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ハマちゃんのひとり言

鉄道と地図を趣味とする、元地図屋さんだった団塊人です。

昭和の上大岡駅の正月風景!

2014年01月01日 | 鉄道

あけましておめでとうございます。

お正月という事で、昭和時代の上大岡駅の正月風景写真をご覧ください。

現在の京浜急行上大岡駅は高層の駅ビルとなり、横浜の副都心と呼ばれる程に発展著しい街となっていますが、時代を遡ると僅か半世紀前の上大岡駅はとても想像できない程の小さな駅舎でした。

ここに昭和30年と昭和36年の上大岡駅の正月風景を撮った写真があります。一枚は昭和30年の写真で、サンフランシスコ平和条約が締結されて日本の主権が回復してからまだ二年といった頃の写真です。小さな駅舎の前に角松が立ち、しめ縄も飾り付けられ、さらに主権が回復して間が無い頃という事でしょうか?日の丸の旗が掲げられています。また駅の看板には英語表記で「KAMIOOKA STATION]と書かれています。これは米軍が占領直後に日本政府に主要な駅には英語の表記をする様に命令が出た事の名残りだと思われます。

【駅前の「ミヤコ写真館」から撮った昭和30年の上大岡駅の正月風景 (宮本和雄氏撮影)】

白黒写真ではありますが、正月と云うのに庶民の服装は地味な様です。改札前では新聞スタンドがき、正月の新聞を買い求めている人の姿があります。人の出入りも現在からするとやはり少なくのどかな田舎の駅を彷彿させます。

もう一枚の写真はそれより六年後の昭和36年の上大岡駅頭の正月写真です。この写真は当時では大変珍しいカラー写真で、晴れ着を着た女性が写っています。高度経済成長が始まりだした頃で、六年後の写真ですが人々の姿にも何処となく明るさを感じる事ができます。丁度この頃の上大岡は住宅地開発の真っ最中の時代で、人口が急増しはじまた頃でした。実はこの上大岡駅舎は六年前の駅舎と同じものではなく、旧駅舎の隣に出来た仮設の駅舎なのでした。なぜ仮設なのかと云うと昭和38年に完成する旧駅ビル工事が始まったからなのです。人口急増に合わせて京浜急行が京浜百貨店(現在の京急百貨店の前身)を造り始めた頃の写真です。また駅名から英語表記は消えている事もわかります。

【昭和36年の上大岡駅の正月風景 (渡辺渥美氏撮影)】

商店街(箱根通り)にもアーケードが設置され、商店街としての発展して来ているのも読み取れます。
この様に高々半世紀程まえの風景ですが、現在からは到底想像すらできないのではないでしょうか?
余りにも急激な変化だった事が、この上大岡駅頭の正月写真からも判ると思います。


さようなら東横線・渋谷駅!

2013年03月06日 | 鉄道

昨日久しぶりに東京へ出かけた際、横浜駅からめったに利用しない東急東横線に乗ってきました。その訳は、現在高架線上の東横線渋谷駅が今月16日から地下化されるという事で、地上にある渋谷駅の見納めを兼ねて利用した次第です。

【東横線渋谷駅構内に入線する電車!】

昭和2年に五島慶太が苦労してやっと現在の場所に東京横浜電鉄渋谷駅が開業してから85年が経ち、ターミナル駅(行止り式の終着駅)として終焉を迎える事になりました。電車に乗り終着駅に着いて階段を使わずに改札口を出る感覚が無性に好きでした。東横線の渋谷駅は特にホームから昔の東急文化会館方面を望む広く空間が解放的雰囲気でなんとも言えず気に入っていました。

【電車を降りて改札口を出られるターミナル駅の嬉しさ!!】

小学生の頃、親に連れられて東横線で渋谷駅で降りて、出来たばかりの東急文化会館のプラネタリウムで星座を夢心地で見たのを今でも思い出します。16日から東横線の渋谷駅も地下化され地下鉄と相互乗り入れされるとの事、ますます便利になりますが、ただの通過駅となり鉄道好きには一抹の寂しさが感じつつ駅を後にしました。

【終着駅の雰囲気が味わえるのも3月15日までですよ!】


京急の3線軌条ポイント!

2012年04月16日 | 鉄道

先月お彼岸のお墓詣りに京急・六浦駅に降り立ったおり、昨年末に京急・広報課の方から教えていただいていた六浦駅の「3線軌条ポイント」を見て来ました。京急の金沢八景駅から神武寺駅まで区間は以前から京浜急行の標準軌道(1435mm)と狭軌道(1067mm)の三本の線路が引かれている日本では珍しい線路形状をしている場所として知られていました。

【京急逗子線・六浦駅の上りホームから見た「3線軌条」です。錆びついている線路が狭軌道線路】

 

【京急電車(標準軌道)とJR電車(狭軌道)の車両サイズ表

:線路幅が狭いJR電車の方が車輪端から26Cmも車体幅が広いのに驚きますね!】

その理由は金沢文庫駅と金沢八景駅間にある東急車両㈱(4月から現総合車両製作所)で製作されて狭軌道の電車をJR逗子駅まで運搬する必要から生まれてものでした。その為、六浦駅の上りホームは狭軌道の電車規格に合わせて、車両がホームにぶつからない様にゆとりを持たす必要から、なんと京急電車とホームとの間は26Cmもの隙間が開いていて、お客さんは乗降時ちょっとした危険を感じていました。

【六浦駅では以前緑色位置に狭軌道線が引かれており、ぶつからない様に26Cmも隙間があった】

【六浦駅の上りホームにぶつからない様に狭軌道線を移動している】

昨年の10月に京急はその対策として「3線軌条ポイント」を設置して、その問題を解決する事となり、六浦駅の隣接した部分の狭軌道の線路(3本目)をホームよりに移動し、ホームとの隙間を通常の駅ホームと同じ8Cmに改良したそうです。おそらくこの様なポイントは日本国内だけでなく、海外でもあまり例がないのではと思われます。一度その区間を走る電車を見てみたいですね!(車両工場からJR逗子駅までの新造車両の回送運転は京急の通常運転が終了した夜中に行われるとの事です!)

【六浦駅から新逗子駅方面を望む:「3線軌条ポイント」が見える!】

【上り電車から六浦駅方面を望む:狭軌道線線路がホームを避けているのが判る!】


品川鉄道ヤードの終焉!

2012年03月05日 | 鉄道

先日の新聞記事にJR東日本が山手線の品川―田町駅間(東京都港区)で、約40年ぶりに新駅を建設すると書かれていた。どこに駅を作るのかと思ったら、品川・田町間の鉄道ヤードを撤去して、そこを再開発して中間に駅が出来る様です。

【既に「機関区」「客車区」の線路は撤去され残るは「電車区」だけとなっています:読売新聞(ネット版)より】

山手・京浜東北・東海道の各電車が品川駅を出発して間もなく右側に大きく拡がる線路群・鉄道車両群の風景をご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。ここには東海道線の運行を支えた電車の「田町電車区」機関車の「東京機関区」、そして客車の「品川客車区」などが拡がっていて、そこは日本国有鉄道における栄光の花形車両が一堂に会する一大鉄道ヤードだったのです。我々鉄道ファンの憧れの場所で、私も高校の鉄道研究会時代に「田町電車区」を見学に訪れた事を思い出します。

 

【栄光のお召列車専用機関車「EF5861」やブルートレイン牽引車「EF65」が在籍した「東京機関区」 : HP「機関区の記録写真」より】

当時は新幹線が開通して間がない頃でしたが、まだまだ国鉄が誇る車両が多く在籍し、まだまだ鉄道全盛の時代が続いていた頃でした。先年に夜行寝台列車の「ブルートレイン」がすべて引退し、まず「東京機関区」「品川客車区」の必要性がなくなり廃止され、そして上野駅が終着駅となっている宇都宮、常磐、高崎線を東京駅まで延伸し、東海道線と直通運転する東北縦貫線が開通する来年度には「田町電車区」も必要性がなくなる様です。これも時代の流れで仕方がない事でしょうが、国鉄全盛期を知る「鉄ちゃん」としては電車からこの壮観な景色が見れなくなるのはさびしい限りです。

【追記】 記事掲載後、久しぶりに京浜東北線電車に乗る機会があり、撮った写真です!

【撤去作業が行われている旧「東京機関区」跡地 :機関車のいないのが寂しい!】

【今だ健在の旧「田町電車区」(現田町車両センター):この電車群が見れるだけで嬉しい!】


駅のホームに柵がある?

2012年01月14日 | 鉄道

一昨年亡くなった母の遺品の中から古い写真が幾つか出て来ました。その中に終戦後間がない昭和22年頃の横浜駅ホームと思われる写真がありました。その写真はおそらく東海道線の下りホームから上りホームを撮ってものの様です。さらに後ろには東横線のホームが写っています。

 

【転落防止用の柵ではありません。連合軍専用部分の様です!】

不思議なのはそのホームに柵が設けられ、柵のホーム側に椅子が置かれている事です。写真に写っている日本人はその外側に並んでいます。さらに写真を拡大してみると、柵には英語で「Allied」(連合軍)と書かれている様です。そこで連想したのは、戦後連合軍が横須賀線などに連合軍専用車を連結して走らせていた事から、この柵はこの柵の内側は連合軍専用のスペースを確保していたのではないかと思われます。

 

【横須賀線に連結されていた「連合軍専用車」(白帯):鉄道ピクトリアルより】

連合軍専用車の車両の写真は見た事がありましたが、専用車が乗り入れるホームの状況は知りませんでした。当時横浜には全占領軍の鉄道輸送を総括する「第三鉄道輸送司令部」が日本郵船ビルを接収して設置され、また横浜からは全国に向けて連合軍専用列車も多く発着していた事から、横浜駅ホームに特別この様な柵が設けられたのかも知れません。