高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

マルセル「稜線の路」14

2022-09-24 15:22:22 | 翻訳
52頁

(ジェローム) 医者! 彼ら、まるで互いに申し合わせているみたいだ! まるで、彼らに言わせたいことをいつも言わせていないみたいじゃないか!… それに、パリで生きることは問題じゃなかった。リラダンに近いあの所有地、あそこは申し分ないものだった。パリから四十キロ。好きなときにパリに来れた。家は明るくて、広々としていた。飽きさせない景観。(ヴィオレット、くすっと笑う。) 飽きなかっただろう、誓って言うよ。からっとしていて。夢だ、もう、夢だ。彼女はぼくが話すのを聞こうとしなかった。手紙の度に、その前よりもいっそう脆弱な口実だ。一種の、無意識的な悪い信念だね…

(ヴィオレット) まるで奥さんがボワシャボーを買ったみたいに考えるのはおかしいわ…

(ジェローム) え?

(ヴィオレット) べつに。生は、時々、おかしな、平衡を保たせるもの、相殺させるもので、ごきげんをとるのね ― というより、期待もしていない最後の手段で。

(ジェローム) なんだって?

(ヴィオレット) 覚えてないの? 

(ジェローム) 言ってはもらえないのかい?…


53頁

(ヴィオレット) わたしたちが初めてジャンヌ・フランカステルの処で出会ったとき、あなたは、その晩ずっと、そのボワシャボーのことを話してたわ。あなたは、奥さんがそこを買うのを明確に拒否した手紙を受け取ったばかりだった。あなたは他のことを考えられなくて、私たちにどんな細々としたことや特別扱いや心地よさも許してくれなかった。まるで子供だったわ。会話の新しい主題を出そうとする度に、あなたは自分のボワシャボーのことに戻った。みんなはあくびをして、あなたを嘲笑し始めた…

(ジェローム) きみは誇張してるよ。

(ヴィオレット) わたしは逆で、わたし、どうしてか分からないわ、なぜ、わたし、あのとき… そして、思い出せる? あなたが、わたしに注意を向け始めたのよ。まるで、わたしたち、他国の人々のなかで、一緒に二人ぽっちでいるみたいだった。ボワシャボーのことがなければ、わたしたち、たぶん、ほんとうに出会うということは無かったでしょうね。

(ジェローム) いつか、きみをあそこに連れてゆこう。

(ヴィオレット) いいえ、ジェローム、たぶん、わたし、おおきな悲しみ無しには、その家を見れないわ。あなたが過ごすのを夢みていたそこでの生活のなかには、わたしの居場所は無かったんですもの。そこでの生活は、きっと、仕合わせだったのでしょうね。

(ジェローム) そうは思わないよ。ぼくはアリアーヌとは、もう、けっして仕合わせにはなれないよ。

(ヴィオレット) どうして?


54頁

(ジェローム) 解るだろう、ぼくはあのことで彼女をあまりにも恨んだ。そして彼女が居るときは、ぼくが彼女に向けた非難のことで、ぼくは自分自身を恨むんだ。彼女がぼくから奪ったもの、そして、きみがぼくに取り戻させてくれたもの、それは、たぶん、すごく簡潔に言えば、魂の平和なんだ。

(ヴィオレット) わたしが、あなたに、魂の平和を戻した、というのね? ほとんど気づかなかったわ。でも、いいこと、あなたたちの間にある問題が、そういうことだけだったとしたら、問題はそんなにたいしたことではないでしょう。ほかのことがあるのよ。あなたが彼女を許せないのは、わたしたちが、わたしたち自身についている嘘のためなのよ。

(ジェローム) ごまかし、嘘 ― ぼくたちがもう発してはいけない語だろう。きみは、そういう語に酔って、ますます苦しむところがある、と、時々言われるのではないかな。

(ヴィオレット) それはちがうわ。わたし、苦しむのは大嫌い。悩みはわたしをぜったいに改善させたことはないし、陰険にもさせたことはない。そうじゃないと思うわ。悩みは、墓のようにわたしを窒息させる、と言ったほうがいいでしょうね… ジェローム、彼女にほんとうのことを言ったらどうかしら、どんな結果になろうとも… 

(ジェローム、激しく。) ぜったいだめだ。(沈黙。

(ヴィオレット、甘く。) どうして?













マルセル「稜線の路」13

2022-09-24 14:39:26 | 翻訳
49頁

(ジェローム) きみは、彼女と居るときは、そういう同情をいっさい感じさせないね。

(ヴィオレット) 彼女が居ないときしか、彼女にたいして完全に公正であることはできないわ。彼女を前にしていると、それはできなくなるの。

(ジェローム、もの思いしながら。) アリアーヌは、まったく逆なんだ。ぼくが彼女に公正でいられないのは、彼女と離れているときなんだよ。そして、彼女を再び前にすると… 今度、ぼくは、彼女の中のあらゆる種類の欠点を見いだしてやろうと決心していた。決心しただけじゃなく、離れているときにその全欠点を見積もって、あとはもう実際に検証するだけ、という具合になっていたつもりだった。ぼくは間違っていた。そんな欠点は彼女にはない。

(ヴィオレット) わたしのかわいそうなジェローム、彼女のなかに、何かわたしたちの行状を正当化するものを見つけようと期待するのは、品のないことではないかしら。せめてそのことを認める勇気を持ちましょうよ。

(ジェローム) ぼくは、けっしてそれに同意することに甘んじられそうにはない。きみは… 何より、きみは… ぼくはいつも、自分に言うことが出来るのでなくてはならない、これは彼女のせいだ、彼女に帰せられる過ちだ、と。
 
(ヴィオレット、悲しそうに。) そうではないことを、あなたはよく知っているわ。

(ジェローム) 思ってみてよ、三年のうち、彼女がパリで過ごしたのは六週間なんだよ。


50頁

(ヴィオレット) あなたが彼女と一緒にロニーに滞在することを妨げるものは何も無かったわ。

(ジェローム) ぼくが嫌悪し、ぼくを窒息させる、あの山地に… それに、それだけじゃない。アリアーヌ自身が、あそこに絶望していたのじゃないかな。二年前、ぼくがあそこの気候、あの領域、あの病人たちの世界に、慣れようと試みていたとき、ぼくがあそこを発つことに固執していたのは、彼女なんだ。日に日にね。彼女のやり方で、休み無くだ。彼女はほんとうに強情だ! 何か考えが頭に浮かぶと、彼女にそれを変えさせる見込みは無い。あんなに頭の良い女にしては、とても奇妙なことだよ。まるで名誉がかかっているみたいだ。それでも、今回、彼女は正しかったんだ。あそこでの生活は、ぼくを破壊しただろう。あの高地でのほうが、気持ちが軽く、自由になって、考えかたも改善する、と主張する人々がいる。ぼくは逆なんだ。病気になっていただろう。『魔の山』のハンス・カストルプみたいに。そして回復しなかったろうと確信する。

(ヴィオレット) それについては、わたしたちには何も分からないわ。どうして演劇みたいに考えるの? いずれにしても、あなたは奥さんのことを、あなたの普通の生活に戻るようあなたを強いたことで、咎めることはできないわ。 

(ジェローム) ぼくが彼女を咎めるのは、そのことについてじゃない… (つづく) 


51頁

(つづき) でも彼女は、どうして、病人の生活を送ることに固執したんだろう、治ったのに!

(ヴィオレット) 彼女はまだとても脆弱なのよ。あなたが自分でそれをわたしに言ったわよ。

(ジェローム) その脆弱さは、まるで彼女が養っているみたいだ。

(ヴィオレット) ジェローム!

(ジェローム) 故意にじゃない、もちろん。だけど彼女は一度も、そうなれば他の女性たち同様になることができただろうような状態に、自分を持って行ったことがない。彼女は病人の生活に執着した。もう、その生活無しには、いられないんだ。実のところ、彼女は今回、あの高地に戻ることを自分に強制するような状態に自分を置くためにのみ、ここに来たのだ、多分。

(ヴィオレット) 彼女がパリの生活に耐えられないことを、あなたはよく知っているしね。

(ジェローム) もし彼女が、パリの生活を、耐える意志をもって再開していたら。もし彼女が、自分自身に言い聞かせていたなら、私は治ったんだ、私は今後は丈夫な女として生きるんだ、と…

(ヴィオレット) だけどあなたは、それについては何も分からないわ。医者たちは、そんなことを説いたことはないわ。