1年たった。1年前のあの時、食器やタンスが倒れるものすごい音を聞きながら、家族全員居る場所がわかっていてなんとか大丈夫だろうと思えるのはなんとありがたいことだろう、と、思いながら、食卓の下で目を閉じていた。一応、ゆれがおさまって、立ってみたら、目も当てられない惨状。とにかく、片付けようと、動き始めたら、また大きなゆれが来て、食卓の下に。何度かそんなことを繰り返して、母の部屋に行ったのは、2時間後だった。エレベーターも階段も使うのがこわかったから。
つれがまず気にしたのは、原発がこわれたのではないかということ。テレビでは、最初、異常がないみたいに言っていなかった?そうかと、ちょっと安堵したように覚えている。それが、やっぱり、次から次へとひどいことになっていったのだった。そして津波の映像。
思い返せば、本当に変な対処法ばかりしていたよね。おがくずをつめたとか、生コンクリートで塞ごうとしたとか、???政府はなにやってるの?なにも知らないの?どうして封じ込めないの?牛を北海道に連れてったって!?かわいそうとかそういう問題じゃないでしょ!ヨウ素剤、配ってないって?!え?線量が高いとこが避難所になってるじゃない!仮設の建設にどうして地元の会社使わないの!
変なことばかりで、頭がおかしくなりそうだった。でも、きっと、混乱が収まったら、放射性物質と原発は封じ込めることになるだろうと、思っていた。甘かった。大甘だった。政治家は、若いひとまでボランティアで除染に駆り出しそうとする、食べて応援する絆とか推進して、誰でも被爆させようとする。
政治家たちがすることを、「国は~」と、言ってしまいがちだが、もうそうは言いたくない。この政治家たちを選んだのは、わたしたち国民であって、まず命を、健康を、子どもを大切にしようとする政治家を育てることができなかったのは、わたしたちおとなだ。子どもには選挙権はない。
日本のおとなは、長年に渡って、自分の子どもたちをないがしろにする国を作ってきてしまったということだ。
この1年で、それははっきりしたのだから、次の1年でそれを変えていこう。変えていこう。変えていこう。
それには、フクイチの事故で、いまだに放射能が漏れていること、土壌、大気、河川、海、全てが汚染されていて、それは、何十年も、百年もなくなることはないこと、その現実認識を、日本人全員が共有することから始まると思う。まるで、事故前と同じ町を、山川を作ることができるかのような発言をするひとは、現実逃避だ。
もう、事故前の環境には戻れないのだ。戻れないけれど、日本全国が協力し合って、なんとかみんなが食べていけるようにすることは、きっとできると思うのだ。みんなが暑さ寒さをしのげる住処で、安全な食物で満腹ではなくとも健康を維持できる食事を分かち合い、それぞれが持つ知恵と技術を惜しみなく出し合えば、きっと日本はやっていける。希望は、個人の暮らし方にかかっている。まず、わたしから。そう思って動き始めているひとが、この1年ですごい勢いで増えている。
きょう、初めて大家さん御夫婦と会った。わたしたち夫婦と同じ年齢で、貿易会社を経営してらっしゃる。社員の方と何度も石巻の避難所に支援物資を運んだそうだ。聞いて驚いたのは、わたしが住むこのお部屋も、京都市に、被災者のために無償提供していたそうだ。けれど、申し出がまったくなかったので、不動産会社に募集をかけさせたそうだ。
それを聞いて、なんとも申し訳なく、こんな良いお部屋、知れば住みたい方がいらっしゃったのではないかと思う。東北から京都は遠くて旅費も高いから申し込みがなかったのだろうとおっしゃっていたけれど。。。わたしたち家族も、言ってみれば放射能と地震から避難してきたのだけれど、もっと必要としていた御家族もいたかと思うと、このお部屋に住めたご縁を大切に、東京の若い人、子連れの方など、できる限り、被爆休養させてあげたいなぁと思う。
明日、つれが仕事ついでに札幌の母のお部屋から送った家具などが届く。やっと形がついたレイアウトを崩して、また一からやり直し。5月にはわたしも札幌に行って、家具以外のさまざまな物を処分したり送ったりして、お部屋を空にする。そして、ようやっと、嵐山引越しが完了なのだが、どうしても、いつでもお客様が泊まれるように、物を減らし、空間を確保しておこうと思っている。