marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(500回目)ブログ500回記念 『人の原罪』(その5)『ひとはなぜ戦争をするのか』 

2018-04-14 10:36:52 | 日記
 500回記念 今回これまた、大層な表題を掲げてしまった。もっと華々しく、明るい内容したかったのですが、このブログのシリーズ掲載内容からすれば、記念としてはドン引きのような表題としてしまった。 
                                                             
◆しかし、時代が時代だけに、この国もほころびが出てきて、例のごとくの暗く重い内容となりそうだが一つの区切りとして掲載。その前に、現在のシリアの現状があのような事態は、先に書いたブログの前半、曰わくアメリカとロシアのシリア国に入り込んでの政府につくか(ロシア)、反政府側(アメリカ)に付くかの勝ったり、負けたりのその背後での代理戦争。国民は大変な惨状であるということだ。真実はどうかも不明の中でメディアを利用し世界中の良心への訴えを駆け引きの中でやっている。このような争いは、あからさまに地球の裏側の僕らにも分かるようになってきたのであるが、紀元前の古い時代から行われたきたことなのだ。あっちにつくか(つかせるか)、こっちに付くか(つかせるか)なのであっていずれ大国側、否、大国になろうとする仲間内を増やそうとの演出、事件を起こすわけである・・・が、犠牲になるのは弱小住民である。
◆あの時代、今の大河ドラマ西郷どん(これが今年大河ドラマになったのはやはり意味あること)や、勝海舟や坂本龍馬などは、最後に、こんなことでこの国の内乱で揉めている場合ではないぞとこの国を守らんと江戸幕府開城を画策する訳なのであるが、海の外からの国はこれまた、キリスト教というさらには、その先の旧約という天地創造来の歴史どうのこうのという地上の劇場の上での戦争(武器)や技術(それを文明といったらいいか)を持った人という生き物のこれまた大変なドラマを歴史体験してきた”しがらみ”だらけの体制がなりたっていた国々であった。
◆僕は日本史の中であの時代、この国が海外に目を開かれて行った時代、武士が終わりの時代、どうもよく分からんかった、どっちがどっちについてどうしたいのか・・・。いろいろ、知られてくる歴史上の人物は出てくるが、その時代も背後で動いていたのが外国の国々であった訳だ。僕、函館の五稜郭に行って函館山にも一度登ったことがあるのだけれど、榎本武揚などは反政府側だったのに後に政府の要職につくんだなぁ。これはなんだ、武士の端くれのくせに・・・と白黒言いたくなるのが今の僕らの常なのではあるが、彼はオランダに留学してんだな・・・ つまり、数段上からの、そして将来を見据えてこの国を思う優秀な奴は、要職について、日本の国作りのために励んでくれ、このままでは諸外国の属国になってしまうぞ、と気づかされた訳だ。(今の日本には、そんな議員はいなそうだけけれど)
◆ここで、なんでオランダなんだ? ここで歴史は西欧のキリスト教文化に触れざるを得なくなる、そしてあの江戸も鎖国時代・・・。鎖国から免れて出島に来ていたのはオランダだった。ここで、以前のブログに書いた遠藤周作の映画「沈黙」にもつながる。鎖国時代、すべてのしがらみから解放された世界の窓口があの時代のオランダにはあったのだ。ユダヤ教から破門され、”しがらみ”から逃げ切った僕の好きなスピノザもオランダの哲学者なのである。彼も以前ブログで紹介した。ここでの”しがらみ”の気分の悪さは僕が以前ブログで紹介した芥川賞作家、米谷みよ子「過越の祭」に出てくる道子の心情にもなるのです。
◆『ひとはなぜ戦争をするのか』・・・
キリスト教的に煎じ詰めて言えば、それは人の罪、神から離れた人の罪、究極は原罪(original sin)があるからということになる。いきなりこんなことを読まされても身も蓋もないが。しかし、キリスト教が広まらない理由に、それは自分の言葉を要求されるからでしょう、と書いてきた。簡単に書いたが、実にこれは人の意欲にとって自分の後退した朽ちていく肉体からのしがらみ(真の自由への束縛となっているもの)を探れ、つまり自分を知りなさいと言われているような実に気分が悪くなるような要求でもある。実は、「過越の祭」の中の、今も世界中の彼らと言っていいが、祭りを記念するユダヤ人、彼らは実にその気分の悪さに耐えて生き続ける人々でもあるということである。そして、この気分の悪さは、いかなる困難にも耐え得る力ともなっているものなのである。神の似姿に創造されし人とはいかなるものか・・・ 彼らは、ひたすらこの一点に関心を寄せ、生活する。
◆「ひとはなぜ戦争をするのか」 次回、その紹介を少ししましょう。

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 この地上に生を受けた人間は、あらゆる自分の欠陥を見つめて経験しつつ自己を、自分の言葉で言い表し続けて、その中から光を求めていく。そして、この不完全な肉体は、いずれ朽ちて消滅していくだろうけれど、この地上に生を受けた宿題をすこしでも解決して、その光につつまれて、次の世界に旅立っていくのである。・・・