ハマちゃんのひとり言

鉄道と地図を趣味とする、元地図屋さんだった団塊人です。

品川駅から常磐線に乗り換え!

2015年03月21日 | 鉄道

3月14日から上野駅~東京駅間を結ぶ上野東京ラインが開通し、今まで上野駅終点の東北線・高崎線・常磐線の電車が東海道線に乗入し、上野駅での乗換なしで利用できるようになりました。昨日所用で初めて京急品川駅から直接常磐線の快速電車に乗って柏駅まで快適な乗車することが出来ました。

【JRの「上野東京ライン」開業のお知らせ】

品川駅の常磐線のホームは9・10番線で昔は年末の帰省客用の電車が利用する臨時ホーム的なものでしたが、エレベータやベンチも整備され往時の面影はありませんでした。品川駅を発車した電車は新橋駅・東京駅だけの停車であっという間に上野駅に到着し、そのまま常磐線の線路に進入し、まさに上野駅は通過駅と化してしまい、心なしが上野駅の人影も依然より大幅に少なくなっている様に感じました。

【品川駅10番線ホームから発車する快速電車から9番線に停車中の特急ひたち号】

【品川駅を出発したガラ空きの快速水戸行電車から高架線上の京急電車を望む】

【品川の車両基地に同居した「サンライズ瀬戸・出雲」の車両と常磐線快速電車】

【東京駅を発車した品川行の常磐線快速電車】

柏駅に到着し駅構内に京急の広告が掲げてあったのですが、最初は何でこんな所にあるのかと思案したのですが、今まで常磐線利用の方々が羽田空港に行く際、二回の乗り換えをしたのが、品川駅で京急に乗り換えて羽田空港に行く事が出来るようになった事で、至便性をアピールしていたようです。

【この様な京急の広告が常磐線柏駅や電車内に掲示されていた】

今回の路線が開通した事によって、人々の流れに少なからず影響があるようで、上野駅に変わって品川駅がますます大ターミナルとしての地位を築いていきそうです。


箱根登山鉄道の新車に乗る!

2014年12月11日 | 鉄道

先月の1日から箱根登山鉄道に25年ぶりの新車投入されたとのニュースをテレビで聞いていたのですが、たまたま今日箱根に宿泊しての帰り道、宮ノ下駅から乗った電車が、話題のその新車でした。

【箱根登山鉄道「宮ノ下駅」に進入する新型車両】

あいにくの雨模様でしたが、静寂の宮ノ下駅に斬新なデザインの新造車両が入って来たのです。特徴的な大きな前面ガラスは箱根の山並みを縫って走る電車にはピッタリのものでした。車内からも大きなガラス窓から大迫力で自然が迫ってくる様です。

【大きな運転席の前面ガラスの迫力!】

この車両は姉妹鉄道のスイス・レーティッシュ鉄道をお手本としている様で、車内も実に洗練されたセンスで統一されていました。車内は明るい薄いクリーム色で側面や座席は木目調、さらに照明は間接照明として高級感があふれていました。

【新車デビューの車内宙吊り広告】

【明るく、シックな装いの車内】

ドアとドア脇には全面ガラス張りで景色と一体感が味わう事ができる様に配慮されていました。早川鉄橋では足元がゾクゾクしてしまう程でした。

【側面の大型ガラス張りの隣の車両が見えすぎかな?!】

登山鉄道の乗客で感じられるのは、台湾人・中国人をはじめとする外国人が多く、日本人より多いのではないかとまで感じられる様です。きっとこの電車は外国人にも人気が出るものと期待したいですね!

【信号所の新車を連結した下り電車】

 


「幸せの黄色い電車」に乗って!

2014年07月03日 | 鉄道

昨日上大岡駅で電車を待っていたら、なんと話題になっていた京急の「幸せの黄色い電車」がやって来ました。写真を撮ろうとしたが、あっという間にホームに停車し、慌ただしく車中の人となりました。

【忘れ物を乗せて「幸せの黄色い電車」は発車した!とほほ…】

車内は「幸せの黄色い電車」を思わせるものは一切なく、通常の電車と変わらないので少々ガッカリでした。夢を持たせる企画だったのでしょうから、車内でも今少し工夫があっても良かったのではないでしょうか?

【側面を見ていると西武線の電車の様ですね!】

「幸せの・・・」であったのですが、現実は余りの嬉しさに品川駅で降車時に電車の写真を撮る事に気を取られ(年甲斐もなく!)、社内に忘れ物をしてしまった。京急に取り合せてみたが見つからないとの事で、少々不幸せ?だった!しかしきっと他の人にとっては「幸せの・・・」であったかもしれませんね!

【京急の広告より。「幸せの黄色い電車」の由来が書いてある】


戦前の上大岡駅の写真!

2014年01月13日 | 鉄道

昭和5年4月1日に湘南電鉄(京急の前身)の上大岡駅は開業しました。記録によりますと開業当初は島式ホーム一面、信号所があるだけで駅舎もなく(?)、一日の利用者は20人程度で今では想像すら出来ない状況だった様です。

ここに戦前の上大岡駅を写した写真が二枚あります。一枚目は上大岡駅に一番近い桜岡小学校に保存されていた写真です。広い駅構内中央の島式ホームには、湘南電鉄の最初の電車である「デ1形」が二両編成で停車中で、反対側の折り返し用のホームには数人の人達が電車を待っている様です。また昭和27年頃の写真にも写っている「大見湯」がこの写真にもはっきり写っています。まさに上大岡のランドマークですね!遠方には最戸の山並みが見通せます。緩傾斜の丘の上に出来た上大岡駅の為、展望はよろしかった様ですね!笹下の横浜刑務所の当時の職員回顧録によると「無人駅を思わせる小さな上大岡駅より一目で刑務所の所在が知る事が出来た」とある位、駅からの見通りは良かった様です。撮影時期はおそらく品川駅~上大岡駅間折り返し運転の急行電車が運行を開始した昭和11年から間が無い頃の写真だと思われます。

【写真① 昭和10年前後と思われる上大岡駅の写真 (桜岡小学校蔵)】

もう一枚は上大岡駅前から撮った写真です。撮影時期としては前の写真とほぼ同じ年代だと思われます。
この写真は笹下・関から出征兵士を見送りに来た人々を撮った写真で、①の写真の電車の後ろに写っている背の高い建物が、この写真の中央にはっきり写っていて駅の信号所の建物です。さらに左隣に小さな建物が写っていますが、この建物が初代の上大岡駅で信号所との間が改札口になる様です。如何にもローカル色豊かな雰囲気が感じられます。

【写真② 駅前の空き地から小さな駅舎と大きな信号所の前の写真 (渡辺渥美氏提供写真)】

この当時の地図が発見されました。この地図は先年中区役所から発見され、横浜市史資料室に移管された「火災保険地図」と言われるもので、作成機関は不明ながら昭和5年に作図され、旧中区内の建物がまとまって建っている地区のみ作られた様です。その中に上大岡駅周辺の地図入っていて縮尺は1/1000となっていますが、測量的な精度は疑問です。しかし、少し以前の住宅地図と同様に建物の数・前後関係などは詳細に書かれ、当時の街並みを知る上では貴重な地図です。この地図に開通直後の上大岡駅周辺が記録されていて、上記の写真の位置関係を確認する事ができました。

 【開通直後の上大岡駅周辺の地図 (「火災保険地図」横浜市史資料室蔵)】

ちなみにこの小さな改札口のあった場所は、現在でも改札口として利用されています。その場所は「ヨドシカメラ」のDPE受付横の改札口です。しかし高さは現在の駅ビル二階にあたります。(丘を削って現在の駅は作られた為)


急行待避ホームが完成間もない頃の上大岡駅!

2014年01月05日 | 鉄道


現在の京浜急行は終戦を挟んだ6年間東急電鉄時代から昭和23年独立し、社名を戦前の京浜電鉄から京浜急行電鉄と改称し新たなスタートを切りました。その直後から会社は戦後の戦略をにらみ、上大岡駅の急行待避駅化を決定しました。この大規模な駅改良工事は昭和26年の10月に完成し、現在の様な上下二本の急行待避ホームが作られました。ここに二枚の上大岡駅構内を写した写真がありますが、この写真は待避ホームが完成した間が無い昭和27・28年頃の写真だと思われます。

【のどかな雰囲気な昭和27年頃の上大岡駅上りホーム】 (渋谷祐弘氏所蔵写真より)

一枚の写真には広々とした空に入道雲が浮び、暑い盛夏の昼下がり日傘を差したご婦人と子供がのんびりと、人影の少ない上大岡駅ホームを歩いている姿が写っています。写真は上り3・4番ホームを構内踏切から撮影したもので、階段下通路部分の木柵が未だ劣化が少なく工事竣工後からそれ程年月が経っていない事が判ります。またホーム上の屋根部分は中央部のみです。ホームの照明は裸電球が数個ポツンとあるだけのローカル色豊かなのどかな駅だった様です。

【京急550系準急「浦賀」行き電車 :左側に煙突が「大見湯」の建物】 (渋谷祐弘氏所蔵写真より)

また一枚の写真は上記写真と同じ上りの構内踏切から撮影したもので、ちょうど下り電車が上大岡駅の到着する直前の写真です。線路が左右に分岐し各駅停車の電車が待避できる様になっているのが良く判ります。電車は昭和27年4月から登場した550系で、赤と黄色のツートンカラーに塗られていた車両です。先頭車に付いている行先表示板には◇マークがあって、そのヘッドマークは昭和25年4月から昭和29年7月まで運行された「準急電車」の様です。写真左側の線路沿いに煙突を持つ大きな建物が写っていますが、これは昭和5年に湘南電鉄が開通する前から営業していた銭湯の「大見湯」で、上大岡の街のランドマークです。現在ここはソフトバンク上大岡営業所があるビルとメガネドラックの間にある吉田ビルとなっています。

(追記)

終戦直後の昭和20年秋にこの「大見湯」でデビュー前の美空ひばりが美空和枝として、この「大見湯」で歌った事が伝えられています。当時銭湯は燃料がなく営業できなかったそうで、浴槽にフタしてその上で歌ったそうです。この上大岡地区は空襲にもあう事が無く、またひばりの実家がある滝頭には山一つを超えるだけと比較的近かった事も幸いしたのかもしれません。