様々なメディア関係情報に振り回されることでしょう。それには、やはり肉体の痛みを伴って理解しないとまさに身に着かないということになるのだろうが、キリスト教では水浴びしたり、まして火をくぐったり、お題目を何遍も唱えると言う肉体に負荷を与えるような苦行などはなく、パウロの手紙(新約聖書)などを読むと、このようなことは人の罪というものを(ここでは原罪というもの⇒このような言葉自体は出てきませんが、人類の創始アダム以来の、という意)拭い去ることは、決して出来ないということがしっかり書かれています。では、そんなの考えずにやめるのかというとそうでも無い。ここに、宗教ありきとなる、どうどう巡りなのですねぇ。ここに、イエスがキリスト(救い主)であり、他の宗教とは絶対的に異なるのだという理由があるのです。(無論、決して他の宗教を批判しているものではなく、永遠のパラダイス、仏教で言えば涅槃になるのでしょうか、そこにイエスの十字架がストレートに入るパスポートを与えてくださったといことになるのです。ここが他の宗教と絶対的に異なることです)。
◆思いを身につけるということに対して、その他、臥薪嘗胆(ガシンショウタン:これは修行ではないけれど思いを遂げるために体に過酷な環境を与えて念ずるという意味あいがある)という言葉もあるくらいだから修行そもそもが肉体に過酷ないじめをすること自体を考えると分かるような気がしないでもないけれど、それは、頭と体の痛みを伴う体験をし、その目的を身につけるということ程、つまりは人というのは駄目な存在なのだということだ。普段の生活では、とてもそればかりはやってられないということで、仏教でも、キリスト教でもイスラム今日でも、日常の生活、仕事も修行なのですよ、という教えはありますね。
◆では、天地創造のイエスの父なる神との古い契約ではどうだったのか、試練があるということは、人は信条など思ったり考えだけでは身につかずということだった。旧約聖書に、預言者の言葉に民はアーメン(その通りです)と誓う処が何度も出てくる、が結局、思いだけでは貫けず、その後、大変な肉体的にも試練を受けるという歴史を歩んできたのだった。で、僕らも生きる上での試練は神からの何らかの教えであると思うべし、です。「自分の十字架を負ってわたし(イエス)に従いなさい」とイエスは語られた。ここで、自分というものは・・・という言葉が要求されてくるのです。
◆それで。どうして争いなどあるのか?? これも試練と言えば、大いなる試練である。
 今回の議論の中心は、表題について・・・つまり、宗教議論など取り去った時に、そのそれぞれの観念的な事柄についての議論ではなくて、それらの教えを受ける側の僕らと言えばいいか、その事実の有様はどうなんだ、とよく考えて見ることなのです。そこで、ここで又、後退するドン引きの話にどうしても、一度なりとも、誰にでも、そのことは一度、通過しないといけないことになっている障害が現れるのです。
◆それは、キリスト教では「人の罪」ということ。仏教では、お経には罪という言葉が出てこないが懺悔という言葉がある。カトリックには懺悔の告解室があるのはご存じかと思います。そうです、日本の方の多くは自称仏教者なのだろうけれど、唱えるお経の意味は坊さんにお任せして殆どの人は分からないのではないだろうか、ですが仏教でも必ず懺悔というものが必ず唱えられているのです。で、理屈っぽくなるが冒頭からの議論について言えば、不完全な欠点のある人が万物の霊長と言われていても、極限まで不完全なる肉体で修行をしても通常人には、限界があるということになる。使徒パウロは、時代を遡り、旧約に書かれてきたとおり創造者なる神が、人を創造した起源まで遡って、アダムに罪が入ったのだから(原罪)以降の人は、父なる神が独り子イエスをその罪の解消として十字架にて抹消しない限り、永遠の世界には戻れないこと、そのために新しいまことの人イエスの十字架があったことの意味を発見したのだった。(新約聖書「ローマ人への手紙」参照)・・・ 続く