高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

ヤスパース『哲学』第二巻「実存開明」翻訳(第4部)「第二章 私自身」(つづき)

2022-04-23 18:30:25 | 日記


ヤスパース『哲学』第二巻「実存開明」翻訳(第3部)「第二章 私自身」(2022年04月14日(木) 21時33分50秒・他で掲載)のつづき

(つづき)
 自らの反省の際限の無さという不断の危険と、そして、自己存在が限界無き開放性を敢行する所以であるところの、この自己存在の可能性には不可欠な文節的明言化のすべての、全き不確かさとの中で、実存は初めて自らに至り得るのである。(44頁)この開放性は、私が私自身との間で敢行する程度に応じてのみ、他者に対しても私が持ち得るものであるが、この開放性は、知識と反省を終わり無く媒介としつつ、知識とならないその都度唯一的なものを明るみに出すのである。問うことと答えることが為されるところではどこでも、この開放性は根源的態度として現前している。私の自己存在のどんな客観化も、反省によって再び何らかの浮遊状態になるのであるから、私の自己存在は、それ自体としては覆い無きものであり、いわば目を目の中に見ながら、自らのあらゆる客観性と主観性を貫通しつつ、直接的なものなのである。しかし、私自身としての私に向き合い得るのは、私に服従する者ではなく、また、普遍妥当的なものの中に身を引いて自らを代替可能な悟性存在として呈示する者でもなく、そして、どこか他の処で護られている故に、私とはもはや真剣に出会うことは全くなく、ただ私と付き合っているにすぎない者でもないのである。素晴らしきもの、私が出会う唯一の本来的に存在するもの、それは、その者自身となっている人間である。彼が自分を保っているのは、客観的となった妥当なものという硬直性においてではない。彼は限界の無い問いの行為を許しかつ遂行する。この問いの行為を彼は好き勝手にやるのではない。その問いの行為において彼自ら語りかつ答えるという仕方で、彼はこの問いの行為を為すのである。彼は、あらゆる言い分に聴き入ろうとする理性的存在者[Vernunftwesen]であり、同時に、唯一固有の自己である。彼を私は無制約的に愛する。彼は現在に顕現しており、時宜に適ったことを為す。彼は待つことの静けさを持っており、躊躇なく行為する確かさを持っているのである。彼は、自分の立っている状況のなかで己れを全力傾注するが、決してその状況と同一化することはない。彼はどんな種類の人間たちの許でもやってゆくが、己れを敢行する。最も疎遠なもの、敵対的なもの、彼を最も疑問視したり否定したりするものが、彼を惹きつける。彼が何であり、彼が彼であるところのものにおいて如何に生成するかを、彼は経験しようとして、捜し訪ねる。彼は自らにとって決して全きものとはならない。そんなものになったら彼はもはや彼自身ではなく、画の中で通用する形姿のようだろう。彼は自らの有限性を意識しているのと同様に、自らの無限な根源性を意識しているのである。彼にとって現存在は照明されたものとなるが、それは彼にとって真の暗闇がはっきりするためである。自己反省の不確かさのなかで、具体的な瞬間において彼自身が己れの根拠から立ち現れるのである。どんな反省からも彼は再び本来的に自分であるものとして現われ出る。裂け散って、確信が無く、途方に暮れる状態を、彼が歩みきらねばならないにしても。彼は己れに到るが、どのように己れに到ったのかを知らない。彼の絶え間のない努力が彼自身を強要し得るものではないのだ。彼は自分へとひとつの贈り物のように到るのである。事ははっきりとなり、瞭然となる。今や決断は為されている。今ではそれほど不可避であり単純である。— どうしてこれほど長い間疑うことが可能であり得たのだろう! 自己反省は事実的な実存する行為へと吸い上げられたのである。
(45頁)
  では、それが来ない時は? 彼が自分にとって欠落している時は? 彼が絶望して苦しみ、際限の無いものの中で立ち往生している時は? 彼が善き意志を持って彼自身であろうと欲し、しかも自分を見いださない時は? 
 自己存在は自由である。私は自己存在であろうと欲する。私と私の存在とは、ここでは同じものである。それでは、私自身の欠落は、私の咎[Schuld]なのであろうか?
 言表されることにおける自己存在の逆説性は、この存在の簡素な本性[Schlichtheit]とは裏腹に、ここで、最も大きなものとなる。単なる自我存在の同一性のなかで分節化した二重なものは、ここで初めて、本来的かつ唯一的に、一なるものとして現前している。すなわち、私は私自身を欲しているゆえに、私は自分にたいして責任があるのであり、私は、この私の根源的存在を自己として確信しているのであるが、そうではあっても、この、自己自身を欲することは、更に、ひとつの付け加わって来るものを必要とするがゆえに、私は自分にただ贈られるのみなのである。 
 私が自分に欠落している場合、咎の意識[Schuldbewußtsein]が私を苦しめる — 私が自分の欠落を、病気、私には疎遠なものであり、私自身ではないものとしての病気—私にはいつも曖昧だが—のせいにすることができない限りにおいては。私は自分の存在の可能性を、嘗て在ったもののように意識しつづけ、私の非存在を、私のせいで失った可能性として経験するのである。このような自己欠落が、一時的なものとしてであれ私を襲っている間は、この基盤を失っている時間にとって、私の存在を疑わなかった友人による、私の存在の肯定が、唯一の支えなのである。私が自分にとっては私から失われたように見えていた間、彼は私をして、私自身を忘却するに任せなかったのである。
 しかし、いつまでも自己欠落し続けることは絶望であり、このような絶望は、他者の側から見るかぎりでは、決して窮極的に遂行され得るものではない。私に思われるかぎりでは、この絶望は事実的には窮極的であるかもしれず、私は完全に破綻するのであるかもしれない。だが、どんな人間からも嘗て消えたことは無く、それをもはや自分でも見なくなった人間もいないもの、それは、人間の全き意味での可能性である。自己欠落し続けるということが、ただ人間の絶対的な疑わしさとしてはあり続けるように、あの付け加わって来るものもまた、この付け加わって来るものによって私は私自身となるのであるが、これもまた、暗闇なのであり、この暗闇が私の自己の生成のなかで開明されてくる時、私はこの暗闇を見上げるようになるのである。
 私が私自身へと到る時、私は私の本来的な存在意識を遂行するのである。だが、私が私にとって欠落していない時、私は自己満足しているのではない。というのは、まさしく私の本来的な自由を、私は、超越的に与えられたものとして[als transzendent gegeben]経験するのであるから。


自己存在の二律背反の諸々

 客観的には私は、私が自分に到るか否かを、決して知らない。私は自分にとって時間の内で現象するが、時間の内で私が完全に存在し得るということは決してない。私が本来的に存在する場合には、私は自分にとって同時に課題なのである。にもかかわらず私が、私の現存在の浮遊的な不確かさのなかで、私とは何であるかを知ろうと欲するならば、(46頁)私が経験するのは、私は知ろうと欲さずにはいられないけれども知ることは出来ない、ということである。私は、仮象知に自分を失うことになるか、問うことを止めることで駄目になってしまうかでしかあり得ない。あらゆる外的なものそれ自体から見放されても、私は、自分であろうと欲するなら、この外的なもののなかで私自身を摑み取らなければならないのである。このような本来的自己存在について語ることはすべて、知となるような成果は無いものに留まらざるを得なかった。というのは、現象は自己ではなく、自己は純粋かつ全的に現象のなかで自らに現象するのではない故に、現象も、現象について語ることも、決して止むことのない不適切さのために、廃棄され得ない諸々の矛盾のなかを運動しなければならないからである。そのような諸矛盾のなかで、我々はもう一度、かたちを変えて、様々な説明を繰り返させよう。すなわち。
 1.『私が在る』ということの経験的な意味と実存的な意味。— 既に、『私が在る』ということの意味が、二重なものである。すなわち、私は経験的な現存在としてはまだ窮極的なものではなく、私は未来という可能性を持っている。私はまだ、私が何であるかについて、私が成るものによって決断するのであるから。しかし、私の本質は、実存するものとしては、時間を超越する意味においてあるのである。— (つづく)