高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

この世での居場所の無さが転じて積極的な形而上世界への対峙となる

2024-06-30 16:46:41 | 日記

この世での居場所の無さが転じて積極的な形而上世界への対峙となる


2024年06月30日(日) 03時筆

自分に向って

 
ぼくの人生は、この世に居場所の無い人生だったことに気づいている。そして、だからこそ、ぼくはもっと積極的にメタフィジックの世界と対峙する生を生きてよかった、ということにも気づく。実際、そういう生き方をしてきたのだと、総括できる。この世と、この世の人間の殆どには、嫌悪と恐怖しか感じない(こういうことを率直に言い、肯定することが初歩的に大事だ)。だから、ぼくは、宇宙的に壮大な美の世界を、もっと直接に、いまからでも相手にしてよいのだ。デカルトを、新プラトン主義的な世界に解放・移行してよい。この世への呪縛からみずからを解くのだ。奇しくもぼくが大学で、みずから見出したものに先立って与えられたのは、デカルトとプロティノスだった。いま訳しているヤスパースの暗号論で扱われているのがプロティノスであることに或る意味驚いている。
 彼岸を逃避の場として消極的に志向するのでなく、美学的に積極的に探求対象とする路は、依然としてぼくに開かれている。
 
 
 
 

高田さんの日

2024-06-19 22:42:32 | 日記

高田さんの日


2024年06月18日筆 

高田博厚と芸術

 
今朝は近年にも憶えがないほどよく眠れた。この十年余、薬害の影響で昼夜逆転の生活をしつつ、当然、疲れた、休みが必要だ、と繰り返して言いながら、疲れを溜める一方の生活をしてきたが、その疲れがとれたような安眠だった。きのう(17日)は高田さんの命日だった。きのうの間、そのことは繰り返し思い出しつつ、その都度忘れていた。ぼくは、何十年も前の高田さんの葬儀の日にも、会場に赴く途中で、生きていない高田さんと対面してどうするのだ、大事なのは生きていた高田さんだ、と思い直して、引き返したような人間だ。だが、昨日は、高田さんのほうから、宜しく頼む、と言ってきてくれているような気がした。ぼくも、日課のことは忘れて高田さんに捧げる(集中する)日を週一日つくろう、と思った(毎日の日課はそれと両立するほど軽くなく、これに引きずられるなら、ぼくも何のために生きているのか分からなくなる)。
 

 
思索性が如実に現れている高田さんの彫刻は、彫刻という創作領域そのものが沈黙を本質とするものだけに、逆説的な、言葉にすれば無限に多弁な特質をもつ彫刻である。言葉になったときの緻密さが勝負であるような。そういうものをかれの彫刻そのものが孕んでいる。そういう制作がかれの生そのものであった。だから「神」が感ぜられるまでに至る彫刻なのである。この神は善悪を超えた、「美」としか言えないものであろう。(高田さんが彫刻家であるに先立って思索家であり、生涯、物書きであったことは、必然だっただろう。頼まれて書いたとはいえ、動機が不断に与えられたこと自体が、書くことが宿命であったことを物語る。)
 
 
 



高田さんを思惟するための高田博厚本

2024-06-08 15:38:00 | 日記

高田さんを思惟するための高田博厚本


2024年06月08日(土) 

自著講読

 
高田博厚さんをも、「もの」なしで思惟(瞑想)することはできない。高田さんをかんがえるためにぼくがつくった「もの」が、ぼくの書いた高田本なのである。 
 
 
その価値は全く新品同様であることを確かめながら再読している。
 
 
 
紹介文
 
《 彫刻家・高田博厚先生の思想と共に生きる電子欄(ブログ)です。
自著『形而上的アンティミスム序説 ‐高田博厚による自己愛の存在論‐』(2009)の初志を、集合的容喙(遠隔人心操作)と強制薬害の重篤な被害状態にも拘らず、継続実践します。
 
本書は、著者の intimisme métaphysique 〔形而上的アンティミスム〕とよぶ哲学理念の許、彫刻家にして思索家である高田博厚(1900‐1987)の根本思想を初めて本格的に明らかならしめようとする貴重な試みである。その意義は普遍的かつ根源的であり、人間の創造的生の条件が稀な真摯さで反省されている。学問・芸術の魂的原点の確認の為に、また、人生の意味の正面からの示唆を得る為に、「人間」であろうとする総ての人々に開かれた永続的価値をもつ書である。》
 
 
 
ぼくは哲学者であるが、哲学者としての自分を徹底することで、高田さんの真の友となりうるのである。そういうことが解っているから、この欄でもむしろ自分の思惟と思想を掘り下げることを中心とし、そのなかで高田さんを語ることを、じぶんの正道だと心得ている。ぼくの高田本がまさにそのような構成であるように。
 
 
 
 
 



器量と場 決断的自由

2024-06-07 14:20:57 | 日記

2024年06月05日(水)


器量と場


 
何でこういう目に遭うんだろう、ぼくがまだそれだけの器量でしかないからだ、と思うよりも、(あれこれ理由をつけて)ぼくに相応しくない場にのこのこ出て来るからだ、だから軸が外れた分だけの目に遭うのだ、と思うほうが正しい。
 
 
義務的見聞は止めて自分の場に留まるのがどれほどよいことか。なのにぼくは、なぜあのひとたちは出て来ないのだろう、と、ひとのことを言っている。
 
 
 

本来的な決断的自由は、天がそれに味方し 世が跪くことによって知られる



人間は自分本来の場に納まっていなければ、敬意をもたれることも落ち着くことも(咎意識なしでいることも)できない。その場が自分本来の場であるかどうか、すなわち天に認可されているかどうかは、不思議なことに、じぶんの感覚で分る。それはまるで、自分本来の充実した、自分の決断に拠る自由は、自由そのものなのにそれこそは予め天から認可されているものであるかのようだ。そこには、天と、世人通念との、亀裂そのものが確認できる。ここにおいて、世は、不思議なことに、天に勝てずに我知らず跪いている。