ハマちゃんのひとり言

鉄道と地図を趣味とする、元地図屋さんだった団塊人です。

終戦前後の横浜刑務所!①

2015年08月15日 | 最近の話題

今年は戦後70年にあたり、地元横浜市港南区にある横浜刑務所での終戦前後の出来事を追ってみました。結構日本の近代史に残る舞台となっていたのです。

 ①    敵性外国人が横浜刑務所に拘留・投獄!

 昭和16年12月8日真珠湾攻撃によって日米開戦した当日、横浜では残留敵性外国人の人が治安警察法違反(スパイ容疑)で逮捕された。

【昭和11年に完成当時の「横浜刑務所」の写真:遠くに上大岡駅を望めたそうです!

「横浜刑務所の偉容」横浜刑務所刊より】

 その容疑者の中に当時横浜市山手町で貿易商をしていたアルメニア人マイケル・アプカー氏も含まれていた。この方が横浜刑務所に拘留・投獄されていた際に家族と交わした書簡が保存され、その一部が横浜開港資料館より出版された「横浜と外国人社会」に記載されている。(この方は昭和18年2月釈放され、それ以降終戦まで監視されながら軽井沢で過ごす。当時アルメニア人は無国籍とされフランスの保護下にあった。)

【横浜刑務所に拘留・投獄されたマイケル・アプカー氏(左端)

「横浜と外国人社会」横浜開港資料館刊より】

 本の記述から横浜刑務所に関する箇所の一部を引用し、当時の様子を垣間見てみました。

「12月8日朝食の最中に制服、私服の警官が家を囲み、直ちに山手署に連行され監禁された。それから他のアメリカ人やイギリス人と共に、横浜刑務所の拘置所(場)に送られた。」とあり、さらに「アプカーが弘明寺(?)の横浜刑務所(当時の住所は横浜市中区笹下町731)にいる事がわかると、家族は毎日食事の差し入れをした。材料を工面して食事を作り、山手町の家から電車(市電)を乗り継いで弘明寺まで通う事が日課になった。入口(刑務所)でベルを鳴らし許可を得て待合室に行く、そこで差し入れの中身が検査された後、名前入りの箱に移し替えられ、そして空になった容器を持ち帰るという行程を繰り返した。」と当時の横浜刑務所について書かれています。

横浜刑務所拘置場の封筒に書かれたマイケル・アプカー氏の家族宛の手紙

「横浜と外国人社会」横浜開港資料館刊より】

 開戦時に逮捕された敵性外国人はアプカー氏を含む22人にのぼり、全員が横浜刑務所に拘留された。その大半は半年余りで釈放される。アプカー氏は昭和18年2月に釈放され一番長く横浜刑務所にいた様です。

【開戦当時に治安警察法違反で検挙者のリスト:外国人は全て横浜刑務所に拘留された!

 「大東亜戦争勃発に伴う外事警察非常拘置状況」 アジア歴史資料センターHPより】

また以後民間の船舶が横浜に入港した際、船長などがスパイ容疑で逮捕後横浜刑務所に拘留・投獄され終戦まで拘束されていた人達もいた様です!その証拠として昭和19年5月に横浜刑務所の看守になられた土井郷誠氏の記録(※1)に昭和20年1月4日現在の「未決拘禁者舎室配置表」があり、その中に国防保安法違反容疑の外国人3名、軍機保護法違反容疑の外国人2名が収容されていた事が書かれていた。なおこの数字は未決囚であって、判決がでて既に刑務所にも投獄されていた外国人もいたであろう。下記のマクドナルド氏は既に判決が出て投獄されていたと思われ、この様に終戦時には二桁の外国人がここ横浜刑務所で迎えたのではないでしょうか?

 (※1 :青木書店広報誌「あおき」1975年5月発行 「横浜事件・ある証言」黒田秀俊著より)

【軍機保護法違反で横浜刑務所に投獄された英国人のU・J・マクドナルドの書類

「詭激思想懐抱者原簿」 アジア歴史資料センターHPより】