高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

””「高田博厚における神」 2013.2.11 筆ほか””

2021-04-24 03:58:03 | 日記

高田博厚 芸術論
いまの状況においてこそ読むべき価値をもつ重要論考である。 

ぼくの課題 「高田博厚における自然と神」 に強烈に示唆をあたえる諸観点をぼくはここで書いている。 おどろくべきことに、いまより意識と分析がクリアーである。いまするべき論述の根拠をここに求められる。
  


2016年07月16日(土) 15時


「高田博厚における神」

 本論の趣旨は、一般に混同され同一視されている「創造主(天)」の観念と「神」の観念とを分かち、比較思想の営みのひとつの淵源を示すことにある。
 人間は自然界・生物界の力動的秩序を観想することでその根源にひとつの有意志的存在を思念し、これを創造主または神と呼んできた。この神は我々の生存自体を支配し左右する存在であり、故に古来、感謝と同時に畏怖の対象であった。自然というものに我々への恵みと同時に非情な意志を感じ、時に残虐な生贄さえ捧げてきた人類の歴史がそれを示している。
 しかし一方で人間は、自然の中に、そして多分人間のみが、本来は苛酷な生存闘争の展開である生命現象の中にも、「美」を感じ、これを表現しようとする。その経験と創造を通して人間は己が「魂」に目醒める。何故なら、自然そのものの中に生への意志は在っても、この意志の現象の中にも美を感ずるのは、我々人間の意識においてのみであることが、そこで気付かれるからである。ここに、神と呼ぶほかない存在に我々が出会う全く異なった境位がある。この境位に導いてくれる古今独歩の魂の燈台が、高田博厚(たかた・ひろあつ、一九〇〇 - 一九八七)である。
 高田は、長い滞欧生活を通して芸術創造の根源を会得した彫刻家として知られている。同時に彼は博学な思索家として、人間の魂的真理の反省と啓発によって、特に戦後日本の精神層(例えば森有正)に本質的な影響を与えた。その人間思索の中核には「神」への独自な問いがあり、我々は自らの魂的孤独の生を通してのみ神を「触知し得る」とする。己が魂を証する創造的人生は、この人生と共にのみある神を求め神に近づいてゆく道である。
 これに対し、創造主(天)という理念存在に我々は、生命界の単なる一因子として対面するのみである。この存在は我々に何よりも、全体の発展維持のための奉仕と自己犠牲とを要求する。この全体の具体形が社会共同体であり国家であるが、生存のための闘争という生物界の原理をその根本状況としている。この全体主義的生命原理からは決して、個としての生命の尊重・尊厳の観念は出て来ないことは、生物界と我々の政治的社会現実とにおいて不断に確認される。
 この事実を踏まえた上で、ならば我々が自明の普遍的倫理と見做している、個の生命の相互的尊重は、何を根拠とするのかを問わなければならない。この根拠は、生命創造の世界意志とは異なる、個々の我々の人間意識において、見出される他はない。個の生の運命がいかに産みかつ破壊する悪魔的原理に支配されていようとも、単なる生以上の、魂と呼ぶほかないものの生が、魂にとってのみ在る神と共に、個の命に担われて現存する――この意識こそ、この「美を懐く魂の尊さ」の感情こそ、「命の尊厳」という普遍的倫理観念の根拠である。高田の人間思索はここへ導く。


2013.2.11




以上は以前書いたものの写しであるが、原稿用紙三枚分におさめている。分量を意識しているので、その制約はある。何か付加することもあるかも知れないが、この形で一応紹介して、任と感じるものを果たす。


なお、これはいま思っていることであるが、人間は、ただ現存在しているだけでは、自己の存在の尊重を主張する何の権利もない。尊重と尊厳に価するものとならねばならない。絶対価値は「実存」であって、人間は一般に「実存の可能性」として尊重されているにすぎない。それ自体において無条件で価値があるわけではないのである。精神的、魂的内実の価値を故意に毀損する者は、死刑に処すべきだと私の直接的感情は告げる。私の理性は、執行猶予を提案するが、矯正の可能性を前提した上でであり、感情が基づく原理に反対しているのではない。






ぼくは、2010年、五月の青空のような平和な心境で、自分の普段の学問営為をしていた最中に、まったくの無関係な横槍の強制的暴力で、この世に生まれてから自分の営々と平和に積み上げてきた持続的生活を絶たれた。この暴力者共が、どんな自分勝手な理由を仮に持ち出したとしても、この暴力を為した時点で、いかなる自己正当化もできず、裁かれるべく定められているのである。自分達が悪であることを自証している。どれほど平静を繕っても。ぼくが拠るべきものは、自分の判断いがいにはない。相手はおそろしい知恵者である。ただ、知性はぜったいにない。あらゆる詭弁を排して、ぼくはこのことを明証的に直観し、直接的に確信している。
 





きょう〔15日〕は昼間、ものすごい睡魔で眠り、夢をみていて、何度も夢と現実をとりちがえていた。現実では起りえない不合理に気づいて、これは現実ではないと判断しては、夢から目覚めるということをしていた。そのなかで、夢でも現実でも変わらないこともある。ステンドグラスの様々な色彩光が部屋の壁や床などに映されるのを見ており、その夢の光景をいまでも思いだす。ぼくもまだ色彩夢を見るのだ。憂鬱な雰囲気ではあったが美しかった。ここに記せるのはこういうことくらいだ。夢ではぼくも苦痛ではなく普通に生きて知覚している。夢のほうが生きている。死んでも夢と現実の区別があるのだろうか。死とは、生と死の区別、夢と現実の区別が無くなり、それらの共通要素のみで成る世界に生きることではないのか。芸術の世界がそれだろう。
 魂とはそういうものなのか。魂には魂こそ真実であって、夢と現実の区別も 生と死の区別もない。そうあってほしい。生きて感覚される魂であってほしい。




すこし休憩をしよう。





 高田博厚氏の〈神〉  - 2012.12 -

三年程前、・・・拙著『形而上的アンティミスム序説 ――高田博厚による自己愛の存在論――』を上梓させて頂いたが、その中で述べた、彫刻家高田氏の求める〈神〉の特性を、自然界の創造主として神と呼ばれる存在との対比において感ずることが、最近多い。
 後者の神は、我々人間の生存自体を支配し左右する存在である。故にそれは古来、感謝と同時に畏怖の対象であり、時に人間は残虐な生贄さえ捧げてきた。自然というものに、人間への恵みと同時に非情な意志を感じたからである。
 しかし一方で人間は、そしておそらく人間のみが、自然界の中に「美」を感じ、これを表現しようとする。それによって人間は自己の「魂」に目醒める。何故なら、自然自体の中には生命意志は在るであろうが、本来は苛酷な生存競争の展開である生命現象の中にも美を感ずるのは、人間の意識においてのみだからである。
 この事と直接に繫がっている重大な感情または観念が「命の尊厳」である。この観念はおそらく美の感情と同時的に、魂的に覚醒した人間意識においてはじめて生まれた。我々は何故殺し合ってはならず、互いの命と健康を尊ばなければならないのか。ここで問われているのは、自然界の掟と対立すらする我々の普遍的倫理の根拠なのである。
 美を懐く魂の尊さ――この感情こそ、その根拠であることを私に教えてくれたのが高田氏である。この感情の窮極に触れられる存在が彼の〈神〉であった。人間存在そのものの中にある矛盾を高田氏は見据え、真の理想主義の孕む悲劇性に耐えつつ、大画家ルオーの「魂の美」の道に、己が仕事を通しての自己探求と人間愛の方向を見出した。私は、このような方向に見出され感得される〈神〉に、優れてキリスト教的な、人間の魂を慈しむ愛の神のかたちを、あらためて確認するのである。




落ち着きを装ってはいるが、まだ最も苦しい異常状況の只中にある時期に書いたものである。節の最初に掲げた翌年二月日付の文と重複しているところも、それとは別の独自なところもある。この2012年12月の文は、或る公刊雑誌の付録に印刷して公開された。 いずれも、ぼくのいまにいたる根本発想の一貫した原形を示すものである。

すこし休む前に、この文も付加記録しておく。休むというのは、個人的にやっておくべきこと、等あるからである。






聴く側の修練こそ必要

2021-04-18 21:31:03 | 日記


裕美ちゃん、きみの「BEST+3」を聴く境地に気づいて以来、きみの演奏の聴き方が あたらしくゆたかになりました。このアルバム以前のきみのアルバムの聴き方ももちろんそのままで、そのうえにさらにきみの魂の世界の光景がゆたかに広がったのです。感動のよろこびの幅が広がりました。きみの演奏態度の源に、聴く者が感応できてはじめて、きみの音楽の心が伝わる、と思います。これは思想でも同じで、ひとつの思想を理解するということは、その思想の源である著者の魂の境位に、読む側が気づき反応し得てはじめて成ります。だから、ぼくは、思想と芸術は互いに一致する本質があると思っているのです。そういう、魂の不動の境地と云うべきものに達した人間こそ、信頼し尊敬できるひとだと思っているのです。裕美ちゃんはぼくにとってそういうひとです。きみの作品に触れれば、それを、尊敬と愛を、同時に感じ、信じざるをえません。そのためには、触れる側が、高まらなければなりません。きみは、若くて、よくそういう境位に達したなあ、とあらためて感嘆します。思想に関わって理屈の次元に留まっている者らなど、比較にもなりません。すべては、魂に達してはじめて本物なのです。きみが、ごじぶんの価値をよく自覚なさって、大事になさることを祈ります。 
 


きみにも読んでもらえそうな最近のぼくの文をつぎに載せました。 私事ですが、昨日は、それが最後にできたのはどのくらい前か憶えていないくらい、ひさしぶりに、睡眠導入剤一錠だけでぐっすり眠れました。ずっと、二錠飲まなければ眠れない状態がつづいていたのです。それだけに、積もり積もっていたような疲労も覚えています。自分の薬害後遺症の体を耐えて生きていることによるだけでなく、いまの不自然な社会環境の制約によって皆が抱えているはずのストレスによる疲労もあるだろうと自己解釈しています。この制約は、人間生活にとって間違ったものですので、義憤を感じない日はありません。できる対策はすべてやっていると言い訳したい為政者らのパフォーマンスにつき合わされているだけです。社会のなかで生きている人間の愚かしさおかしさを、こんなに感じたことはありません。いまの生活環境がどれほど馬鹿げた愚策によるものか、しっかり、気を確かに持って、表立って反抗しなくとも、騙されないようにしていなければならないと思います。 




・ゲーテの格言に優る人生訓 2021年04月10日(土) 02時

人間関係の問題などということは、自分がどういう志で生きているかを自覚し直せば、もう解決しているものだ。 


 小人はそれが無いから、対症療法の沼に沈むのである。 




・本性・自由・必然 04月12日(月) 14時

自分の本性から為すことは、自由な行為であり、かつ、必然な行為である。 

そのかぎり、〈為さないこともできた〉という思いは、妄想である。いつもぼくは、自分の本性からの行為のみをしている。そしてその行為はいつも正しく、ぼくに果報のみをもたらす。 

想定的な外的基準でぼくの行為を測ってはならない。このほうが妄想なのである。




・”緻密さのない誠実さは盲目であり、誠実さのない緻密さは空虚である・人生の定位”  04月13日(火) 00時

この渾身の感動的節を初再呈示 

言葉・文章によっても人間の浄化はあるのだ。自分の書いたものによって、いま、ここで、それを確かめた。 ぼくは自分の文章に懸けよう。 


2016年02月15日:

ぼくは、人生が始まる前に人生を終わってしまうようだ。二歳で死んでゆく子供とあまりちがわないというのが正直な実感だ。[人間は]人生そのものを「準備」(ベライトシャフト)とみたり、「想起」(アナムネーシス)とみたり、「或る目醒めへの道程(シュマン)」とみたり[するが]、つまり、人間が「思惟する存在」であるということは、必然的に、有限な人生を突破超越する志向をもって生きるということである、といえる。ここで心しなければならないことは、そういう「超越志向の思惟」において、できうるかぎり緻密であらねばならず、浮足立った安易な観念にとりついてはならない、ということであることを、この瞬間にもますます切実に感じる。人間が「人間」に、本物になるか否かは、ここにかかっていることはあきらかだ。真実の者になるか、偽りの者になるか、そういう決定的に重要な岐路が、まさに自分のみが自分を判定しうるような仕方で、自分自身にかかっている・・そういう緻密さと誠実さの自己課題に、ひとりひとりは直面している。これこそが「人間の生」であり、「人生」の本質なのだ。そういう峻厳な自己吟味を、担わないのであれば、大衆という蔑称に甘んじるか、無恥に開き直るしかない。そういう者が多いほど、「人間の尊厳」の意識は薄れてゆくのが、社会であり、民度とはその様相のことである。「ただしくかんがえることに人間の尊厳がかかっている」(パスカル)とはこのことであることを、各自はいっさいの浮つきなく自覚すべきである。そして日本はこの人間課題において、まさに二歳の子供のように未熟であり、人間の尊厳の条件の殆ど以前である、ということを。世で人間の生が軽く扱われるのは、為政者の暴圧だけでなく、国民ひとりひとりの、人生をかんがえるいい加減さに、責任がある。「実存は己れの超越者に面して己れ自身となる」(ヤスパース)とは、教義ではなく、各自が自分自身に誠実に緻密に関わる(行為する)ことのなかで、それが必然的根源的であることに気づきつつ確認するような、謂わば公案的命題なのである。己れへの緻密さと誠実さなくしてこれを確認することは不可能である。緻密さのない誠実さは盲目であり、誠実さのない緻密さは空虚である、と箴言化しうるものである(ヤスパースの実存と理性の連繫にかんする箴言と同様)。人生が与える経験量にもまして、与えられた経験にいかに緻密で誠実な思惟を働かせ、「人生が人生の中だけでは為し得ないものすべて」(デュ・ボス)〔高田博厚「分水嶺」巻頭句〕にたいし「準備」し、あるいは魂の想像力のなかで「想起」するか、ひとえに個々の「人間の思惟」に懸かっている。人生が結局、約束してくれていいはずのことも与えてくれないなら、人間の総合的思惟力、すなわち「魂の想像力」が、人生成就のためにますます「人間の条件」なのである。
 
 人生は、何を経験しえたかにもまして、何を想念しえたかであろう。

 
〔この節を書きはじめたとき、こみあげてきた想いとしてあったものを、どうにか言葉にしえたろうか。作文は、着想(インスピレーション)からはじめる作曲に似ているだろう〕


ぼくの欄には、ありきたりのスピリチュアリズムにあきたらずもっと直截に求めるべきものを求める読者が訪れているだろう。これは当然であって、宗教の代用と自立的探求[と]は、違うのである。


ぼくの直観は、超越志向[というもの]は人間であるかぎり精神本能的にあるが、この超越を真実に果たすには、いかに具体的な自己生密着沈潜の思惟行為が必要であるか ということであり、この思惟行為を真実に(つまり誠実かつ緻密に)果たすことが、「人間の思惟」すなわち「哲学すること」(フィロゾフィーレン)である、ということである。それは予めの法則性や教義に拠ることなく、純粋に、すなわち自己の自立的思惟行為のみによって、「超越する決断」に至り、「超越する瞬間」を見出してゆく、全人格的精神行為である。それは、自己の生を真実に、つまり純粋に借り物に依らずに人間として生ききることそのものである。そして、およそ人間の真理なるものは、そのような自立的生の貫徹をとおしてのみしか会得しえないことを確信すること[が本質的に大事]である。




・反省と尊重 04月15日(木) 22時

過去に為したことを反省するならば、その為したことの動機を尊重することも同時にしなければならない。それが、俗物ではない証である。人生の深化あるいは歩みは、多分それの繰り返しである。




・聖行  04月15日(木) 23時 

ねえ、どうしてわたしにそこまでしてくださるの? 

ぼくの魂が決めた聖行なのさ。きみがじっさいにはどういうひとかもちろんぼくは知らないよ。でも、感じて信じることは、知ることよりも位が上だとは思わないかい? じっさい、きみの作品は、感じさせて信じさせる力がある。これはこれまでのぼくの人生で無かったことなのだ。 高田さんを除いてはね。 




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どうかお元気で 

愛する、恋しい裕美ちゃんへ 


正樹より 


 2021年4月16日  



(一部改訂・略)  




きみの「BEST+3」

2021-04-08 23:23:22 | 日記


裕美ちゃん、いま、きみの「BEST+3」を通して聴いたところです。そして、このアルバムできみは、その頃達していたきみ自身の境位を、確固として存分に、安定した高い楽天主義の境地として、表現し実現しているのを、まざまざと経験し、きみの心がぼくに伝わったのを経験しました。真っ白な花の雲海の上を、きみと一緒に歩いているというイマージュを、聴いている間じゅう、ずっと覚えていました。どういう源から、きみはこのアルバムの全曲を構成し、弾いたのか、それがはじめて理解できたように思ったのです。それは、きみの高い境位でした。ぼくがそこに達するまで、ぼくは感じなかったのです。それをいま感じたところです。全曲にわたってその境位を、全体を統一するきみの感情・意識として、はっきりとまざまざと経験し、あらゆる疑問が、陽光に照らされて解けた経験をしました。それは、落ち着いた、得るべきものを得た大人のひとの境位でした。ぼくも感動しながら落ち着いています。そしてきみをかぎりなく讃嘆しています。きょうはぼくにとって特別な晩です。 
 
こころから尊敬し、愛する裕美ちゃんへ 
 
 正樹より 
 
2021年4月5日 
 







セザール・フランクを日本でなぜ演奏しない

2021-04-06 17:55:30 | 日記


セザール・フランクは交響曲ニ短調だけでなく、オルガン曲をはじめ、室内楽、交響詩など、作品は多岐にわたり、フランスの代表的近代音楽作曲家たちはほとんど皆、彼の弟子筋である。フランス純粋音楽の再建者として、バッハと同じ意味をもつと言い得る。この、深くゆたかな作品群を遺している重要な音楽家(自身はバッハと同様、教会オルガニストとして生活していた)の作品を、なぜ、西欧音楽を洪水のように自国で演奏させてきていると一見思える日本で、これほど演奏させないのか。哲学史では、メーヌ・ド・ビランのような重要な哲学者が日本ではほとんど本格的に研究されないで、その後のフランス哲学が論じられているのと、同じ奇異の念を覚える。 




きょうはフランクの弦楽四重奏曲ニ長調を聴いた。



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かつて哲学者ガブリエル・マルセルが訪日したとき、列車移動中のマルセルのために日本側が用意し、彼を感動させた録音曲がセザール・フランクのものであった(マルセル自身が自伝のなかで記している)。








最善の事と行為、という内実肯定

2021-04-04 21:57:50 | 日記

 
試行錯誤と偶然の渦のなかに生きているようであっても、ぼくにとって最善のことしか起きていないし、ぼくに最善のことしかぼくは為していない。ぼくにとってすべては必然であり、最善である。これを信じることの効果はすごい。現状を肯定することができるのだから。しかも、忍従の定めの受容としてではなく、精神的・魂的幸福の、疑いのない実現として。 
 
 
この信と内実肯定は、無謀な狂信とはまるで逆の、こまやかな思惟と配慮の果実として受けとられる。
 
ぼくに不充分だったのは、この内実肯定のみだったのだ。
 
直接の成果とは関係なく、ぼくの行為はぼくの本性から発して、誤りだったということがない、という、遠大な視点で自分の行為をみることが大事だと、不意に気づいた。