高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

マルセル「稜線の路」12

2022-09-22 14:06:20 | 翻訳
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 第八場

同上の人物、ヴィオレット

ジェローム、彼女の処へ赴き、彼女を抱擁し、不安そうに見つめる。

(ジェローム) ぼくのきみ… 顔色が冴えないのはほんとうだね。

(ヴィオレット、答えずに。) モニクが汗をかいていたの。下着を全部替えてあげなければならなかったわ。

(ジェローム) 診てもらわなければならないのだろうね。

(フェルナンド) パウルス医師が明日寄ります。

(ヴィオレット、かすかに笑って。) まあ! 思ってもいないわ。

(ジェローム) パウルス? ヴァランタンがとても良い小児科医だと言われていますよ。

(フェルナンド、そっけなく。) あなた、その医師をご存じ?

(ジェローム) 全然。

(フェルナンド) 一回の診察で三百フラン取るのですよ。


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(ジェローム) どうしたらいいでしょう?

(フェルナンド、さげすんだような表情。) あなたはその言葉しか口にすることはありませんね。(外出するために行く。

(ヴィオレット) どこへ?

(フェルナンド) 夕飯のためにまだ何も買ってないのよ。(外出する。



第九場

ヴィオレット、ジェローム

(ジェローム) 彼女の言うとおりだ。ぼくは何も良いところがない。このところ、ぼくはどん底にあるように感じていると、きみに断言する。

(ヴィオレット、優しく。) どうしたの? まず抱いてちょうだい。さっきの接吻は意味がなかったわ。

(ジェローム) フェルナンドの前では、ぼくたちは決して抱き合ってはいけないようだ。

(ヴィオレット) なぜ? 


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(ジェローム) どう言ったらいいんだろう? まるで冒瀆だ。

(ヴィオレット、快活に。) あなたがフェルナンドにそんなに敬意をもっていたなんて知らなかったわ。

(ジェローム) ぼくはじぶんがこんなに心底誰かを嫌ったことがあるとは思わない。 

(ヴィオレット) それはまちがいよ。フェルナンドは意地悪じゃないわ。ただ… 

(ジェローム) え? 

(ヴィオレット) いいえ、わたし、ひどいことを言おうとしたの。

(ジェローム) 言ってよ、その、ひどいことというのを。

(ヴィオレット) けっして回復してはいけなかったひと、と言おうとしたの。

(ジェローム) なんてことを? 

(ヴィオレット) 生き残ったひとたちのことは、かわいそうだと思わなくては。

(ジェローム) 逆説的だなあ。

(ヴィオレット) ほぼ確信しているのだけれど、サナトリウムの同僚たちで回復しなかった人々のことを羨ましがったことが、時々彼女にはあったと思うの。ただ、そのことを彼女はもう憶えていないのよ。かわいそうなフェルナンド!