小さな日記

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めいわく

2011年06月20日 | Weblog

日本では、親が子どもに「みんなの迷惑にならないようにしなさい」と教えるが、インドでは、「あなたは迷惑をかけて生きているのだから、他人も許すようにしなさい」と教えるということを聞いた。

子どもが幼稚園の時、先生が懇談会で「おかあさんたちは我が子をどういうふうに育てたいですか?」と尋ねられて、全員が答えた。ほぼ半数が「迷惑をかけないように」という言葉を出すのに驚いたものだ。

自分自身、迷惑の塊みたいなものだなぁと思っていたから、子どもに迷惑をかけるなとはとても言えない親である。そもそも、生きると言うことは、植物、動物食い散らし、自分では始末もできない糞尿撒き散らし、迷惑なことだと思っていた。

でも、おかあさんたちの言う迷惑は、みんなが出発する時は、遊びを止めて一緒に出発する、みんなでボールで遊んでいるのにボールを一人占めしない、とか、そういう次元のものだった。それでも、そういうことを、「迷惑をかけない」という言葉で集約してしまってよいものだろうか、と、そのころ思ったものだ。集団行動を乱すことは、迷惑なことだろうか。集団の中で楽しく自己実現、自己表現することを学ぶために幼稚園に入れたのではないのか?

みんなでしていたボール遊びを止めて、自分がしたい違う遊びに上手に誘っていくことばかけとか、みんなが出発するといっても、自分はこれとこれをしてから行くから待っててほしいと感じよく納得させる技術とか、そういうことを、集団生活の中で学んでいくのではないかしら?

そういうことが成功したら、それは「迷惑をかけた」ことにはならないはずだ。

迷惑をかける=ひとと違うことを主張する、と言う風に、子どもたちに刷り込んでしまわないかなぁと、危惧した。

実際、日本人は、おとなも、内心文句タラタラでも、「自分が迷惑をかけるひとになりたくない」から、なんでも主流に従う傾向がある。流れを止めること自体は悪いことではないのに、めんどくさい、ややこしい状況を作り出すことは、悪いことになってしまう。

原発は安全ですよ!と政府と電力会社と一体となって専門家、学者がにこやかに講演していた時代、学者でありながら「原発は大きい危険を孕んでいる」と言い続けた小出裕章助教など、本当に邪魔者、悪者扱いだった。

沖縄の基地負担が大きいことも、原発作業員が劣悪な環境で命を削っていることも、そういう話題を持ち出すこと自体が、せっかく楽しくウキウキの懇談を面白くない陰気な雰囲気にしてしまう迷惑なことだ。

「迷惑をかけてはいけない」と子どものころから教えられ続けた功罪ではないかとさえ思う。迷惑をかけているひとは悪いひとだから、非難してもいいんだよと言ってるみたいだもの。インドの、みんなが迷惑を掛け合って暮らしているのだから、自分も許されて生きているのだから、他人も許してあげようね、というのは、とてもいいと思った。

そのとき、迷惑に見えても、貴重な意見かもしれないのだから。

 

こんなに迷惑な原発を54基もスルスルと作ってきた背景には、迷惑かけずに真面目に一生懸命仕事をしてきた人たちの尽力があった。みんなが向かっているプロジェクトに一石を投じてはいけない、同じ流れに乗っていくことで、成功が得られるのだと、頑張ってきたはずなのだ。それが、大きな大きな迷惑を導いてしまった。

311以降、わたしたちが同じ道を歩まないためには、こういう価値観の転換が必要だと思う。政治家も考えて欲しい。「菅首相は、迷惑なことに、原発推進勢力を敵に回してしまったから、なんとしても貶めたい」というのでは、またどんな想定外の大迷惑にぶちあたってしまうことか。


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