小さな日記

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脳死

2009年07月07日 | Weblog
6月17日のブログに、息子の友人脳死の知らせのことを書いた。昨日、当人から息子にメールが来た。「いきてるよ」そして、けさも「おはよう!」と。

17日からずっと、彼女からいただいたフライパンを祈りながら使っていた。でも、なぜか、悲壮感はなく、心の中では、こんなことを思い出として彼女と語っている自分がいた。

18日に衆議院で「脳死はひとの死である」というA案が通過して、彼女のご両親の気持ちを察していたたまれなかった。脳死法案の選択肢はあまりに大雑把で、どれも選びたくない。

3週間足らずで脳死から生還してきた身近な事実を知って、10年かけて生還するひともいるだろうと思う。17日に、ご両親があきらめて臓器提供していたら、きょうの喜びはなかった。

脳死をひとの死と規定してしまうのは、行き過ぎだと思う。臓器提供が悪いわけではないけれど、臓器提供しやすくするために規定するのはおかしい。

命は不思議に満ちている。パイナップルの葉を根元から切って土に埋めておいたら、根がたくさん生えてきた。今まで捨てたパイナップルの葉は数知れず。これからも、生きる可能性のある野菜やら果物やらをゴミとしてたくさん処分するのだろう。家が狭いことを言い訳に。今回思いつきで埋めたパイナップルに特別意味があったわけではない。命は、縁に生かされるものだ。

アメリカでは脳死をひとの死と規定しているから、脳死したら臓器提供にすぐ踏み切ることに家族の後ろめたさがないそうだ。わたしは、後ろめたさを一生ひきずってもなおかつ、他人の命を助けたいという覚悟が、決意がなければ、臓器提供するべきではないと思う。ひとは、悲しみがないほうがいいわけではないのだ。政治が悲しみから逃れる言い訳を作ろうとするのはおかしいと思う。