ハマちゃんのひとり言

鉄道と地図を趣味とする、元地図屋さんだった団塊人です。

金沢区に多くの徴用工・学徒動員宿舎が!

2013年02月24日 | 街で見つけた物

先般金沢八景周辺を散策していて意外な場所にあった「町屋学校通り商店街」についてブログに書きましたが、その際昭和24年測量横浜市1/3000地形図「金沢」に商店街の直ぐ近くに大きな建物群が書かれていたのが気に係っていました。

【昭和24年測量 横浜市1/3000地形図「金沢」より :大きな建物群が書かれている】

先日野毛の中央図書館に行った際、偶然見つけた「横浜金沢の戦跡」という小冊子を見ておりましたら、その建物群の事が記載されていました。それは太平洋戦争も末期の昭和18年頃に造られたもので、建物近くの「海軍航空技術廠支廠」や「日本製鋼所横浜製作所」に動員された徴用工・学徒動員者達の宿舎だったそうです。

【金沢八景駅周辺の軍事工場・宿舎の位置関係:米軍航空写真 昭和22年撮影】

「海軍航空技術廠支廠」は金沢八景駅近くの現在は横浜市大や元東急車両の工場になっている場所に昭和16年横須賀市にあった「海軍航空技術廠」の「支廠」として航空兵器の研究試作を行う目的で設立され、爆弾、機銃、航空魚雷、電波探知機などにも及び、戦争末期には本廠・支廠あわせて職員1700人、工員31700人もの人達が研究開発、製造にあたっていたとの事です。

【元東急車両工場にあった「海軍航空技術廠支廠」:引き込み線の形状は今も同じ!】

また「日本製鋼所横浜製作所」は現在のダイエーとパアークシティマンションの場所に昭和11年主に海軍の機銃類の製造を行う軍需工場だったそうで、やなり戦争末期には職員・工員4000人余りの人達が働いていたそうです。

【現在のダイエーあたりにあった「日本製鋼所横浜製作所」の工場群」

戦争が激しくなる中国は国家総動員法に基づいて「国民徴用令」によって招集されなかった人達が徴用工として軍事施設や工場に動員されました。さらには「学徒戦時動員令」に基づき国民学校高等科、中学校、専門学校、大学にも学徒動員され上記の軍事関連工場に送り込まれました。

【町屋原宿舎:「横浜金沢の戦跡」 2012年発行 横浜金沢の戦跡を調査する会編集より】

その時金沢区には多くのそれらの人達の宿舎として集合住宅が建てられ、そこに入居していた人数は学徒動員・挺身隊400~500人、徴用工は2000人に達したと言われたいます。その一つがこの大きな建物群だったのです。その名前は「町屋原宿舎」と14か所の宿舎の中では一番大きなものだった様です。

【町屋原宿舎:「横浜金沢の戦跡」 2012年発行 横浜金沢の戦跡を調査する会編集より】

戦争末期北は岩手県から南は静岡県までの学徒や朝鮮人徴用工までの多くに人達が軍事工場での重労働から帰り、この宿舎で束の間の休息を過ごしていたのでしょう。平和になった現在ですがここを舞台にその様な事実があった事を忘れない様にしたいものです。

 


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1 コメント

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海軍航空支廠 (毛利邦彦)
2020-02-07 16:16:58
私の恩師90歳がタイトルのはなしをしており、調べていてこのブログを発見しました。航空機の螺子などの部品の製造に中学生で徴用された話をしていました。感謝
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