ハマちゃんのひとり言

鉄道と地図を趣味とする、元地図屋さんだった団塊人です。

米軍墓地に関する講演が「YouTube」に!

2013年01月26日 | 最近の話題

昨年の12月末に横浜開港記念会館で「横浜市民メディア連絡会10周年ミーティング」行われ、その際の記念講演を頼まれ、メディアとはあまり縁のない私に何故かお鉢が廻って来る事になりました。実は昨年の春、HP上にUPしてありました「戦後の一時期あった米軍墓地」をご覧いただいた連絡会の人が調査技法・過程が面白いので、一度会合の際に話をしてほしいと云う事で決まりました。

当日は小雨の降る寒い日和でしたが、会場には多くに人達が来場され30分の持ち時間で無事に話を終える事ができ、皆様には感謝するしだいです。昨日偶然に「YouTube」上に講演の動画がUPされている事を知り驚いましたが、この際多くの人達に「米軍墓地が一時期横浜にあった」事を知っていただく良い機会をいただいたと喜んでおります。ご覧いただければ幸いです。

※HP「戦後の一時期あった米軍墓地」のPDFのアドレス

http://www1.c3-net.ne.jp/hamachan/beigun-boti(pdf).pdf

話の内容は一昨年亡くなった母の遺品を整理していた際、出て来た数枚の終戦直後と思われる小さな写真に写っていた米軍墓地らしきものの謎解き物語といったところです。横浜に米軍墓地があった事はまったく記録に残っておらず、その場所を特定する事から物語は始まります。


「日揮」発祥の地・上大岡!

2013年01月23日 | 最近の話題

このところ連日もっぱらトップニュースはアルジェリアにおける「日揮」の人質事件が報道されています。まず皆さんが疑問に思うのが「日揮」という会社の名称でしょう。一見して何をやっている会社なのか不思議に思われるでしょう。「日揮」の当初の会社名は「日本揮発油」というものでした。この会社は昭和3年に創業者の實吉雅郎によって設立された。設立趣意書には「安価な重油を海外から輸入し、これを高価な揮発油に変成し・・・製油事業の計画をなせり」とあります。

【昭和43年頃の創業者・實吉雅郎氏:昭和3年から昭和42年まで社長を務めた。(實吉雅郎回想録 昭和43年 日本揮発油(株)発行より)】

この「揮発油」とは「ガソリン」の意味で、自動車ガソリン・航空ガソリンを指します。特に航空ガソリンは当時第一次世界大戦以降急速に発達した航空機の燃料として需要が急増するのですが、その高度な精製技術は日本にはなく米国のユニバーサル・オイル・プロダクッ社から精製技術特許を購入したのが「日揮」の会社事始めだったのです。

【社名の変遷 :JGCのGは「Gasoline」ガソリンだったのです!(日揮50年史 横浜市図書館蔵より)】

(※「揮発油」と言われると一般人は、衣服のしみ抜きなどに用いられるベンジンの事と思われるでしょうね!私は「日揮」の近くの小学校に通っていた時から、この会社は「ベンジン」を作っていると信じて疑いませんでした。かなりの年齢まで!)

一時期実際に自社で石油精製事業も始めたのですが、地域住民の反対や世界恐慌のあおりなどで頓挫してしまいました。しかしここで当初得ていた精製技術の特許権料が石油会社から入って来たのです。以後「日揮」は実吉社長の知友であった鈴木達治横浜高工校長(化学)の縁で技術協力を得て応用研究を促進、特許権を活用する現在のエンジニアリング会社の道を推し進め、太平洋戦争突入前後から軍用航空燃料の性能向上に技術力を発揮したのでした。

【戦前の日本揮発油(株) :田んぼの中にポツンと建っていた!昭和19年日本陸軍撮影航空写真  (国土地理院蔵より)】

この横浜高工が「日揮」と上大岡との関わるきっかけでした。それは昭和10年鈴木校長からの紹介で「日揮」の非常勤技術顧問をされて富山保教授が同校二代目校長に就任した縁から、昭和12年頃同校に隣接した無償で借りていた運動場を即刻返還しなければならなくなり途方にくれた時、實吉社長に話をしたら即決で協力を快諾し、同校から1Km以上離れた所にあった為、殆ど利用されていなかった同校所有の運動場を「日揮」が購入し、その資金で隣接の運動場購入資金とする事ができたのでした。

【戦後間もない頃の日本揮発油(株)の写真 :右上あたりに上大岡駅がある。(日揮50年史 横浜市図書館蔵より)】

その時購入した最戸町の土地に昭和16年「日揮」は研究所を設立し、横浜高工の研究室などに派遣していた研究員たちを移転集中できた事が現在の「日揮」の繁栄の礎となったと後年實吉社長は語ったと言われています。また終戦後小さな駅に過ぎなかった上大岡駅前の商店街に、次第に発展していく「日揮」の多くの社員達が勤め帰りの飲食の場として賑わったそうです。現在でも上大岡周辺には「日揮」の社宅・独身寮や社員・OBが多く住んでおられます。

 

【昭和50年頃の「日揮」と上大岡駅周辺の航空写真 (桜岡小学校創立70周年記念誌より)】

【昭和46年桜岡小学校屋上から見た「日本揮発油」 :桜岡小学校蔵より】

※最戸町の「日揮」の地は15年前みなとみらい地区のクイーンズタワーに移転し、その跡地はイトーヨーカ堂のショッピングセンターとなっている。

【現在の「日揮」が入るみなとみらいのクイーンズスクエア横浜 (左の建物です) クイーンズスクエア横浜HPより】


地理院の地形図にグリッド線が入る!?

2013年01月15日 | 地図

今日の東京新聞朝刊に国土地理院の地形図にUTMグリッド線が記入されるとの記事が掲載されていた。その記事によると現在災害が発生した時出動する救援組織は自衛隊・警察・海上保安庁で、その際場所を特定する時使用する基準がそれぞれ異なり、自衛隊はUTMグリッド(座標)を、警察や消防は住所を、海上保安庁は経緯度を用いている。組織ごとに使用する地図や場所の表現方法が異なる為、場所の特定に時間がかかったり、伝達途中で聞き間違えたりして伝達方式の統一化の必要が指摘されていたそうである。

 

【平成25年1月15日 東京新聞朝刊 「地理院の地図にUTMグリッドが掲載される!」の記事】

グリッド線方式の地形図は日本以外の多くの地形図に記入されており半ば世界標準になっていた。日本でも昭和40年頃一時UTMグリッド線が記入された地形図が作られた事があったが、実際に販売される事はなかった様だ!この地形図は昭和35年から5年間に渡って日米両国が共通に使用するために、当時の地理調査所と米国陸軍極東地図局(AMSFE)との協定によって作成された地形図でした。

 

【昭和42年5月10日 毎日新聞朝刊  「国土地理院がこっそり日本の軍事地図」の記事】

【米国陸軍極東地図局 昭和36年作成 1/5万地形図「KOBE」(グリッド線が記入されている)】

 

【国土地理院作 地図協会発行 昭和40年作成 特定1/5万地形図「神戸」(グリッド線が記入あり)】

これが「5万分1特定地形図」と呼ばれるもので、昭和42年5月10日の毎日新聞に「こっそり日本の軍用地図」と題して国土地理院が作っていると報じられ、国会論争にまで発展してしました。その際の西村英一建設大臣の答弁には「この新聞にはことさらに軍用軍用と書いてあるが、普通の五万分の一の地図とあまり変わらないんだが、それで普通の地図には、五万分の一ではグリッドが入れてないのでありますが、これにはグリッドが入れてあるが特に軍用目的ではない」と答弁しています。

 

【国土地理院 昭和42年発行 1/5万地形図「神戸」 (グリッド線は削除されている!)】

その為か実際に国土地理院から販売された地形図にはグリッド線は削除されたものでした。これ以降地理院の地形図にグリッド線が記入される事はありませんでした。今回この問題が発覚してから半世紀を経てグリッド線が登場する事になった事に少々感傷めいたものを感じました。