高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

出られないトンネルは無い

2024-07-15 21:43:52 | 日記

出られないトンネルは無い


2024年07月15日 19時筆

自分に向って

 
出られないトンネルは無い。それがトンネルであるかぎり、トンネルの定義からして。われわれの状況をトンネルのようなものだとしか思えないかぎり、われわれは本性的に希望を、つまり信仰をもっており、そのかぎりで生きているのである。だれも信仰をもたないなどと言える者はいない。これは人間の本性なのである。

 
 
 
 
 
 

因果応報は反撥の法則

2024-07-06 03:03:33 | 日記

因果応報は反撥の法則


2024年07月06日(土) 02時筆

 
人間は、服従しないで反撥するから人間なのだ。意外に思われようが、この反撥心によって因果応報の世界も成り立っている。誰かがぼくを侮ったとする。ぼくがその瞬間、なにを、と反撥心を起こすなら、応報の結果をもたらす原因が入力されたのである。どんなに時間がかかろうとも、それほど時間がかからなくとも、ぼくはその者に必ず報いる未来を経験することになる。不思議なことに、ぼくの生はそういう因果応報の連続だった。それを起こしたのは、ぼくの反撥心という意志だったことに、いま、思い当たっている。だからこれを書いている。こういう種類のことは言われておらず、そして、相当重要な気づきだと思うからだ。有名なウサギとカメの童話も、カメの反撥心という意志がもたらした逆転劇だというのが、その本質である。意志の力というものを過小評価してはならない。純粋な断定である意志(訳しているマルセルの形而上学日記にちょうどそのことが言われている〔183頁〕)には、あたかも護り神が控えているかのようだ。だから、誰をも舐めてはならない。このことをイエスも言っているのだ(イエスが実在したかどうかではなく、その言ったことの真実性を問題にしている)。ぼくが不当に誰かを舐めても、同じことが起こる。そしてその逆襲に部分的にふくまれている不当さをぼくが感じて反撥すれば、今度はぼくの側からの逆襲が相手を襲うだろう。これが因果応報なのだ。因果応報は智慧(真実に気づくこと)によって乗り越えられねばならない。われわれは〈ごっこ〉をしているのではないのだ。そして、ただ権威に服従しているだけの者など、さらに要らない。
 
 
 
 
 

ベートーヴェンと音楽

2024-07-02 15:42:33 | 日記


ベートーヴェンと音楽

2024年07月01日(月) 筆

 
最近あまり話題にならなくなったベートーヴェンについて改めて思うことがある。聴こえるからこそ愉悦をあたえる音楽を聴けなくなったベートーヴェンの、音楽にたいする関わり方が、普通のものであるはずがない。普通は、聞こえるからこそ音楽への熱意が生じ、持続される。ベートーヴェンの場合は、聞こえなくなったからこそ熱意が燃え立ったのではないか。彼は、たしかに、精神で聴こうとしたのであり、その逆説的な熱意が、彼をして聴くを得さしめたのだ、と思われる。聞こえない音楽を聴いて感動するベートーヴェン。聴くという行為もそこまで高まりうるのだ。人間の可能性を彼は開示した。
 
彼の教訓は、奪われたもの、与えられなかったものを、精神によって取り戻し、獲得する、ということである。
 
 
高田さんがベートーヴェン像をつくらなかったのは惜しい。モデルの現存は絶対条件だったのか。
 
 
 
 

普遍的な憑り(取り)付かれ性

2024-07-01 21:26:41 | 特報


普遍的憑りつかれ性(症)

2024年07月01日(月) 筆

テーマ:集合的容喙現象

 
多かれ少なかれ、とも一応言っておくが、人間はみんなこの性があるとぼくは確信している。むしろこれは自然で正常とも言えるものであり、精神病理学が架空の基準を想定しているかぎり、症とも言えるだろう。どんな人間でも或る突飛な瞬間に、何か他の人格に憑かれたような、他の人格のものだと明瞭に感知できるような言動をみせる。しかも本人には憑かれているという意識は無い。後で反省させても、不思議なことに殆ど本人の記憶には残っていない。むしろこれが普通の人間なのだ。或る必要に応じて時々臨時の端役を無意識あるいは半意識に演じさせられる。ぼくはこれをずっと集合的容喙現象として観察させられてきた。原理的に、皆がこの性を、じぶんで知ることなく持っている。それが発現するのは大抵一時的なものとしてであるが、いろんな時にそれは気づかれ、観察される。ぼくだって無自覚にそれに参与しているのではと思う時がある。学校の体育の時間にバレーボールをやらされて、なぜかその瞬間ボールがどこに来るかが明瞭にみえて、完璧にブロックしたことがある。大学の授業をやっていて、時限を気にせずノートの予定通りにやり、終わった瞬間に終業のベルが鳴って、学生が驚いたこともあった。ぼくには物事の経過がみえていたのだろう。状況のなかにおいてこそはっきりと。あるいは、ぼくが集中して行為している際には、ぼくにははっきりとしていなくともよかったのだ。日常の生活行為においても、ぼくが後年になって集合的容喙現象とじぶんで名づけざるを得ないようになった現象に見舞われることになるよりも前に、多分誰にでもある現象として、それは人間の生活に付き添ってきたのだと、ぼくは思うようになっている。そしてこの世の背後の力は、何らかの動機や目的(これは真面目なものとばかりは思えない)があれば、特定個人には、神がじぶんに覆いかぶさってきたとしか思えないような猛烈さで、現象展開することが出来るようだ。この力の経験と確認は、ぼくに、絶望と同時に希望をあたえる。いくらぼくでも、理論的反省だけでは、ひとつの形而上次元と言ってよい世界に、ここまで関心を開くことは無かっただろう。これまでは、天の悪意のようなこの現象とこの世界から、ぼくの本来の生理念を護ることで精一杯だった。いま、ぼくの生のひとつのサイクルが終結したことを暗示するかのような出来事に気づき、それに応じてなのか、ぼくの世界の観方、その可能性の眺望も、希望の持てるものに変わってゆくかもしれない。そのことをここに記した。
 
 
芸術創造の行為においては、無論、この憑かれ性は深いかたちであるだろう。この憑依が人格まで保証するとは、だから、無論、思わない(憑依だから人格分裂を起こさせることもある)が。(だから芸術家には普通者以上に謙虚と反省が必要なのだ。)
 
 
最近、世で、〈神〉という言葉や事象表現がはやっている。人間の本性から当然のことと思うが、本人に自覚があれば脱線しないだろう。
 
 
(作家の辻邦生氏は、「小説を書いている時の僕と、普段の日常生活での僕とは、違う人間だ。そんなことは当たり前」、と言っていた。)