高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

マルセル「稜線の路」23

2022-09-29 14:30:50 | 翻訳
82頁

(フィリップ) アリアーヌ、本気になれよ。当時は、きみが治るかどうかも分からなかったんだよ。そういう情況で、離婚や、別居さえ、考えることが、人間として彼にできただろうか? だけど今は、きみの健康はともかく回復している… きみは依然として脆弱だということは承知しているが、それは無数の人々だって同様で、標高千八百メートルの地で生活のほとんどを過ごしに行くということができないんだ。ぼくに言わせれば、解決は至極はっきりしていて、きみに、普通の生活を再開する決心がつかないのであればだよ、ここにいつも帰着するんだが、きみは、ジェロームを、きみの生活とは分かれた彼自身の生活をするように促さねばならないよ。そして、彼に新しい家庭を築くようにさせねばならないだろう。

(アリアーヌ) なんてとんでもないことを! だいいち、よく知ってるじゃないの、彼には個人的財産が全然ないことを。彼が生活してゆけるのは、彼の書く批評によってではないわ。そしてもしほんとうに、彼が兄さんの思い描くような、自尊心の敏感な人間なら、私たちが離婚した後でも、私が彼を経済的に援助するままにしておくものか、すこしでも想像してる? ともかく兄さんが、これについてどう言おうと、そういう金銭上の問題は、ジェロームのような人間にとっては、まったく第二義的な問題だわ… 

(フィリップ) それについては、ぼくはきみのようには確信していない。 


83頁

(アリアーヌ) 兄さんが完全に見逃していることがあるわ。それは私たちの関係の本質よ。(うわずった声で。)兄さんに打ち明ける権利が私にはない秘密の話があるの… でも、兄さんは以前、気づくことができたのよ、私が病気になる前にだって、私たちが、兄さんの絶えず言う、その、普通の生活をしていた頃にだって、以前… (言うのをやめる。) 
  
(フィリップ) その頃でさえ、きみたちは夫と妻ではなかったことを、理解すべきであると? 
 
(アリアーヌ) フィリップ! 
 
(フィリップ) 反対のことを信じていたよ。でも、いいかい、ぼくはこう思っているんだよ、きみたちの結婚後、何か月かして、きみには異変があったのだと!… どうだい?

(アリアーヌ) 兄さんに断言できることは、ジェロームには私が必要だということ、そして、遠くからでも、私は、この世の誰も彼にしてあげることのできないことを、彼にしてあげられる、ということよ。

(フィリップ) そうあってほしいよ。でも、きみの言うことがほんとうなら、それは、彼と一緒に生活することによってこそ…

(アリアーヌ) いいえ、それは私たち、もうないでしょう。(誰かがドアを叩く。) 何なの? (掃除婦が入ってくる。) 

(掃除婦) 奥さま、男性の方と女性の方が、(つづく) 


84頁

(つづき)奥さまとお会いする約束があると申しております。(アリアーヌに名刺を渡す。) 

(アリアーヌ) ありがとう。(フィリップに。)フランシャール夫妻だわ。でも彼女も来るとは思ってなかったわ。 

(フィリップ) フランシャール夫妻? 

(アリアーヌ) 彼は昔、師範学校で私と一緒だったピアニストよ。

(フィリップ) 思い出さないな。 

(アリアーヌ、掃除婦に。) お入りになるよう言ってちょうだい、エリーズ。 

(掃除婦) はい、奥さま。(出てゆく。) 


第二場

同上の人物、セルジュ、シュザンヌ

(セルジュ) こんにちわ、マダム。妻と参らせていただきました。あなたにとても会いたがっているものですから。

(アリアーヌ) それはどうも… お会いできて嬉しいですわ、奥さま。

























マルセル「稜線の路」22

2022-09-29 14:11:31 | 翻訳
79頁

(アリアーヌ) 自分のことは認識しているわ。そのためにかなり身を削ったもの。

(フィリップ) でも、それでもだよ、もし万一、きみが思い違いをしているとしたら… それは実験をする労に価するのではないかな?

(アリアーヌ) どんな実験?

(フィリップ) 単純に、普通の生活を再開するという実験だよ。

(アリアーヌ) ちょっと危険すぎるわね。けっこうよ。

(フィリップ) でも、もう一つの実験は ― きみが選んだ実験だけど ― それは危険が無いのかい? 聞いてよ、アリアーヌ、きみの到着以来、ぼくたちはまだ、落ち着いたひとときを持っていない。きみの亭主は居たし、きみが庇護している女性たちの一人だって居た… 

(アリアーヌ) フィリップ、その言葉は嫌いだって知ってるでしょう。

(フィリップ) ぼくの考えの根本をきみに言うことを、ぼくは決心した。

(アリアーヌ) そのことに関して言い続けることは、勧めないわ。
 
(フィリップ) どうして?

(アリアーヌ) あなたは気づいている、(つづく)


80頁

(つづき)じぶんが何も私に教えることができないということを。ずっと前から私は、あなたが私に言いそうなことはすべて考えていたわ。

(フィリップ) それでも、きみが知ることのできないことがあるよ。

(アリアーヌ) どんなこと? 

(フィリップ) いまの場合、ぼくは具体的なことをほのめかすことはしない。ジェロームと関係していることか、そうでないか? ぼくはそれについては何も知らないし、それはぼくには関係ないことだ。だけど、ぼくが確かめた、深刻に思えることは、悲しみの、鬱状態のことで、きみが不在の時にあの坊やがその状態で生きていることなんだ。苦痛なのでぼくが触れたくない、いくつかの経済的問題のことは話さないが。 

(アリアーヌ) 何を言いたいの? 

(フィリップ) ぼくはきみたちの約束ごとは知らない。ぼくは知らない、きみが彼に収入を保障しているのか… 

(アリアーヌ) とんでもないことを! 

(フィリップ) けれども、それが最善の解決だと思うよ。それにしても、ぼくが衝撃を受けるのは、ほとんどあさましいと言える経済根性で、その根性は機会ある毎に証明されている。いろいろあるが、劇場で、ぼくたちが偶々一緒に行くレストランで、服をあつらえるときのやり方で。まったくひどいものだよ。 


81頁

(アリアーヌ) でも唖然とするわ… 彼の洋服箪笥は不充分でまずい状態だとは気づいているけど、私は、それは投げやりとぞんざいさのせいだと思っていたの。

(フィリップ、断固として。) それは間違いだよ。ジェロームは、ぼくには、家族が田舎に居る学生たちを思わせる。彼らは、どうやって月毎の細々とした為替にいたるまで維持しようかと、胸を締めつけられる思いで思案しているんだ。

(アリアーヌ) それは理解できないわ。ジェロームは小切手帳を持っているのよ。彼はとてもよく知っているわ… 

(フィリップ) きみがぼくの考えの根本を知りたいのなら言うけど、ジェロームは自分が結婚しているとは感じていないんだ。遠くにいる友だちに扶養されているように感じていて、それが彼には気に入らないんだ。もしきみたちが一緒に生活していれば、とても違っているだろう… ああ! 事は全く論理的だと言ってはいないよ。それでもやはり、至極無理もないことだよ。

(アリアーヌ) 彼は、誰が身近で誰が疎遠か、一度も何も私に言ったことはないわ… 

(フィリップ) もちろんだとも! それは多分、自白されることはない事柄だよ、おそらく。(沈黙。) ぼくがきみに粗暴に思われるなら残念だ。きみは一度も、彼に彼自身の自由を返すことが、きみの義務かもしれないとは、考えたことはないのかい? 

(アリアーヌ) ねえ、よく知っているでしょ、四年前に…