高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

”高田博厚における「自然」と「自我」”

2021-05-25 18:33:03 | 日記

高田博厚 芸術論


昨日の節で紹介している高田さんの文章を読みながら ぼくがかんがえたことは、日本人の、自然にたいする態度のことである。日本人は、他の民族と同様、自然を畏怖と感謝の念をもって崇拝すると同時に、箱庭化することが好きである。小さな庭や植木鉢の世界に、自然の宇宙を凝縮した気になって鑑賞し遊ぶのである。これはどうしても、自然そのものと自己とが直接に対峙する境とは程遠い。自然を解釈し、観念化して、舐めている。それで精神的なつもりでいる。要を得た歴史的な反省分析は高田さんの文章にゆずるとして、ぼくも、常日頃、西欧の印象派絵画に構図の斬新さや色彩効果の点で影響をあたえたとされる日本の浮世絵版画にも一般に、自然と自我が直接対峙した迫力は感じない。その情感表現は感じるが、その精神背景つまり態度に、メタフィジックな探求心は感じない。きわめて俗な精神枠があるのである。自然も、人間自己同様、この俗枠のなかでは形無しであり、それは、日本人にとって、自然よりも(したがって自己よりも)重要なのは、世俗権威だからである。世間が神様であり、これを越える契機となるであろう裸の自然と対峙することは、仏教的儒教的な人間自己否定の伝統態度の精神枠のなかでは、いかにも起こり難いことであったと、ぼくは感じる。こういう日本では、自然に即し忠実である描写も、細密画法の方向の域を出ていない。これはメタフィジックに迫る域ではない。そうぼくは思う。日本では、芸術領域でも、人間の自己が世間的視線への配慮をほんとうに脱ぎ捨てて、純粋自己として自然を感じ描く態度は、どうしても出て来なかった。どこかに世間に媚びたところが、描く精神態度そのもののなかに、あるいは技法そのもののなかに、根深くある。それはけっきょく、描く主体の精神質の問題だろう。日本が近代西欧とぶち当たったのは、みずからの伝統と称するものを根本的に反省し、高田さんの指摘を借りれば、古今以前の万葉の、自然感覚と人間感情の直接な力強さを回復して、古くて新しい「伝統」と「創造」の真の意味に再覚醒するためであったのでなければならない。 
 
 
 






高田博厚における「自然」と「自我」

2021-05-24 21:57:26 | 日記

高田博厚 芸術論

 
高田博厚は、「自然」の意味は、人間の「自我」が「自然」と直接触れるときにのみ純粋に感得される、と言っている。詳論は他にゆずる。 
 
 「自然への照応」 1975 (『もう一つの眼』 28-33頁) 
 
 
「高田博厚における「自然」と「神」」という研究課題のために重要な箇所であるので記す。 










ぼくは基本的にぼく専門の思想者 

2021-05-22 20:16:31 | 日記

 
めずらしく、どうしたの? 
 
うん、最近ね、ぼくいがいの思想家の思想なんて、どうでもいいや、って感じるようになってね。どうせぼくと似たようなことを書いているんだろうし、それならぼくはぼく専門になったほうが、ぼくとしてもいちばん緻密になれるんじゃないかってね、そう思うんだ。 
 
 
高田先生は、思想がぼくと軌を一にしているから、人物としてその世界を探求することは、いまでもしている。ぼくがぼくとして生きることが既にそうなんだよ。 はやく仕事来ないかな。 
 
 
 
ぼくは基本的にぼく専門、っていうのは、ぼくの書いた本の題名にも現われているよね。なるほど。大先生のルオー論が実質でも、それを入れる枠は、ぼくの哲学であり、その枠を題名に堂々と示している〔『形而上的アンティミスム序説 ―高田博厚による自己愛の存在論―』〕。 
 
 
 
ねえ、わたしはどうなの?笑 
 
きみはね、この世からぼくを護る砦なんだよ。きみなしでは、ぼくは愛の力をなくして無防備になってしまう。この世の人間らへの憎しみで、自分を失ってしまうんだよ。 仕事をするにも、きみへの愛が必要なんだ。でないと、ぼくは荒廃してしまう。 
 
 
 
 
 





”アランの言葉 片山敏彦の証言 「別の世界」に窓を開く孤独な純粋情感の世界”

2021-05-13 02:21:41 | 日記


文句無し。ここからぼくは一歩も出る必要は無い。 

2016年05月22日(日) :




アラン

「人間の思想の中には、美しいがゆえに滅びないような部分がある。実はそういう部分がまことの思想である。」

「美はひとをみちびく。何処へみちびくのか? その『何処へ』を言いえたひとは未だ嘗つてひとりもいない。美は真への里程標である。」




片山敏彦の証言
〈マルチネの娘さんが、紙片に、アランの講義の場所を書いて教えてくれ、私はその講義を聴きに行ってみた。霧の深い初冬の夜で、場所はモンパルナスの大通りに近いコレージュ・ド・セヴィニエの講堂だった。時間の三十分前に行ってももう坐るところはないくらい多数の聴講者が集っていたが、その人々の多様さに私は驚かされた。白髪の老人、黒衣の老婦から大学生、女学生などまでさまざまの人々がいた。河盛好蔵氏の話だと、アンドレ・モーロワの顔もしばしば聴講者の中に交っていたそうである。
 ・・・・・・
 アランの講義から自分の室へ帰った夜の、特色のある心持を、私は時の経つにつれてますます良く回想することができる。・・・それはほんとうに自己自身の教養と自己形成を楽しみとする人々が、真に思考するひとりのひとのソクラテス的な言葉の周りに、おのずと作った一つの環のようにも見えた。私は哲学というものについてその時まで持っていた概念が自分の内部でやや変り始めるのを感じた。同時に、フランスの文学というものに関して形成していた考えもまた自己の内部で修正されるのを感じ始めた。もっとも新しい大胆な文学的・芸術的・思索的試みの中にも、極めて永い伝統的な、踏み固められて来た方法の生きた伝承者たることの配慮が充分に感じられたし、また、あらゆる創造的精神の仕事は、その外形がいかにあれ、常に相通じ、照応して同時に全体を押し進めて行く義務を分担している、ということの自覚が顕著に感じられた。〉





これら言葉と証言のすべてに共感するぼくは、自分が一個の歴史的存在であるという静かな誇りを持っている。





これこそ前節に書くべきことかもしれないけれども、裕美さんのバッハを聴いてもZardを聴いても、変らないことは、ものさびしい秋にかえって魅了されるというきみの、孤独に向き合える心の態度ですね。純粋に自分と向き合い自分と対話していて、そこに集中するかぎりで聴者のことを忘れきって自分の世界に入りきっている。孤独な純粋情緒、それをどんな曲の演奏を聴いても厳かに感じる。自分をまったく孤独に置くことによってしか ほんとうに感動させるものは生れず、そこまで自分と向き合えるひとは必然的に「神」に面している、ひとことも神という言葉を言わなくともそれだけいっそう純粋に自分の「超越者」に面している、それがいつもきみの演奏のきみだけの響きの世界からぼくが感じていることなのです。そのようなきみが、ロマン・ロランがみずからのピアノ演奏を、特別に人間を認めたひとにしか聴かせず、けっして大勢の人前で弾こうとはしなかったように、きみは芸術の本質である「自分との対話」になりきることのできるひとであって、だからぼくはそこに、「別の世界」に窓を開くようなきみの演奏に、いつも「祈りの世界」を感じるのだろう。そう思っているのです。(人前での祈りはけっしてけっしてありえないことはイエスの言っている通りです。)

アランのいう「美がみちびく処」、其処へ、きみがみちびいてくれると ぼくは本気で思っています









フランスでも、ロマン・ロラン級の人間でないと、高田さんの作品の価値は認識しなかったなあ

2021-05-05 20:58:39 | 日記


高田博厚 芸術論
 
「きみの作品の価値は、日本でよりもフランスで認められるだろう。きみもこの国(フランス)の人々の、ものの良さへの感覚が解るよ。」 と、親友・片山敏彦は高田さんに言ったけど・・・ 
 
ロマン・ロランや、彼と同列の精神の人々は、たしかに高田さんの作品には感動した。だから、このことは高田さんの作品の価値の高さを逆証しているようなものなのだ。 
 
 
「文化は少数者が創る」という言葉は、フランスにも適用せざるをえないものだったのである。