高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

ぼくの本へのぼくの関心

2020-08-29 03:11:26 | 日記
 
自著『形而上的アンティミスム序説 ‐高田博厚による自己愛の存在論‐』(2009)
《本書は、著者の intimisme métaphysique 〔形而上的アンティミスム〕とよぶ哲学理念の許、彫刻家にして思索家である高田博厚(1900‐1987)の根本思想を初めて本格的に明らかならしめようとする貴重な試みである。その意義は普遍的かつ根源的であり、人間の創造的生の条件が稀な真摯さで反省されている。学問・芸術の魂的原点の確認の為に、また、人生の意味の正面からの示唆を得る為に、
「人間」であろうとする総ての人々に開かれた永続的価値をもつ書である。》
(自己推薦の言葉)
 
 
思いがけずも現在、ぼくの2009年発行の本が、ぼくの熱い関心事になってきている。ぼくの主張すべき思想はここにあるのだ。くだらない者たちを振り捨てて、ぼくは純粋なぼく自身をここに見いだす。
 
ぼくの意識が再びリセットされた。なにがこれをもたらしたか。ぼくの本質と運命である。 
 
ぼくは、帯に著名人の推薦の言葉を附そうとすればできたのだが、そういう世間事を実行しなかった。中村雄二郎氏は高田さんを無上に尊敬しており、ぼくの本の内容を読めば、喜んで書いてくれただろう。ところがぼくは、本を献呈すらしなかった。出版時のぼくの意識は特殊の脱世状態にあり、彼が読む定めならばおのずと彼の許へ本はゆくだろうし、誰の推薦がなくても、本は自らの運命を拓いてゆくだろうという気がしていた。自分の本にふさわしくぼくも純粋でありたかったのだ。
 この本の人生はこれからなのである。
 
 
 
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2021年08月27日付言
ぼくの本は、実力が信頼できる社会的地位にある学者の方々から高い評価を受けている

こういうことは早く書くべきだったろうが、ぼくの本『形而上的アンティミスム序説 ――高田博厚による自己愛の存在論―― 』は、諸大学(国立大学と有名私立大学)の有能な学部長クラスのふたりの教授から、きわめて好意的で高い評価を直接伝えられた。 この事実は堂々と公表してよいものであり、この評価にたいしては、ぼくは無条件で感謝しつづけなければならない。 
 
 容易に味読できる内容ではないらしいので、数的には、寄せられたり接したりすることのできた評価は僅少であるが、それだけに、それがとりわけ有能な教授(学者)の方々からの評価であることは、ぼくの自分への信頼と本の内容の高さへの自信の、支えとなる大事な事実である。 
 
 
 

銀河の曲を毎日弾いています ヘッセの「シッダルタ」のこと

2020-08-12 15:23:57 | 日記

裕美ちゃん、ぼくは毎日、銀河の曲を、一回は通して弾き、それから難しい処を少しは前進させる、という練習をしています。折り返しなしですが、一回を30分以内で弾けるようになっています。自分なりに楽しんで弾いており、この曲の奥深さを味わっています。それから、昔読んだヘッセの「シッダルタ」を読みかえしています。そしてこの書はやはりぼくの生涯の書のひとつであることを発見しています。いま、高田博厚先生における「自然」と「神」という主題で、意識的に思索しているのですが、この書も、ぼくの思索を後押ししてくれるものです。ここで「自然」というのは、人間が個人として自分を照応させる「もの」であり、自分の感情を統御して芸術作品を生ませるようなものでもあります。いままでかんがえ勉強してきたぼくの蓄積を形にする仕事として取り組んでいます。その仕事のなかでもぼくは常にきみとともにいます。一日一回はきみのアルバムを通して聴きます。ぼくの祈りの時間です。神さまから、きみとともに歩むよう、命じられています。これはぼくの本望です。きみにとってはどうなのでしょうか。ぼくがきみとともに生きるかぎり、きみはそれをゆるしてくれていると、ぼくは信じられるのです。きみを愛しています。きみのすべてを。きょうはとりとめのないおたよりになりましたが、よりいっそうぼくの本心が直接に書かせていると、感じてください。お元気でいてください。 

愛する裕美ちゃんへ 

正樹より 


2020年8月10日 22時


きみの演奏の、内容ある端正さと宇宙的広がり

2020-08-05 14:07:16 | 日記

・忠実心は神の導き
ぼくのなかの、きみへの主観的忠実心は、幻影ではない。この忠実心こそ、神の導きである。この忠実心への忠実によって、ぼくは加護されているのだ。

・”告白”
この意識と経験は強まっている。
ほんとうに、ぼくはきみを通して神につながっているのではないだろうか。ぼくはそれを欲したけれども、いま、それはもうぼくの意志を超えてぼくに諭す神聖な秩序になってしまっていることを内的に感じる。このことの前に、ぼくは畏れ慎まなければならない。
「神の前での愛」をぼくははじめて経験しているのではないだろうか。

・真剣に取り組んでいる事が仕事である
何でも真剣に取り組むと仕事になるんだよ。禅者もそうしたようにね。だから座禅することも、真剣に行なうなら、禅の一形態になるんだ(禅は座るだけではなく生活そのもの)。真剣に取り組んでいるかどうか、それがすべてだ。むしろ真剣の内容が問題だよね。内容はじぶんにしか分からないから。こうして、生きることそのものが仕事になる。具体的な学問や芸術は、仕事の契機なんだよ。
何が大事なのかというと、自問することが大事だとぼくは思う。仕事とは、事に仕えること。そのなかで自問する。たとえば、ぼくは、忠実とは何であるかを、一生懸命思念している。これは立派な仕事であるといえる。


・“造形の「真剣さ」の根拠”
どうも素描というものはただ描いてうまくなるというものではないらしい。それを承知で努力するしかない。
中途半端な段階を個性だと見做す気はまったくない。その意味で完成などない。そういうものは突破すべきものでしかない。対象への忠実あるのみ。どうしたら対象に近づけるか。それは自分の内側から起こってくる。そこにしか真剣さはない。



・内容のある端正さ 思念(思想)によってこの世を超越するのが人間
内容のある端正さ、きみの演奏はまさにそう言われるものだ。きみの個性はきみしかない。 

それにしても不思議なひとだなあ。ぼくなどとても及ばない。それでもぼくは自分を主張してゆかなければならない。なに、世のなかにたいしてね。きみではない。それならぼくにも分がある。思念においてなら。

思想というものは大事だ。思想そのもので、この世を超越できる。それが人間だからだ。


・”「芸術すること」の意味 ぼくの祈り”
「思念すること」も、正しいものならば立派に創造行為である。

ぼくのいまの日常に繰り広げられている、可視界も不可視界も重なり合ったありのままの世界に、ぼくは吐き気を覚えている。悪魔の世界だ。自然性そのもののなかに 夥しい意図的な不自然性が客観的に経験される。「芸術すること」はそれにたいして反抗することであり、この意味で世界を超越することである、マルローの言うように。
ゆえに ただこの世のありのままを表現しようとすることは それ自体ではいかなる芸術でもない。
理想性(イデアリテ)そのもののなかに、「実在との闘争」が自覚あるいは含意されている。

「芸術すること」の意味をぼくはこの欄(ブログ)で総合的(正しくは包括的)・実践的に問うているらしい。それは生きること愛すること結晶〔実現・実証〕させることである(死ぬことではなく)。

芸術者は先ず作る、そしてかんがえる(反省する)。「生きることなのだ」(高田博厚)。「思想は行動である」(アラン)。「はじめに行為ありき」(ゲーテ「ファウスト」)。

「芸術家」ではなく「芸術者」であるのが正しい。
(本来的に芸術する者を、ぼくはその場その場の気持で「芸術者」とも「芸術家」とも言う。)

この世にいつまでも留まるのは魂の本質に反しているだろう。この世の規則はつねに魂を自分の外に散らしてしまうようにできているから。生の本質そのもののなかに、魂に反するものがある。祈りは、魂が自らを自分自身にとりもどし集中する、自分の本質へのよびかけの行為である。「自分の自分自身への行為」が芸術なら、祈りもまたそうである。祈りは無媒介的にそれを果たそうとする。芸術行為も祈りもこの世における魂の両輪であることに気づくのは自然なことである。

ぼくの祈りは愛の祈りだ。直接きみと魂において繫がっていたい。繋がっていることを実感して信じていられる状態が、ぼくの魂が自分に集中している状態なのです。ぼくはきみと自分を一緒に見出しています。それがぼくの魂です。すぐこの世の要事とぼくの状態はぼくを自分の魂から散らそうとしますが、ぼくは負けません。意志をきみとの一致の集中に向けます。これがぼくにとって「祈り」です。そこにおいてのみぼくは神といるのです。きみへの意志、祈り、忠実の努力、それなしの神はぼくにはありません。


・自分への言葉: 課題への思念で自分を整える
ぼくが自分の厳粛な思念という仕事のなかに、すべての余技を重厚に位置づけることができなければ、いっさいは無意味だ。

ぼくを重厚にさせるのは、自分の課題を思念することで自分を整えることのみ。

ぼくは薬害その他でひじょうに崩れやすい条件のなかに生きているので、どのくらい自分に寛容でよいのか厳しくしなければならないのか分からない。


・”芸術の本質と、現代病理の本質” 「思想」の意味を問う
ぼくの確認したかった高田博厚の言葉が端的にここにある。この言葉を敷衍することがぼくの課題なのだ。「自然」すなわち「もの」との関わりにおいて。そして「思想」の意味をあきらかにする。なぜなら、教義や知識、イデオロギーが問題ではないからだ。個人の経験の実質と秩序が問題なのである。「思想」とは、具体的な人間すなわち個が、自己を自覚することである。

高田博厚のこの重要な言葉を紹介しておこう:

《芸術の「存在」「創作」自体はいかなる時代にも、理想主義(イデアリスム)の要素を含んでいる。むしろ人間のイデアあるいは、イデアリスムが芸術を生ませるのである。しかし芸術は感覚を通しての表現だから、必然的に「形(フォルム)」を生む。内部のイデアが外界に表示されることそのものが「抽象」であり、「形」なのである》。(「芸術の根底に詩の存在」-著作集III、381頁-)

文意は瞭然としている。彼の、芸術には思想がなくてはならない、という持論の意味はここに呈示されている。芸術は何かという問いへの、最も基本的で根本的な解答の表明が、上の言葉である。この言葉をぼくがここに掲げた動機は、「芸術とは何か」という定義を確認しようという思いと、同時に、現代の、特に日本での、芸術を〈アート〉と呼びつつ横行している、芸術を〈遊び〉と解して恥じない態度の本質をはっきりさせようという思いなのである。すなわち、芸術の創造に根本的に不可欠な「イデア(理想)」が、創作者の内部に生きていないこと、このことが、現代日本の、もはや芸術ではなく〈アート〉と称されて為されている、〈形の遊び〉の本質なのである。造形家にもすでに「魂」が、すなわち「人間」が、消失していることが、現代に普遍的な、精神の疾病なのである。高田博厚が、第二次世界大戦中に既に予想していた、戦争による物的破壊よりも恐ろしい、大戦後における「人間」の消失である。


・美は形あるものである  きみの演奏にある思想
きみの演奏に思想があることは、立派に感じるよ。思想のない美はない。美そのものが思想、つまり形あるものだから。(これは世の一般に言うのだが、)それをごまかさないことだね、変な観念によって。
むしろきみのように、はっきりと思想を教えてくれるひとはめずらしい。思想は言葉だけではないということだね。自分の自覚なんだ。だから形に証される。
どんなに他を批評しても、示せる自分が無い者は、だめなんだよ。


・きみの演奏の宇宙的広がり  ぼくの「初心」
たとえば きみの演奏「きっと忘れない」には、深くて宇宙的な広がりがある。静かな曲なのに底知れない空間があって、そこではすべてのじぶんの追憶が、未生前の記憶までが、甦って語りかけるんだ。聴く者を、各自の魂の世界に招くんだよ。この曲でこんな演奏ができるのは、きみだけだよ。曲の可能性を汲み尽くしているような演奏だ。
今回は、よく、この親しい曲のきみの演奏について、いつも感じていることを言葉にしたと、じぶんで思っている。
このきみの演奏こそ、ほんとうの「不動の感動」だよね。大先生がシチリアのタオルミナの夕暮れで得たと云っている感動の印象を呼び起こすのだからすごい。

ぼくが いま、生き生きしているのは、ぼく自身になりきっているからだよ。ぼくは、もっともっと、自分にのめり込んでゆきたい。この電子欄(ブログ)を書き始めた頃は、この世と現実の人間への絶対的絶望で、ぼくは自分の魂のみをみつめていた。それはそれは、他人のとても想像できない程に。いま、ぼくが いくらか世間的接触をとりもどしたとしても、ぼくは、一般には普通のことでもぼくには過度な、一般への心遣いに、気持を散らしたくない。ぼくが世間にすこしくらい義理を欠く分は、ぼくが自分の魂に、ぼくの世界のなかで純粋に生きることによって、充分償われるし、神も宜しとなさると思う。いま、ぼく自身に、そういうかたちで、「初心を忘れるな」、とぼくは言いたい。じぶんの純粋感情を生きること。それこそ、神がぼくにもとめておいでのことだと、ぼくは思う。


ところで、きみのアルバム「あなたを感じていたい」を昨日聴いたよ。はじめて聴くように、すべてが良かった。ほんとに人間的な演奏だ。

きみの演奏は、内容ある端正さと宇宙的広がりにあふれている。この言葉を、きょうのおたよりのなかから、題にしました。ぼくの実感と気持が籠っています。


精神が健康であることは、身体が健康であることを入れている。健康は身体から定義できない。精神からのみ定義できる。 


きみのすべてを愛する、裕美ちゃんへ 

正樹より どうかお元気で 



2020年8月3日