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(ジェローム、苦々しく。) どうして、単純に、ぼくを愛している、と言わないんだい?
(ヴィオレット) いいえ、ジェローム、それはとても難しいことよ。もし、わたしがあなたを愛していないのなら、すべてはとても単純でしょうけれど。
(ジェローム) それ、ぼくにたいして言っているの?
(ヴィオレット) すぐそういうことを、ためらいもなく。そうなら解放でしょうね。
(ジェローム) きみはそれを望んでいるんだ。
(ヴィオレット、低い声で。) いいえ、それを望むことすらできないわ。(そのとき、外のドアを鍵で開ける音がし、そして声がする。)
(フェルナンド、外から、姿が見えない誰かに向かって。) ここの階段は大変で、昇降機は半分の時間しか働かないのよ。私たち、あんまり急いで登りませんでした? (フェルナンドが現われ、すこし息切れしているアリアーヌが続く。)
第十場
同上の人物、フェルナンド、アリアーヌ
(アリアーヌ) すてきなお宅ですこと! (つづく)
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(つづき)何という空間、何という明るさ!(窓の処へ行って眺める。)
(フェルナンド) ほとんど工場の煙突しか見えませんけれど、すくなくとも空気はいいですね。それはほんとうです。
(アリアーヌ、戻ってきて、ヴィオレットに。) こんにちは、マドモワゼル。とうとうお会いできて、私、どんなに嬉しいでしょう! あなたのお噂を聞くようになってから! (ジェロームに。) こんにちわ、あなた。マドモアゼル・マザルグが、あなたはここに居るだろうと私に話していたわ。
(ジェローム) うん、ぼくは…
(アリアーヌ、彼の言葉を遮る。彼に、その当惑を示すことを許さないためであるかのように。)いい機会だわ。私、車を持ってる。あなたが望むなら、私たち、一緒に帰りましょう… でもむしろ、いいえ、考えさせて… ヴィクトールに言ってちょうだい、あなたが好きな処へ運転してくれるようにと。私はバスを使うわ。
(フェルナンド) ここからは、地下鉄がいちばん便利ではないかしら…
(アリアーヌ) とんでもない。換気が欠けると、私、病気になるわ。
(フェルナンド) それは解るわ。私も、最初の頃は、あなたと同様だったもの。
(アリアーヌ、ヴィオレットとジェロームに向かって。) 私、(つづく)
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(つづき)ジャンヌ・フランカステルさんから、あなたがたが彼女のお家で会っていたことを、知らされておりましたの。(ジェロームに。)でもあなたは、そのことを私には何も言わなかったわね。隠し立てするひとね! (ヴィオレットに。)ジェロームがあなたのお役に立てているのなら、とても嬉しいことですわ。今日の名手のひとりの生涯が始まるかもしれないという気がしておりますの。
(ヴィオレット) まあ! わたしは名手ではありませんわ、奥さま。
(アリアーヌ) 女性演奏家の、で宜しいでしょうか。 (ジェロームに。)あなたは、コンサートホール経営の世界に沢山の知り合いがあるはずだから…
(ジェローム) それは間違ってる。ぼくはまったく誰の知り合いも無いよ。
(アリアーヌ) でも、批評家というものは…
(ジェローム) ぼくたちの特権について、きみは幻想を一杯じぶんで作り上げている。赤色証明書のことのほかは…
(アリアーヌ) 赤色証明書って何?
(ジェローム) 免税証明書のことだよ。
(アリアーヌ) そんなに面白くないわね。
(ジェローム) でも、欠かせないものだよ。