高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

マルセル「稜線の路」21

2022-09-28 16:08:02 | 翻訳
73頁

(つづき)何にも気づかないでしょう。すべては私たち次第です。いいですね、いいですね。(その時、音楽がもう聞こえなくなったことに驚いたフェルナンドが、ドアを少し開ける。アリアーヌ、フェルナンドに向かって。) 私たち、動きが完全には合っていなかったんです。もう一度始めてくださいますか?マドモワゼル。









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第二幕


 ルプリユール家。午後二時。インテリアは、そのすべての細部が配慮と、洗練さえ印象づけずにはいないものである。










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第一場

アリアーヌ、 フィリップ

フィリップ、煙草を吹かし、時折、中断してリキュール酒を一口一口飲む。アリアーヌは長椅子に横たわっていて、目を閉じている。

(フィリップ) あいかわらず、出発日は決まらないのかい?

(アリアーヌ) いいえ、まだよ。

(フィリップ) 去年よりも、パリに我慢しているように思えるけど?

(アリアーヌ) 幻想を持っちゃだめよ。私は意志力だけで生きているのよ。

(フィリップ) それで? 

(アリアーヌ) 私がロニーに戻る時は、これまでの時とおなじよ。完全な健康崩壊になった時。


78頁

(フィリップ、穏やかに。) その場合、なぜ戻るの?

(アリアーヌ) 真面目に言ってるの?

(フィリップ) まったくもって真面目だよ。ぼくは確信しているけど、それは、きみが繰ることを決めなければならない一つの頁だよ。

(アリアーヌ) 言おうとしていることが解らないわ。

(フィリップ) じゃあ、こう仮定しよう、ジャンシアーヌが貸し出され、売られ、焼けたとする。そのほかいろいろあるとする。そしてきみはあそこにもう住めないとする… 

(アリアーヌ) ほかのところへ行くわ… 

(フィリップ) ほかへ行くこともできないとするんだ。どうなるだろうか? 

(アリアーヌ) あなたの質問は全く無意味だわ。 

(フィリップ) そう思うかい? 

(アリアーヌ) 私は、すぐさま病気がぶり返すでしょう。再び何年もの間、山腹に居ることになるわ。何もすることができないままね。

(フィリップ) あの高地のきみの医者が、それをきみに断言しているのかい?

(アリアーヌ) 私はもう医者にはかからないわ…

(フィリップ) そうすると?









マルセル「稜線の路」20

2022-09-28 15:42:06 | 翻訳
70頁

(つづき)何週間というもの、私はピアノを再び弾く決心がつきませんでした… でも、あなたと一緒なら ― あなたとだけですが ― 私、再び始める勇気を持てると感じます。

(ヴィオレット) どうして、わたしとなのですか?

(アリアーヌ) 私、直観という言葉はそれほど好きではありません。この言葉はあまりに乱用されたからですが、でも、ときどき突然私を襲う確信のようなものに対応する、唯一の言葉ではあります。それは観念より以上のものであって、ひとつの憑依です。

(ヴィオレット) 憑依とはこわいですね。(アリアーヌはピアノに近づいており、そこに積み重ねられているノート類を持ち上げる。) 何をお捜しですか? 

(アリアーヌ) ローゼンミュラーのソナタを。それをジェロームが… (ヴィオレット、動揺する。) いいえ。聞いてください。あなたのコンディションを私に言ってください。それは私のコンディションなのです。せつにお願いしたいのですが、あまりに慎重にならないでください。私は、生きることがどれだけ大変かを知っています。

(ヴィオレット、打ち砕かれたようになって。) おねがいです、わたしにはできません…

(アリアーヌ) 私に大きな助けとなることを、してくださらないのですか? あ! ここに、捜していたものがありました。バッハのソナタ第一練習曲です。一緒にこの曲の一つを今すぐ弾くのは、あなたにはそれほど嫌なことですか?


71頁

(ヴィオレット、次第に気詰まりになって。) もっと後ではいけませんか?

(アリアーヌ) 私には、それは大事なことではないのよ。私は兄のことを知っているけど、九時前には帰宅しないわ。

(ヴィオレット) なら、どうしてそんなに急いで? わたしは調子が良い状態では殆どないし… 弾く前に、このソナタ集を再譜読みしたかったのですが…

(アリアーヌ) ご冗談を。

(ヴィオレット) よいお考えだとは思いませんわ、確かに… 直観というものは… わたしも時々持ったことがあるように思いますが… あなたはわたしのことは全然ご存じありません。

(アリアーヌ) あなたが思っていらっしゃるよりは、ずっとよく存じておりますよ。(ヴィオレット、抗し難い眩惑のようなものに屈して、自分のヴァイオリンを手に取ってしまう。アリアーヌ、ピアノに向かい、楽譜を開く。) このソナタを弾くことで、どうですか?

(ヴィオレット、ほとんど聞き取れない声で。) それでよろしいのなら。(二人は、そのホ長調のソナタを演奏し始める。だが最初の幾小節かで、ヴィオレットがやめる。堪えられない嗚咽に揺さぶられたような状態である。 驚いたアリアーヌも、演奏をやめる。そして振り向いて立ち上がり、優しくヴィオレットの手からヴァイオリンと弓を取り、ピアノの上に置く。


72頁

(アリアーヌ) どうして泣いていらっしゃるの? ねえ。

(ヴィオレット) 耐えられません… できません… 

(アリアーヌ、深い優しさで。) 私がすべてを知っていることを、理解していらっしゃらなかったの?

(ヴィオレット、茫然自失して。) 知ってらっしゃる?

(アリアーヌ) 何日か前から、私は、もう全然疑ってなかったわ。

(ヴィオレット) でもジェロームは… 

(アリアーヌ、毅然として。) ジェロームについてはまだ話してはだめ。話はすべて、私たちの間のことだけに留めておかなければなりません。

(ヴィオレット) そんなことできません。

(アリアーヌ) ジェロームは子供です。私たち、彼をおおいに苦しませることができるでしょう。 

(ヴィオレット) あなたが真実を知っていると、彼が気づいたら、わたしは想像もしませんが… 最悪のことが起こるかもしれません。彼は逃げ去るか、あるいは自分を…

(アリアーヌ) ジェロームは自殺はしないでしょう。逃げ去りもしないでしょう。(つづく) 









マルセル「稜線の路」19

2022-09-27 13:32:31 | 翻訳
67頁

(アリアーヌ) 私が彼を一度でも自分の夫にしようと思ったかどうか、そんなに確かでもないのです。病気になる前、私は、公共の意見と私が呼ぶものに敢然と挑むことしか、考えていなかったのです。子供じみていましたわ。その後、私の関心は他のものに移りました。

(ヴィオレット) でも、あなたが出会われた時は…

(アリアーヌ) ジェロームと? 彼とは出会ったとは言えません。私たちは一緒に育ったのです。私たちの二つの家族は昔からずっと知り合いだったのです。私がセルジュ・フランシャールに恋の炎を覚えた頃、ジェロームはオックスフォードにいました。

(ヴィオレット) それでは彼がイギリスから戻ってからですね? あなたがお感じになったのは… 

(アリアーヌ) ええ、そうかもしれません。(沈黙。) 数か月か、多分ほんの数週間後、私は彼にそのことを、病気や熱の発作のことを語るのと同じような調子で、話したのです。ルガノ湖の上のあたりでしたわ、思い出します。そのときの散歩の途中で、私たち、結婚式の日を決めたのです。

(ヴィオレット、動揺して。) どうして、そこまでわたしに全部お話しになるのですか? 


68頁

(アリアーヌ、それには答えずに。) あの高地で、この冬の間ずっと、あなたはお気づきになるはずもないですけれど、私はあなたのことをたいへん思っていたのです。ジャンヌ・フランカステルさんがクリスマスに私を訪ねて以来です。彼女はあなたにたいして真の愛情をいだいています。

(ヴィオレット) そう信じていらっしゃるのですか?

(アリアーヌ) そう断言すると、あなたをびっくりさせることになるのですか?
 
(ヴィオレット) ジャンヌはあの人々の一人で… いえ、ごめんなさい。

(アリアーヌ) ぜんぶおっしゃって。

(ヴィオレット) 他人への好奇心が幻想を生むことがあると思われる人々の一人かと。わたしは、じぶんが好奇心を触発しているという印象を、いつも持っていました。それにしても、どうしてなのかしら。 

(アリアーヌ、小声で。) それはそんなに不思議なことだとは思えません。彼女は訪問の際、あなたの写真を持っていて、それを私に見せてくれました。

(ヴィオレット) 解りませんわ… 

(アリアーヌ) それはアマチュアの撮ったしごく普通の写真でした。でも、あなたの眼差しが私をたいへん感動させたのです。音楽家の眼差しです。それ以来、私はあなたに… おおいに助けていただきたいと思っていたのです。(つづく)


69頁

(つづき)ここで短期滞在をするつもりなのですが、その間に、私はぜひとも、あなたと伴奏練習をしたいのです。私は腕が少し鈍りましたが、以前はそんなに下手というわけではありませんでした。

(ヴィオレット、狼狽して。) でも…

(アリアーヌ) ご不快ですか? 音楽が生命の欲求となる状態があるものですが、私は再びそういう状態にあるのですよ。私、パリでは、身体的にも精神的にも苦しいのです。山地でひじょうに努力して蓄積した、ささやかな力を、失ってしまいます。そういう場合、音楽が、いってみれば、私が自分を作り変えるのを、助けてくれるのです。

(ヴィオレット) でも、あなたはお出来にならないのですか?…

(アリアーヌ) 独りで弾くことを、と? ええ、もちろんですが、私にとって、それは同じことでは全然ないのです。なにより、独りで弾くと、私の演奏のなかにある曖昧で不充分なものすべてに眩惑されてしまいます。それは私にとって、悲しみと失望の種となってしまうのです… そして、どう言ったらいいでしょう? 私がなによりも好きなのは、協調的な音楽なのです。感心できる言葉を、思いつきませんか? 私の知っている、最も夢心地にさせる経験のひとつを表現できる言葉を… 私は高地でたくさんソナタを、ハンガリー人の若い女性の友だちと一緒に弾きました。彼女はこの秋亡くなりました。この喪失は私にとって深い苦悩だったのです。(つづく)












マルセル「稜線の路」18

2022-09-26 14:50:45 | 翻訳
64頁

(ヴィオレット) そう思っておりました…

(アリアーヌ) 私の母は、H.S.P. と呼ばれる処に属しておりました。ご存じでしょう、プロテスタント高級協会です。母は、徳を心掛けて疲労困憊した人物ですが、或るいくつかの点では感嘆すべき人物でもありました。福音書は、まさに、彼女の日常的な糧でした。それでも、彼女ほど愛することをさせなかった人物を、私は他に知りません ― 私はキリスト教のことは言いませんが ― でも彼女自身はそれを道徳だと言っていました。

(ヴィオレット) キリスト教と道徳は、わたしは二つのものだと思いますわ。 

(アリアーヌ) あなたのおっしゃるとおりに違いありません。長い間、私はよく区別することができませんでした。

(ヴィオレット) どうしてご両親はあなたをアリアーヌと名づけたのですか?
 
(アリアーヌ) 奇妙な考えなのですよ、そうでしょう? 我慢するのにほんとうに大変な名ですもの。私の父ひとりの責任なのです。私は、『アリアーヌと青髭』の初演の数日後に生まれました。父はこの作品をすぐに愛するようになり、情熱的になり過ぎました。この作品は父にとって、並はずれて内密で深い経験に応えるものであったのだと思います。その経験を父は私にすっかり話してくれることは一度もありませんでしたが。(つづく)


65頁

(つづき)たぶん父は、私に、無益でいずれにせよ時期尚早の悲しい思いをさせることを、恐れたのでしょう。父は或る時期、人道主義的な大きな夢を構想していたのですが、その望みが失望となったのだと、私は理解しているつもりです… とにかく父は、私をアリアーヌと呼ぶことを押し通しました。でも私の母は、私をいつも別の名で呼びました。セシル、と。まったき安らぎの名、私の祖母の名です。

(ヴィオレット) あなたは、少なくとも、代わりの名を持っていらっしゃった。わたしのほうが恵まれていません。ヴィオレットという名は、わたしをあまりにいらいらさせます。ちょっと滑稽にも、この名が選ばれたことの理由を、わたしは知りません。

(アリアーヌ) あなたがその理由を知っていらっしゃったら、そのお名前は、きっと、あなたに滑稽なものとは思われないでしょうね。そこに、あなたには解らなくとも、純真で胸をえぐるような何かの隠れ話への暗示がないかどうか、誰が知っているでしょう?

(ヴィオレット) そういう隠れ話のことを思うと、すこし胸が痛みますわ。わたしが生まれる以前から、わたしの両親は仲がわるかったのです。両親の間には、ある絶対に共存し得ないものがあって、とても早い頃から、わたしはそのために苦しみました。

(アリアーヌ) おかわいそうに!

(ヴィオレット) ある時は母が、(つづく)


66頁

(つづき)父が母にたいしてとった過ちの証言を私からとり、ある時は… ああ! すべてをあなたにお話するのにどうしたらいいのか、ほんとうに分かりませんわ。わたし、一度も誰にも、そのことについて喋ったことがありませんの。

(アリアーヌ、優しく。) それで?

(ヴィオレット) 無分別のひとことですわ。

(アリアーヌ) そうとは思いません。というのは、実際は… (続けて言うのを止める)。思ってみてください、私は昔、モニクちゃんのお父さんを知っていました。私たちは音楽師範学校で同僚だったのです。最初の頃は特に。不思議なのは、何週間か何か月かの間、もう憶えていませんけれど、私は彼に恋をしていたようなのです。

(ヴィオレット) あなたが? 

(アリアーヌ) だって、そのことで私、晩に何時間もベッドのなかですすり泣いていたのですから。

(ヴィオレット) 不思議なことですわ! 

(アリアーヌ) でしょう? 私は、まさに彼に恋を告白しようとしていたときでした。それからどうなったか、正確なことは私、知りません。どうあなたに言ったらいいのでしょう? とんでもないことだったと、私、感じています。

(ヴィオレット) 彼があなたと結婚していたら、あなたはものすごく不幸になっていたでしょう。 









マルセル「稜線の路」17

2022-09-25 17:05:02 | 翻訳
61頁

(アリアーヌ) わかってるわ。

(ジェローム) ぼくはただ、マドモアゼル・マザルグに、最近ドイツで出版されたローゼンミュラーのソナタ作品を見せに来ていただけなんだ。

(ヴィオレット、ぱっとしない声で。) とても見事なソナタのようね。 

(アリアーヌ) あなたは、音楽の佳作作品の予約申し込みをしていらっしゃいますか? 音楽作品は、いまでは値段がひどく高いのです。以前は私、全作品を買っていました。それはもうできません。でも私は、バールに、素晴らしくよくできた会社を見つけました。郵便で、私が注文する作品はすべて送ってくれるのです… あなたにそのアドレスをお教えできます。それで私に五十フラン戻ってきます。

(ジェローム) スイス・フランでね。つまり二百五十フラン。税込でそれ以上。ここでは目の飛び出る額だ。

(アリアーヌ) そのとおりね、あなた。私はスイス・フランで数えるのに慣れてしまって、そんなこと、もう考えることもしなかったわ。

(フェルナンド) ここでの生活は、あなたには安あがりに思えるにちがいないわ。

(アリアーヌ) それには気づかないわね。反対に、いつも私、額のものすごさに最初びっくりするの。それから(つづく)


62頁

(つづき)私、反省すると… (ジェロームに。)聞いて、あなた、私が思案している間、助けていただけないかしら。プリュニエさん処へ車を走らせて、イセエビを一匹持って来ていただきたいのよ。フィリップが夕食に来るけど、これより彼を喜ばせるものはないことを、私、知ってるの。(ヴィオレットとフェルナンドに。)私の兄は食道楽で、私は感心してますし羨んでもいます。言っておかなければなりませんが、この二年というもの、私は食餌療法中で、水炊きのヌードルとジャガイモなんです。(フェルナンドの同情的な感嘆の声。)時々、私も療法に違反しますけれど、罰はすぐに来ますわ。

(ヴィオレット) なぜそのようなことを? 

(アリアーヌ) いいですか、私思うのですけど、けっして真面目すぎてはいけません。或る点を越す真面目さは、悪徳に似ていますわ… あなたの顰蹙を買ったのでなければよいですが。

(ジェローム) プリュニエさん処へ電話できただろうに…

(アリアーヌ) 遅すぎるわ。もう、好きな時にイセエビを配達してはくれないでしょう。あなたをうんざりさせ過ぎる?… ありがとう、ご親切に。ではまたじきにね、あなた。(ジェローム、とてもぎこちなく、それじゃあ、と、二人の女性に言う。フェルナンド、ジェロームに同伴する。


63頁

第十一場

アリアーヌ、ヴィオレット

(アリアーヌ) 私、まず、あなたの小さな娘さんのことについて、あなたから教えていただきたく存じます。そして娘さんを抱くこともゆるしていただければと思います。ご存じのように、私は子供が大好きなんです。私たちの大きな悲しみの一つは、ジェロームと私には…

(ヴィオレット、ひそかに。) でも… 最後の言葉は多分言われていないわ。

(アリアーヌ) 不幸なことに、三年前、私は手術を受けて、子供を持つ希望が許されなくなりましたの… 私があなたに、モニクちゃんのことを教えてほしいと言ったからといって、あなたには苦痛ではないでしょう?

(ヴィオレット) 娘の名前をご存じなのですか? 

(アリアーヌ) あなたのお姉さまが私に教えてくださいました… 彼女はすべてを私に語りましたが、私の思うに、私がそれらすべてを、取り決められたことみたいに判断していると、あなたが推測なさるのは、私を侮辱することではないしょうか? まったく逆です。