マルセルの戯曲を紹介しているが、読者はその世界に否応なく巻き込まれるであろう。それはすでにひとつの状況への参与であり、そうしなければ戯曲の意味もない。しかしそれは状況との同一化ではない。この戯曲の世界にどうして満足していられるだろう、部分的には卓越しているところもあるがどうしようもない登場人物たちに。しかし、その状況において超越し、限界状況という積極的なものにしてしまうのは、読者の力なのである。そのとき、否定的なものは肯定的なもののネガであることが経験され得るだろう。登場人物たちが破滅しようとも、その生を同時に経験するわれわれが、同時に超越もしているならば、登場人物もまた、状況の裏の世界、つまりもう一つの世界を、同時に生きていることがあり得るのである。それがどれほど苛酷な状況であろうとも、われわれが生きるわれわれの世界と本質はおなじである。それに気づいてわれわれ自身が超越することが、戯曲の意味なのである。
破滅しているか、一瞬でも超越しているか。一瞬でも自己が得られていれば、それは啓示とおなじ光なのである。