marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(501回目)(その6)『ひとはなぜ戦争をするのか』 A・アインシュタイン/S・フロイトの手紙

2018-04-17 07:48:56 | 日記
 
◆掲題の本は、講談社学術文庫から出てます。500円で時間のある方は、立ち読みOKの本屋さんなら小一時間で読めそうな薄い本で、かの物理学者、相対性理論のアルバート・アインシュタイン、かたや精神分析理論創設のジグムント・フロイトとの往復書簡です。このような手紙が公表されなかったのは、当時、ヒットラーの時代だったからとのこと・・・。フロイトは、僕が学生時代に読んだ人なのだが、僕の頭もそのときは全てに関して創世期? 「夢判断」とやらは、どうもこじつけのように思われて・・・しかし、この本(手紙内容)もすでに古典となったのか表紙に書かれてますが、先ブログで紹介のこれまた古いあのアクィナスの神学大全の「永遠法」「自然法」、そして、人の時代により替わる「人定法」などから言えば、人の目に見えない、一人ひとり、精神を現象を言葉で理論付けようと試みてその学を創設したことは、大変な進歩を人々にもたらしたものだった。これは、つまり、人の内面の不可解な事柄=人定法の不可解な部分を、その当の主人公たる人の内面を解析し、つまり人のありようとその志向性を言葉化すると言ってもいいが、そのために、自然の中の人としての解析(脳はどうであり、環境はどう考えに影響し、また、どういう遺伝子をもっているかなどまで・・・)さらにその原因は、などの理由としての探索(つまり「永遠法」に如何に理由付け出来るか)などの、神の望みたもう世界?に遡り、その普遍化、その意味づけを自らの言葉で行うことに他ならない。その知的作業は、今も続いていると言えるのですが・・・。
◆何を言いたいのかと言えば、人が文化の進歩過程で、その進歩というそもそもがその人が自分に関する、そして他人についてさらにはその集まりについて、過去、現在、未来についての言語化、つまりは意識化を行い、われらは如何に生きるべきかなどということが、心の底にあって、その人の願い、欲求が公の進展、他の人の快楽の達成をも促すものであるという基本のような中に何故、その舞台と主人公を壊すような事態が生じるのかという人類の不変の問題が発生する原因とその解決は如何に、ということである。先のブログには「人の原罪」などということを書いたが、当然、そんなことはこの本には書いていないが、その説明が書かれていると思えばいい。後の解説Ⅰは解剖学者の養老孟司さん、精神科医の斉藤 環さん(彼は、結局「生きそこに存在する個人に行き当たる」とし、いかなる場合にも優先されるべき価値として、個人の「自由」、「権利」「尊厳」が必然的に導かれるとし、日本国の平和憲法を賞賛している。こちらも今の目線で書かれているので得るところがある。古典となったこの本の中で、当時、精神分析創設のフロイトは、こう書いている・・・
◆煎じ詰めれば、「人間から攻撃的な性質を取り除くのは困難である」と。で、その解決は、未だ人は、この宿題から、現代でもおそらく抜けられそうにもない。それから時代が下り、人(生き物すべてと言っていいか)の遺伝子、ドーキンスの「利己的な遺伝子」。 「生と死への欲動」なるものは拮抗状態に常に有り、生命を維持し続けるには、必然に人には遺伝子の中に備わっているものであると・・・。その中間の道徳律のような事柄は、まだ、この肉体が守られている内の平安状態において、今の法でいえば、生命と財産の侵害を起こすようなことをしてはいけないということになるが、その人の良心となるものが主張されるとき、例えば平和のためにとか・・・そういう中にも煎じ詰めれば他を排他する、命を侵害することをなそうとするものがあると、どうしようもないものを人にはあるということだ。”一人を殺せば殺人だが、多くを殺せば英雄になる”という言葉があるように。ここでも「道徳的人間(個人)と非道徳的社会(集団)」など、全ては、繋がる訳だ。ジグムント・フロイトは、解決策として、「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」と結んでいます。
◆人は、そのような第一の人の存在を認め、エラン・ビタール(これは確か創造的進化というなかでベルグソンが語ったもの)なるものは、そういう拮抗状態の中で、前向きの宗教的には光に向かってといったらいいか、そのようなエートス(これはマックス・ヴェーバーだったか)を生きる過程で選択しつつ(意識的にも無意識的にも)、自らの肉体に引きずられる言葉に対して常に闘いをしていくという課題が人には託されているということになるのではないだろうか。
◆フロイトは、文化の発展が人間の心に変化をもたらすとし、文化の生み出す顕著な現象は一つは知性を高める、これは欲動をコントロールする。二つ目は攻撃本能(これは生きる欲望にもなっている)を内に向けること、この働きは戦争への体と心から拒絶が起こるものであるとしています。キリスト者はその闘いの土台にいつもイエスの十字架を据えているのです。自分のために(自分と共に)と十字架に貼り付けになっている(なった)者として彼(イエス)との会話を続けていくのです。 ・・・ Ω