どうしてぼくが集合容喙と呼ぶよう変な目に遭ったのか、ぼくの判断がついてきたように思っているんだ。それはね、ぼくはじぶんの怒りを肯定しなければならない、と思うためなんだ。ここまでされてまだおまえはじぶんの怒りを肯定しないのか、という、一見じぶんの怒りを否定させる現象を通じて、逆に怒りの肯定を呼び起こす、窮極の反骨教育だったんだ。
人間は、怒らなくてはだめなんだよ。激情として表わすだけが怒りじゃないんだ。もっと冷徹な怒りがほんとうの怒りなんだよ。ひとつの不動心だね。
それにしてもぼくはもう、ヘルダーリン的な地球脱出の心境だね。かれの小説「ヒュペーリオン」をいま読んだのは時宜に適っていた。
ヘルダーリンとぼくの一致境
03月10日(木) 04時
ヘルダーリンはドイツ人でありながら、かれの人間の純粋理念のためにドイツ人たちから深く傷つけられ、ドイツを去ろうと決めて生きていた。ぼくは日本人でありながら、かれと同様の人間の純粋理念のために日本人たちから深く傷つけられ、日本を去ろうと決めて生きている。こういう類同を学んだということは、どれだけありがたいことか知れはしない。
かれにとってドイツ人一般が徹底的に愚物であったと同様に、ぼくとって日本人一般は徹底的に愚物なのだ。魂あるドイツ人が自国で悲惨なのと同様に、魂ある日本人は自国で悲惨なのだ。いくつもの例がある。注意しなければならないのは、これは特定の国の国民精神病であり、どこの国もそうであるのでは多分ないことだ。高田さんたちはフランスに居たがり、日本の精神風土に絶望していた。それがますますよくわかる。人間が志を持っているならば。
ヘルダーリンの人間教育思想は、普遍的なヒント・示唆をあたえてくれる。
全ヨーロッパ人のなかでぼくが最も素直にぼくとの本質一致をみとめるのはヘルダーリンである。ぼくの原初に還った気持だ。人生を未経験のまま最初からかれをみとめていたら、これほどすがすがしい承認があったであろうか。踏むべきものを踏んでこなければならなかったのだ、と、いま思おう。
高田博厚とヘルダーリン 親密なる人間の基準・傍証
03月12日(土) 02時
今回、ヘルダーリンの小説「ヒュペーリオン」を読んで、高田先生がしばしばヘルダーリンの言葉をじぶんの文章に添える境位が、ぼくは解るようになったと思う。ぼくは、この小説の価値を、ゲーテの百倍上に置く。ヘルダーリンの純粋で高貴な精神性こそは、あらゆる精神を測る基準である。すくなくともぼくはヘルダーリンと同質の精神だし、高田先生にしても、根本的なところでそうだろう。高田先生のことを論述する際にも、傍証のようにヘルダーリンがあることを嬉しく思う。
親密な傍証をふやしてゆこう。