Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

陶器の美に目覚める

2013-12-25 14:31:25 | Dr.大福よもやま話
今年も2人だけのクリスマス礼拝をして、今日は午後からおうちでお仕事(このままだとほぼ徹夜になりそうな気配…)。

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夫婦ののろけ話って、ひと様にとっては鬱陶しいだけでないかな、迷惑をかけているのではないかな、といつも思いつつ、親しい人たちとのおしゃべりではついそうしてしまう。大切な人を失った当人に対して、亡くなった人についてのお話しをするのは、悲嘆の最中にある当人にとって大きな慰めとなる。私の周りの親しい人たちは皆そうしてくださるわけで、優しい人たちだなあと感謝している。けれども、同時に皆さまもまた、私ののろけ話をまんざらでもない様子で聞き入ってくださっているようにみえる。そうだ、みんなのせいだ。その話になると止まらないのは、みんなのせいだ。

「どうせ豆大福さんはまた、大福先生よりイケメンはいないとか、言うんだろうけど」なんて最近も桶川さんに言われた。それはそうさ、だって素敵でしょ、こんな話ひとつにしても……。

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家事に関して、するときには何事も2人一緒にやるのがふつうだった。それは夫婦間で話し合って決めたルールということではなく、そうするのがいつも楽しかったから自然にそうなった。たとえば洗濯とか、そうじとか、食事の支度とか、日常の買い物とか、いつもどこでも2人で一緒。ただ、料理はほとんど私。その方がおいしくできるから。

私たちが夫婦生活を開始したのは、連れ合いが退職した後だったから、ある時期は私の方が外で働く時間が長かったことがある。私が外で働いた帰りには必ず、連れ合いは駅まで迎えに来てくれた。また、逆の場合にも私が駅まで迎えに行く。早く会いたくて、家でなんか待っていられないから。

その後、一緒にその日の買い物をすることが自然な流れとなるのも道理。

これもまた必然的に、家事のうち皿洗い担当は彼、ということになった。しばらくすると、意外なことを連れが言い出した。

「こう、皿洗いを毎日毎回黙々とやり続けているうちにね、僕は器の美しさに目覚めたんだよ。いやあ、陶器っていうのも実に美しいものだねぇ」

もちろん我が家で使っていた食器など、庶民向けのお店やスーパーで購入したものばかりだ。そのような類の器の中に、生活の中にある美に、大福先生は改めて心を揺さぶられたらしい。

豆大福はといえば、子供の頃から何かにつけ、佐賀の祖母が有田焼などの器を送ってくれたりしていたから、「美しい器」の存在が日常となっていたのかもしれない。もちろん大福先生とて、たとえば青山通りの窯元直売店でディスプレイされている器が美しいのは知っていた。よく墓参りの帰りに一緒にウィンドウ・ショッピングをしたものだ。しかしそういった、芸術品にまで上り詰めた器の話ではなく、普段の生活の中で使われる器がこんなに美しかったのか、という発見が嬉しかったようである。

皆さま、よいクリスマスをお過ごしください。

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