ハマちゃんのひとり言

鉄道と地図を趣味とする、元地図屋さんだった団塊人です。

上大岡の老舗美容室「へれん」閉店!

2014年01月29日 | 街で見つけた物

昨日買い物帰りに偶然一枚のチラシが目に留まった。いつもなら気にもならなかったのだろうが、「虫の知らせ」なのか近寄って見てしまった。そのチラシを読んでまたビックリ!なんと書いたあったのは、美容室「へれん」閉店のお知らせであった。一瞬目を疑ってしまう位、想像すらしていなかった事だったのでその衝撃は大きかった。

【店頭に掲示されていた「閉店のお知らせ」】

4年前の2010年にお店のある地域が再開発され、完成したショッピングビル「ミオカ」の1.2階に移転、さらなる発展の一途を辿っているものと信じていた。それが「成人の日」の翌日突然閉店とは!上大岡の老舗としてあまりにもあっけない終焉であった。美容室「へれん」の歩みは上大岡の街発展の歴史と共にあった。まさに生き字引的なお店だったのです。その美容室「へれん」の歩みを「へれん」の元会長鈴木英雄(故人)の著書「マイウェイ渡世旅日記」より、その歩みを追ってみました。

【創業者「鈴木英雄・イヨご夫妻」昭和30年頃の写真  「マイウェイ渡世旅日記」より】

昭和24年12月結婚間もない妻鈴木イヨは美容院「ヘレン」を開店しました。南区上大岡町80番地。今の上大岡駅から中央商店街の方に鎌倉街道との交差点、交通ラッシュの中心が「へれん」創業の地です。上大岡の駅といっても木造の小屋があるだけ。駅まわりには雑草が伸び放題でした。「ヘレン」の店名はイヨが美容機械のメーカーの「ヘレン・カーチス」から取ってつけました。この土地を買ったのが私の運のつき始めでした。十坪ばかりの狭い敷地に片流れの四坪の小さな店を造りました。

【初代「ヘレン」から二代「へれん」への変遷地図 「マイウェイ渡世旅日記」より】

昭和25年、開店一年がたちました。順調にお客さんが来てくれます。私の発案で店名の「ヘレン」をひらがなの「へれん」に変えました。イヨの白衣姿もますますさっそうと油が乗った感じでした。椅子も二台にに増やし、お弟子さんも入れる事にしました。みんないい子でした。イヨも先生と呼ばれるようになりました。

【初代「ヘレン」から新道(現鎌倉街道)越しに、二代目「へれん」を写した写真 「マイウェイ渡世旅日記」より】

昭和26年「へれん」に立ち退き問題が発生したのはに耳に水でした。借金も返していないのに住宅金融公庫から更に借金して道路の反対側、今「さくら銀行」のある山野井ビルの敷地の25坪の土地に移転、新装開店することになりました。今度は二階家です。高いところから下界を眺めると転化を取ったような気分になりました。新道(現鎌倉街道)工事が進んでおり駅前も広く一変し、あたりはまるで西部劇の開拓地のようでした。

【昭和46年頃の上大岡。新道(現鎌倉街道)にあった二代目「へれん」があった所(桜岡小学校所蔵)】

昭和44年土地所有者の山野井さんがビルを建設する事になり、新たな移転場所を探しましたがなかなか決まらず、当時としてはたいぶ町はずれの場所の現在地(現ミオカの店の前)に50坪の土地を購入して移転しました。スペースも広く十席配置できました。奥を仕切ると着付けもできる様になりました。国産ですが機械も新品で揃えました。従業員も一挙に14・5人に増え、11月のオープニングパーティーはお陰様で盛大に行う事ができました。私はイヨの手を握り締めいよいよ三度目の正直、本気でやるよと誓いました。

【「へれん」変遷地図 三代目の場所に移転 「マイウェイ渡世旅日記」より】

【三代目「へれん」の自社ビル (現在の「カミオ」ビルの角前広場あたりにあった!) 「マイウェイ渡世旅日記」より】

その後再び移転先も再開発地区に指定され、折角の自社ビルも立ち退きを余儀なくなり平成22年完成したミオカビルの1・2階に店舗を移転しました。三回目の移転先には約3年程営業されていた事になります。最後まで上大岡の街の開発に伴う、その変遷を見つめ続けた老舗美容室「へれん」の名が上大岡から消えてしまったのは実に寂しい限りです。

【「ミオカ」1・2階に入店していた四代目「へれん」:左側のお店】


戦前の上大岡駅の写真!

2014年01月13日 | 鉄道

昭和5年4月1日に湘南電鉄(京急の前身)の上大岡駅は開業しました。記録によりますと開業当初は島式ホーム一面、信号所があるだけで駅舎もなく(?)、一日の利用者は20人程度で今では想像すら出来ない状況だった様です。

ここに戦前の上大岡駅を写した写真が二枚あります。一枚目は上大岡駅に一番近い桜岡小学校に保存されていた写真です。広い駅構内中央の島式ホームには、湘南電鉄の最初の電車である「デ1形」が二両編成で停車中で、反対側の折り返し用のホームには数人の人達が電車を待っている様です。また昭和27年頃の写真にも写っている「大見湯」がこの写真にもはっきり写っています。まさに上大岡のランドマークですね!遠方には最戸の山並みが見通せます。緩傾斜の丘の上に出来た上大岡駅の為、展望はよろしかった様ですね!笹下の横浜刑務所の当時の職員回顧録によると「無人駅を思わせる小さな上大岡駅より一目で刑務所の所在が知る事が出来た」とある位、駅からの見通りは良かった様です。撮影時期はおそらく品川駅~上大岡駅間折り返し運転の急行電車が運行を開始した昭和11年から間が無い頃の写真だと思われます。

【写真① 昭和10年前後と思われる上大岡駅の写真 (桜岡小学校蔵)】

もう一枚は上大岡駅前から撮った写真です。撮影時期としては前の写真とほぼ同じ年代だと思われます。
この写真は笹下・関から出征兵士を見送りに来た人々を撮った写真で、①の写真の電車の後ろに写っている背の高い建物が、この写真の中央にはっきり写っていて駅の信号所の建物です。さらに左隣に小さな建物が写っていますが、この建物が初代の上大岡駅で信号所との間が改札口になる様です。如何にもローカル色豊かな雰囲気が感じられます。

【写真② 駅前の空き地から小さな駅舎と大きな信号所の前の写真 (渡辺渥美氏提供写真)】

この当時の地図が発見されました。この地図は先年中区役所から発見され、横浜市史資料室に移管された「火災保険地図」と言われるもので、作成機関は不明ながら昭和5年に作図され、旧中区内の建物がまとまって建っている地区のみ作られた様です。その中に上大岡駅周辺の地図入っていて縮尺は1/1000となっていますが、測量的な精度は疑問です。しかし、少し以前の住宅地図と同様に建物の数・前後関係などは詳細に書かれ、当時の街並みを知る上では貴重な地図です。この地図に開通直後の上大岡駅周辺が記録されていて、上記の写真の位置関係を確認する事ができました。

 【開通直後の上大岡駅周辺の地図 (「火災保険地図」横浜市史資料室蔵)】

ちなみにこの小さな改札口のあった場所は、現在でも改札口として利用されています。その場所は「ヨドシカメラ」のDPE受付横の改札口です。しかし高さは現在の駅ビル二階にあたります。(丘を削って現在の駅は作られた為)


急行待避ホームが完成間もない頃の上大岡駅!

2014年01月05日 | 鉄道


現在の京浜急行は終戦を挟んだ6年間東急電鉄時代から昭和23年独立し、社名を戦前の京浜電鉄から京浜急行電鉄と改称し新たなスタートを切りました。その直後から会社は戦後の戦略をにらみ、上大岡駅の急行待避駅化を決定しました。この大規模な駅改良工事は昭和26年の10月に完成し、現在の様な上下二本の急行待避ホームが作られました。ここに二枚の上大岡駅構内を写した写真がありますが、この写真は待避ホームが完成した間が無い昭和27・28年頃の写真だと思われます。

【のどかな雰囲気な昭和27年頃の上大岡駅上りホーム】 (渋谷祐弘氏所蔵写真より)

一枚の写真には広々とした空に入道雲が浮び、暑い盛夏の昼下がり日傘を差したご婦人と子供がのんびりと、人影の少ない上大岡駅ホームを歩いている姿が写っています。写真は上り3・4番ホームを構内踏切から撮影したもので、階段下通路部分の木柵が未だ劣化が少なく工事竣工後からそれ程年月が経っていない事が判ります。またホーム上の屋根部分は中央部のみです。ホームの照明は裸電球が数個ポツンとあるだけのローカル色豊かなのどかな駅だった様です。

【京急550系準急「浦賀」行き電車 :左側に煙突が「大見湯」の建物】 (渋谷祐弘氏所蔵写真より)

また一枚の写真は上記写真と同じ上りの構内踏切から撮影したもので、ちょうど下り電車が上大岡駅の到着する直前の写真です。線路が左右に分岐し各駅停車の電車が待避できる様になっているのが良く判ります。電車は昭和27年4月から登場した550系で、赤と黄色のツートンカラーに塗られていた車両です。先頭車に付いている行先表示板には◇マークがあって、そのヘッドマークは昭和25年4月から昭和29年7月まで運行された「準急電車」の様です。写真左側の線路沿いに煙突を持つ大きな建物が写っていますが、これは昭和5年に湘南電鉄が開通する前から営業していた銭湯の「大見湯」で、上大岡の街のランドマークです。現在ここはソフトバンク上大岡営業所があるビルとメガネドラックの間にある吉田ビルとなっています。

(追記)

終戦直後の昭和20年秋にこの「大見湯」でデビュー前の美空ひばりが美空和枝として、この「大見湯」で歌った事が伝えられています。当時銭湯は燃料がなく営業できなかったそうで、浴槽にフタしてその上で歌ったそうです。この上大岡地区は空襲にもあう事が無く、またひばりの実家がある滝頭には山一つを超えるだけと比較的近かった事も幸いしたのかもしれません。


昭和の上大岡駅の正月風景!

2014年01月01日 | 鉄道

あけましておめでとうございます。

お正月という事で、昭和時代の上大岡駅の正月風景写真をご覧ください。

現在の京浜急行上大岡駅は高層の駅ビルとなり、横浜の副都心と呼ばれる程に発展著しい街となっていますが、時代を遡ると僅か半世紀前の上大岡駅はとても想像できない程の小さな駅舎でした。

ここに昭和30年と昭和36年の上大岡駅の正月風景を撮った写真があります。一枚は昭和30年の写真で、サンフランシスコ平和条約が締結されて日本の主権が回復してからまだ二年といった頃の写真です。小さな駅舎の前に角松が立ち、しめ縄も飾り付けられ、さらに主権が回復して間が無い頃という事でしょうか?日の丸の旗が掲げられています。また駅の看板には英語表記で「KAMIOOKA STATION]と書かれています。これは米軍が占領直後に日本政府に主要な駅には英語の表記をする様に命令が出た事の名残りだと思われます。

【駅前の「ミヤコ写真館」から撮った昭和30年の上大岡駅の正月風景 (宮本和雄氏撮影)】

白黒写真ではありますが、正月と云うのに庶民の服装は地味な様です。改札前では新聞スタンドがき、正月の新聞を買い求めている人の姿があります。人の出入りも現在からするとやはり少なくのどかな田舎の駅を彷彿させます。

もう一枚の写真はそれより六年後の昭和36年の上大岡駅頭の正月写真です。この写真は当時では大変珍しいカラー写真で、晴れ着を着た女性が写っています。高度経済成長が始まりだした頃で、六年後の写真ですが人々の姿にも何処となく明るさを感じる事ができます。丁度この頃の上大岡は住宅地開発の真っ最中の時代で、人口が急増しはじまた頃でした。実はこの上大岡駅舎は六年前の駅舎と同じものではなく、旧駅舎の隣に出来た仮設の駅舎なのでした。なぜ仮設なのかと云うと昭和38年に完成する旧駅ビル工事が始まったからなのです。人口急増に合わせて京浜急行が京浜百貨店(現在の京急百貨店の前身)を造り始めた頃の写真です。また駅名から英語表記は消えている事もわかります。

【昭和36年の上大岡駅の正月風景 (渡辺渥美氏撮影)】

商店街(箱根通り)にもアーケードが設置され、商店街としての発展して来ているのも読み取れます。
この様に高々半世紀程まえの風景ですが、現在からは到底想像すらできないのではないでしょうか?
余りにも急激な変化だった事が、この上大岡駅頭の正月写真からも判ると思います。