ハマちゃんのひとり言

鉄道と地図を趣味とする、元地図屋さんだった団塊人です。

見事な「横浜竹」発見!

2012年02月19日 | 街で見つけた物

以前キセルのラオに使われた最戸の「横浜竹」に関する記事を書いたのですが、肝心の「横浜竹」がどの様な竹なのか不明でしたが、先日港南歴史散策の会にて港南区日野にある光明寺境内で馬場先生からこれが「横浜竹」だと教えていただきました。初めて見た「横浜竹」はラオに使用するのに適した素直でまっすぐに伸びた見事な竹に感激しました。現在ではこの様に群生している「横浜竹」はあまり残っていないそうで、宅地開発と共に絶滅寸前の状況との様です。

【見事な「横浜竹」の群生地:港南区日野 「光明寺」境内】

「横浜竹」の正式名称はウィキメディアによると、ヤダケ矢竹)と呼ばれ「タケ亜科」の植物で、竹と付いているが、成長しても皮が桿を包んでいるため笹に分類される。節間が長いので矢を作るのに適し、特に武家の屋敷に良く植えられたそうです。

【節からの枝葉があまりなくまっすぐに伸びている「横浜竹」】

「岡村の歴史夜ばなし」(葛城峻著)には「中世には横浜南部のこの竹の自生地が鎌倉武士政権の武器生産地帯になった。しかし弓矢の必要がなくなった明治の頃、この竹でラオの生産販売していた家が磯子区岡村にあった。節と節の間が長く乾燥すると固くなるのが特色だった。」と書かれています。この事から最戸の「横浜竹」も同じ経緯をたどったのでしょう。


地形図から送電線消える!

2012年02月09日 | 地図

先日知人から毎日新聞に地形図に関する記事が載っていたとの事で、その記事を送っていただいた。この記事は平成24年1月30日の毎日新聞朝刊に掲載されたもので、地形図の電子情報化によって国土地理院は昨年2月からの電子国土基本図(地形図とは呼ばない様です)には送電線が記載されなくなり、その為地形図を利用する登山者や地理学者などから送電線記載を要望されているが、国土地理院は電力会社から送電線の情報提供をテロ対策上から拒否された為に記載する事はできないとの回答であったそうです。

【平成24年1月30日毎日新聞朝刊より】

電子化に伴って、地形図(正式には電子国土基本図か?)から多くの項目が削除された中に送電線があったのです。電子化されるまで地形図は航空写真から送電線を判読してルートの新設・廃止等を記載し、すべて現地において確認作業を行っており、原則電力会社に情報の提供を要請する事はありませんでした。この様に地図作りはすべては航空写真と現地調査で作られていたのです。

【電子国土基本図(上)と送電線が記載されていた地形図(下)】

ところが電子化に伴って地図作りの方法が変わり、航空写真も撮らず、現地調査も行わずに道路・鉄道・大きな構造物等のみをそれぞれの事業体からの情報提供によって、提供された部分のみを修正を行う方法になりました。今までの自己完結法式から他力本願式に地図作りが大転換したのです。まさしくこれは地図作成機関の自殺行為だったのです。しかし国土地理院は既に地理重視から地球物理重視の機構に変身してしまい、日本から送電線だけでなく地形図そのものが完全に消えてしまったのです。

 


台湾のマンホール!これは何?

2012年02月07日 | 街で見つけた物

息子夫婦が正月休みで台湾を訪れた際、撮った写真に台北市の珍しいマンホールの写真を見つけました。そのマンホールがあったのは、清朝時代の伝統的な店屋を初め、日本統治時代の実施した区画整理による町並みなどが混在した歴史的建築が多く保存されている所だそうです。

【歴史的建造物に関する観光案内板的なマンホール?では】

写真のマンホールにはぎっしりと漢字で文字が書かれていて、当初思ったのは下水道に関する情報が書かれていると思ったのですが、一番上に「日祥旅社」と書かれており、旅行会社の宣伝用のマンホールかとも思いました。しかしどうも「日祥旅社」は旅館の名前の様で、少し調べるとこの旅館の建物は歴史的に古い物だそうです。

【台湾のHPにあった「日祥旅社」の写真】

おそらくこのマンホールに書かれているのは、この「日祥旅社」の歴史的な史実に関して案内板的な役割を持たせたものだったのではないかと思われます。鋳物で作るマンホールは一つづつ型を作る必要がある為、個別の為のマンホールは見た事がありません。この様な発想の基で作られたものか知りたいと思っております。どなたかご存知の方は教えてください。

※後日知人にマンホールに書かれている文章を翻訳していただきました。ありがとうございました。(以下に翻訳文を記載しておきます)

日祥旅館

 

元の旅館名は「明和旅館」。

廣州街にある「明和大旅館」の支店。

その後、旅館の経営を他に譲り、「日祥旅館」と改めた。

 

館内は、風格ある伝統的な長形の店を、中央の廊下を軸に、

両側へ数多く分けた1~2坪ほどの小さな部屋であるため、

食事、浴室、トイレは共用の、当時典型的安価な、伝統的小旅館であった。

俗称「行商人の間」と言われ、多くの中下階層民衆が臨時休憩の宿とした。

 

【クリックすると拡大してマンホールの文章を読むことが出来ます】