ハマちゃんのひとり言

鉄道と地図を趣味とする、元地図屋さんだった団塊人です。

神奈川県戦没者慰霊堂は護国神社だったかも?!

2016年03月11日 | 最近の話題

先日の東京新聞朝刊のコラム記事に神奈川県にだけ護国神社がないと書かれていました。それによりますと昭和14年(この年の9月第二次世界大戦が勃発)に内務省によって”一道府県一社”を原則とする”指定護国神社”が設けられ、終戦当時なかったのは東京、神奈川、宮崎、熊本の4都県だけだったそうです。東京には靖国神社があり、戦後になって宮崎、熊本県は護国神社を完成させた。その為、現在護国神社がないのは神奈川県だけとなった。

【東京新聞 平成28年3月9日朝刊 「東京トリビエ」記事より】

だが実は戦前、神奈川県も護国神社の建設が進んでいた事が新聞記事に書かれていた。しかし昭和20年の横浜大空襲で社殿は焼失し終戦を迎えた。記事にはその場所が何処かは書かれていなかった。興味をもってネット検索すると、なんとその場所は三ツ沢公園にある横浜市戦没者慰霊塔の所であった。まさか慰霊塔の位置に護国神社があったとは驚きであった。

【昭和38年測量の横浜市3000地形図より 慰霊塔が出来ている】

坂井久能著「神奈川県護国神社の創建と戦没者慰霊堂」によると、「神奈川県でも護国神社創建の話は 県議会でも度々持ち上がり、昭和14年になり遂 に神社創建が決定、横須賀や小田原などと誘致合戦の末、横浜に建立されることが内定した。昭和16年に土地の買収が終了、昭和17年には神祇院より正 式に指定護国神社として許可を受ける。しかし、誘致合戦等によって起工までに2年も掛かってしまったことで、戦局の悪化に伴う資材不足の影響を受 け、造営はさらに遅れていってしまう。昭和20年1月には、いよいよ完成間近として新聞に本殿の写真が載り、鎮座も目前と思われた。しかし、落成することなく神社は昭和20年5月の横浜大空襲で全焼してしまったのである。」

【昭和19年 日本陸軍撮影航空写真  国土地理院HPより 「護国神社の社殿がはっきり写っている」】

【昭和22年米軍撮影航空写真より 「社殿が消失している!」】

さらに「このような悲運に見舞われ続けた神奈川県護国神社だったが、昭和22年に県が横浜市 に神社建設用地を無料で払い下げたことで、当地に造営される可能性もなくなってしまう。外苑に公園を整備する計画は踏襲され三ッ沢公園となり、本殿跡には28年に市によって慰霊塔が建てられた。

【三ツ沢公園にある「横浜市戦没者慰霊塔」 この位置に護国神社の社殿が作られていた】

27年の講和発効で自治体としての慰霊禁止が解除されると、県の施設として慰霊 塔を建設する案が持ち上がった。市が慰霊塔を建設したことや戦後のまだ国民生活の苦しい時期であったことから計画は変更され最終的に県としては慰霊堂を建設することとなった。」と記載され、昭和28年11月に港南区最戸の地に竣工した。

【上大岡駅の近くの丘の上に神奈川県戦没者慰霊堂がある。どうしてここだったのか?】

【現在の神奈川県戦没者慰霊堂  もしかして護国神社だったかも?】

どうして護国神社でなく慰霊堂だったのか?なぜ港南区最戸の地だったのか?などの謎が未だ不明だ?!今後調べてみたい。