高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

ガブリエル・マルセル 形而上的日記 第二部 翻訳2

2023-08-12 16:45:00 | 翻訳

(149頁)
(つづき)保存という観念は、ある一定の関係の許ではひとつの集合体であるところのものしか、保存され得ない程度に応じて、「場」を含意している。記憶は、要素の諸々である限りにおいてでしか — すなわち、散逸させられることがあるものである限りにおいてでしか、保存され得ないのである。だが、このことは何を意味するのか? そこにおいては、記憶をひとつの要素として、あるいは解体され得るひとつの集合体として、扱い得るような、何らかの意味が、ほんとうに存するのか? 実際に、紛失や分散という空間的諸観念は、根底において何か精神的なものを含意している、ということを、承認しなければならないように思われる。ひとつの全体が分散する、と私は言う。この意味することは、この全体が、私の拠り処とする心理学的な能動性に、全体として与えられることをやめる、ということである… 失うということ、それは常に、そして本質そのものからして、忘れるということである。記憶に関する経験は、実際には、未発達〈退化〉の諸経験の根元にあるのであるが、この未発達〈退化〉の諸経験のほうに人は記憶に関する経験を還元しようとするのである。
 人は言うだろう、絶対的な喪失、全体的な消滅というものが存し得る、と。だが明らかなことは、消滅というものは、生き永らえて想起する者たちにしか、自分たちの「今」を、想像あるいは記憶されている「当時」に対峙させる者たちにしか、存しないということ — とりわけ、ある一定の期間に見失って、自らの注意の範域外に逸させた、まさにそのものを、今や空しく取り戻そうと試みているような者たちにしか、存しないということである… しかしながら、警戒心に充ちて間断無いが、散逸してゆくものを取り戻すには無力な注意力というものを、人は理解することは出来ないだろうか? 瀕死の我が子を救えない母親のそれである。保護の実際的な力は、愛の基準だろうか? 我々が殆どそう考えることが出来ないのは、精神的で救済的な力と、この力がそれに立ち向かうところの散逸の力との間に、現実に存在する、根本的な異質性の故なのである — この異質性は、有限なるものの本性そのものに結びついているように思われる。精神的な力が我々に出現するのは — 是非はともかくとして — 精神的な不注意や散漫にだけは勝利し得るものとしてである。つまり、一般に我々はそう思っているのだが、このような間接的な仕方でのみ、精神的な力は物質的な散逸に、物質的な無秩序の力に、勝利することが出来るのである。精神的な力でも、(150頁)分解作用である物的諸力を征服すべくこの諸力に直接に当てられるような救済の意志は、技術的な意味では、奇蹟であり 1、再創造であろう。〈1. 一九二五年の覚書。— だが、我々自身の心底において、この分離に抗議する何かが存しないであろうか? この余りに厳格な、二種の散逸の分離に。まだ形成することのできない別の真理の予感が。〉


過去の保存の問題

 そのなかでは、我々がひとつの出来事と呼んでいるものが、ひとつの永遠な真理(交差する諸判断のひとつの集まり)であるような、そういう意味が存する。そして、このような意味のなかでは、保存について話すことは不条理であろう。持続するものに関してしか、保存は存しない — 時間がそれを踏み越えるところのものに関してしか。過去は、過去自身よりも生き永らえて自らを変形する程度に応じてしか、自らを保存することは出来ないのではないか、と思われる(ひとつの楽曲において、最初の調べが後続の調べによって変形されるのと同様に。後続の調べは、最初の調べが自分自身によっては持ち得ないであろうような価値を、最初の調べに得させるのである)。ベルクソンの動かない記憶とは、全くの抽象である。このような記憶は持続することが出来ず、自らを保存することが出来ない。けれども、と人は言うだろう、保存された手紙は持続しているのではない、と。だが、その手紙は思惟のなかで、思惟によって、持続しているのである。この思惟がその手紙を保存し、その手紙に気を配っているのである。その手紙は、ある生きている者に合体し〈取り込まれ〉ている限りで、持続している。出来事に関しても事情は同様であり、出来事は、その出来事を呼び出して自らの前に措定するところの動く現在によって、想起され、脚色される限りにおいて、持続するのである。人はこうも言いたいと思うかもしれない、手紙は物質的に、擦り減ってゆくものとして、持続する — 書かれたものは消えてゆく、等と。しかし、すべてこういったことは、物として、集合体として見做された手紙、保存されない限りでの手紙の、時間的表現でしかないのである。
 ただ、様々な難題が押し寄せる。保存作用の原理そのものも、持続するものであるように思えてくる。そして他方で、この持続は、自己保存を前提している、等。我々は神においてあらゆる保存の第一原理を見ることになろうが、そのこと自体によって、我々はこの原理をひとつの永遠な真理へ変換するよう追い込まれることにならないだろうか? しかし永遠な真理といっても保存作用の力は無いのである。つまり、こう言いたければ、救いの力は無いのである。
 永遠なるもの、それは、あらゆる保存の下位の限界なのか? このものは、要素のみが永遠であるだろうという意味において、時間がそれを踏み越えないところのものなのか? 無規定的なもの、性質づけられないものなのか(というのは、あらゆる性質は、(151頁)他の諸々の性質のひとつの集まりに依拠しており、ゆえに、持続のなかに組み込まれているから)。明白なことは、この意味に解された永遠なるものは、下位の時間的なものであることであり、〔つまり、この〕永遠性は消極的〈否定的〉な価値でしかないことである。ところで、保存作用の高位の限界というものを人は理解できるだろうか? それこそが永遠性の本当の問題なのである。この問題は全くもって不明瞭である。というのも、もし人が、ひとつの持続を全体として、現在として把握するところの行為を、積極的〈肯定的〉に永遠なものだと解するならば — この行為そのものが、あるいは、ひとつの瞬間でなければならないのではないかと思われ、〔その場合〕この行為は多分卓越した位置にあるであろうが、それでも、この行為をはみ出すひとつの持続のなかに取り込まれていなければならないのではないかと思われるからである。あるいは、〔そうでなければ〕この行為はひとつの単純な真理、つまりひとつの抽象であらざるをえないのではないかと思われるからである。
 私にとって、どんな場合にも明白だと思われることは、永遠なるものは、価値との関係が一切無い場合には、定義され得ない、ということである(さもなければ、私が「下位の時間的なもの」と呼んだものに、還元されてしまう)…
 再び、保存と創造との間の神秘な関係のことを反省した。保存が存するのは、創造されたものの次元〈秩序〉においてでしかなく、この次元は、価値あるものの次元でもある(保存は、分散に対する能動的な闘いを含意している)。
 我々は、我々にとって起こるところのものを、我々の前を通過はするが、何処へ行くのでもなく、何処から来るのでもないところの、諸映像のひとつの連続として見做す傾向がある。とはいえ、到来する或るものと、そのものが到来するところの「私」との間の、この関係は、理解不可能なものである。そこには、まだほとんど気づかれていないひとつの深淵が存すると、私は思う。
 一九一八・十二・十一
 予言[prédire]の可能性について(法外な場合Tに関して)。
 どのような諸条件で、予言[prédiction]は可能なのか? 予言すること[prophétiser]、それは観ること[voir]である。ゆえに、到来するところのものは既に在らねばならない。だが、どのような意味で〔在るのか〕? それ〈到来する未来のもの〉が現に在るのは、私にとって程なく姿を現わすであろうところの、ひとつの隠されている客体が、そうである〈現に在る〉ような意味においてではあり得ない。「何処?」という問いは、ここでは意味を有しない(「それは何処に?」〔という問い〕)。在るであろうところのものが、既に在るのであるが、〔それは〕或る他者[un autre]にとってなのである。この他者自身 — 彼は予想〈予見〉するのであろうか? 多分。だがこの場合、我々が先へ進むのではない。問いは新たに、この他者にとって呈されるのである。故に、「観る意識」たちの、多分とても長いこうした一連続は、終りには、生成の首長的な一意識を有する必要があることになろう。〔そして〕この生成というのは、同時に現在であり未来であるような生成であることになろう。このことは、例を援用して明確にすることができる。私がひとつの物語を即興的に創作する場合、私は、何処に私が到達しようと欲するのかを知っている。私は、私の書くものが向かっているところの状況を、単に予見するだけなのではない。私は、そうなるであろうところのものを、私がそうなることを欲するが故に、知っているのである。私は企画するのである[Je projette]。あらゆる(152頁)予言は、ひとつの「企画する意識」の生への、多分まったく間接的な参与[participation]を含み持っているように、私には思われる。この意識は予想〈予見〉するのではなく、先立って創造するのである。だが、このことの適用は無数にある。まず第一に、存在することにはならないであろうものを、私が観るということが、あるかもしれない。というのも、生成の首長的な意識が、だからといって全能ではなく、自らの企画を実現する力量を有しない、ということが想像できるからである。ここから承認されなければならないであろうことは、予言が事実によって確認されなくとも、事実的な予見[vision]が存することはあり得た、ということである。他方では〈第二に〉、この〔首長的な〕意識は、即興的に創作する限りにおいては、自らの本来の目的を目指してではあるが、自らに外部から提供される経験的素材を使うようにさせられることがある。ここには、この〔首長的〕意識の企画に参与する存在たちの観点からは予見不可能なものが存するかもしれない。この意識自身にとって予見不可能なものが存する程、この意識〔自身〕がどうやって着手したものか分からない程、そう〈予見不可能なものが存する〉だろう。同様に、この意識にとっては不可能なものが、反対に、別の観点からは、別の関連体系の中で、予言の対象であり得るかもしれない。
 私が理解していないこと甚だしいのは、この意識つまり上位意識の、私の意識あるいはあなたの意識への関係であることは、明らかである。この上位意識は、私には、〔私の意識よりも〕いっそう豊かであると同時にいっそう効力があるように思われる。要するに、この意識は、ひとつの上級の集中力を備えているであろう。だが、この意識は、正確に言って、ひとつの《別な》[une ≪autre≫]意識なのであろうか? 人は、我々はこの意識と有機的な関係にある、と言いたくなるだろう。しかし、このことは理解可能なことだろうか?
  一九一八・十二・十二。
 今朝、ひとつの根本的な筋道を見いだした。私が応答することの出来る問いというものは、専ら、私が与える可能性のある情報に関わる問いである(それが私自身に関わるものであっても。)例えば、アフガニスタンの首府は何処ですか? いんげん豆はお好きですか? 〔という問い。〕 しかし、私が全体としてそれであるところのものが問題となる程(そして私が有しているところのものが問題であるのではない程)、応答は、そして問いそのものが、すべての意味を失ってゆく。例えば、あなたは徳がありますか? 〔という問いや、〕あなたは勇敢ですか? 〔という問い〕さえも 1。〈1. 一九二五年の覚書。— このことは『神の人』の中心問題と繫がる。〉
 ここに、どうして、「あなたは神を信じますか 2?」と問うことが、もし神への信仰が存在様態として把持されており、ひとつの人格の実存に関する意見として把持されてはいないならば、根本においていかなる意味も有しないのかの、理由が存する。〈2. 覚書 一九二四年。— 神への信仰が現実のものである程、この信仰は存在のひとつの仕方であり、ひとつの存在論的な変容である。〉不死への信仰も多分同様である。ここから次のことが帰結する:
(153頁)
 1°) 他者の信仰は、私の側から知ることの出来るものではない(他者の信仰は質問事項のような対象ではあり得ない)。
 2°) そして次のことが最重要なことである。すなわち、あらゆる反省あるいは私自身とのあらゆる対話が、他者との対話の内面化された再生である程、私の信仰は、私の存在以上にも、私にとっての対象となることは出来ない、ということ。つまり、私は実際には、私の信仰について自分に尋ねることは出来ないのである(ここに、『砂の宮殿』の最も深い意味が存する。私はこのこと〈この問題〉をあんなにはっきりと理解していたことは嘗て一度もなかった)。そうであるからには、神は、「主体である私」と「客体である私」という二者関係と比較されるような第三者では決してあり得ない。このことは、一九一八年七月二十三日の覚書〔本書一三五頁〕の意味のすべてを示すものである。
 説明: 他者の信仰 — この意味するところを正確にする — は、私にとって、信仰対象でしかあり得ない。だが、私がこの他者の信仰を信じる瞬間から、私は彼と一緒に信じるのである。実際、不信仰者は、他者の信仰を信じない。こう言うことで私は、不信仰者が他者の信仰を不真面目だと判断していると言おうとしているのではなく(そういう場合がしばしばあるにしても)、不信仰者がこの〔他者の〕信仰を、間違った存在判断として解釈している、と言おうとしているのである。人が私に、「あなたは神を信じますか?」と言う場合、人は私に、「火星には人が住んでいるとあなたは信じますか?」という類の質問をしているつもりであるか、あるいは、「あなたは感受性の強い方ですか?」という形式の質問をしているつもりなのである。二つの場合とも、人は、信仰において本質的であるところのものの埒外に留まっているのである。すなわち、世界、つまり経験を、形而上学的に性格づける、個人的な仕方の、埒外に留まっているのである 1。〈1. 一九二五年の覚書。— この説明の仕方は、今では、私には、それほど明晰であるとも適切であるとも思えない。実際、問題となっているのは、主体によってそれが与えられるところの客体と比較すればそれ自体は偶発〈副次〉的なものである性格づけではなく、非人格的な形式でもなければ単なる経験的内容でもない実在する個人と、祈りにおいてこの個人がそれに密着しかつ自らがそれに密着していることを自覚しているところの実在との間の、独特な関係なのである。〉他方で、確かなのは、懐疑主義者の態度は大抵の場合、信仰を、ひとつの実在が多分それに呼応しているところのひとつの主観的な状態であると見做しているところに、本質が存することである。だが、この二元論は、間違いなく維持し得ないものである。というのも、神を思惟すること、それは、神を、神に関わる断定に結びついているものとして(そしておそらくは、この断定に関与しているものとして)思惟することだからである。神を実在するものとして思惟することは、私が神を信じていることが神にとって重要なことであると断定することである。これにたいして、テーブルを思惟するということは、私がテーブルを思惟しているという事実において、テーブルを全くどうでもよいものとして思惟することなのである。私の信仰がその関心を惹かないような神がいるなら、それは神ではなく、ひとつの単なる形而上学的な実体的存在[entité]であろう。懐疑主義者はこう言うだろう、「こうではありませんか? あなたは神を信じておられるけれども、あなたの信仰はあなた自身を性格づけるものでしかないか、あるいは、あなたの信仰がひとつの形而上学的価値を持つ場合には、あなたの信仰は実際に神にとって重要であるか、どちらかなのです」、と。(154頁)第一の選択肢が正確には何を意味するかを、私は探求しようと思う。
 この第一の選択肢の本質は、資格上問いに変わらねばならないと見做される、(私は神を信じる〔という〕)ひとつの断言〈断定〉にたいし、(然り、だが神は存在しない〔という〕)この応答を対立させるところに存する。すなわち、実在(?)は、事情通の解釈者の口によって、否定的な応答をこの問いそのものに対立させる、ということを承認することが、この第一の選択肢の本質なのである。事情通の人物が、そのもの(le lui)は神ではないことを、あなたに宣言する、というわけである。だが、このことは、信仰者自身にとっては内面化され得ることであるから、明白なのは、我々は、先ほど定義された条件を完全に外れてしまうことになる、ということである。というのも、我々は、神は「彼」の、つまり、対話と比較した「第三者」のはたらきをなすことは出来ない、ということを明示していたのであるから 1。〈1. これらすべてのことは、以前私が検証不可能なものについて言ったことに繫がるということを、記しておくのは本質的に重要である。検証可能なのは、「彼」の次元に存するすべてのものであり、検証不可能な(すなわち、あらゆる検証を超越する)のは、二者相互間的(dyadique)な関係からしか成っていないものである(付言しなければならないであろうことは、検証行為は、数限りない代置の可能性を前提する、ということであり、逆に、私がひとりの「汝」の面前に居る場合には、代置というものは理解し得ないものだ、ということである。このことは最重要なことである)。〉 ここで我々は正に次のように言うのだと思われる(我々自身に、あるいは他者に。これは同じことなのであるが)、すなわち、《あなたは、神であるところのひとつの第三者が存する、と断定なさる。だがその第三者は神ではない。その第三者には神のものであるようなものは何も存しない》、と。さて、呈示されていなかったひとつの問いへの、この答えは、意味を欠いている(正に、主体と、「彼」自体と、神との間の、三つ組の関係の可能性は、除外されていたのだから)。このことに拠って、〔問題の〕第一の選択肢は意味が無いか、あるいはむしろ、最初に呈示されていたものの否定的確認でしかないことになるのである。
 多分、これらの反省は、主語と述語との間の関係という大変な問題にたいして、何らかの光を投げかけるものである。じっさい、つぎのように言うことは出来ないのか? すなわち、主語が実際に存在する(私が存在するという意味において)ものである程、この主語は、私自身を含まないのと同様、問いと答えという途による規定をも含まないのである、と。「私とは何であるか?」という問いにたいしては、私は何と答えるかを知らない。「私は金髪か?」「私は食道楽か?」等の質問にたいしては、私は苦も無く答えることが出来るのに。私がひとつの「もの」を主語として思惟する(「もの」を考慮するこのような仕方は、或る場合には不適切であることがあると私は思う)瞬間から、私はこの「もの」を、包括的なひとつの問いにではなく、事細かな諸々の問いには答えることが出来るものとして思惟するのである 2。〈2. まさにこのために、実体は知ることの出来ないもの、すなわち、対話法〈弁証法〉をはみ出すものなのである。そしてまた、つぎのことが容易に理解される。すなわち、実体は、我々に答えるために、自らを事細かに述べるより他のことがどうして出来るだろうか、ということが。もし、実体が大雑把に自らを晒すならば、「彼」という契機と「汝」という契機は同一化する。我々は力動的なものの中に(すなわち、ひとつの第三の実在に関する知の外に)いることになるのである。〉 このことは、(155頁)ひとりの個人〈人格〉にとって、あるいは多分、神にとってすら、とても明瞭なことである。しかし、私がひとつの「もの」を、諸々の性格を有するものとして、そして、この「もの」が所有するこれらの性格の外では定義され得ないものとして、扱うのは、ひとつの混同と類推によってなのであるということは、あり得ることである。多分、「もの」(主語)という観念は、完全に除去されねばならないものなのであろう。そしてこのことを、私は信じようとする傾向にあるのである。この実体論は、私自身のことに関しても同様に正当化し得ないものだと、人は言うだろうか? だが、私が自分を「私」として思惟する限りでは(そして、すべての決意、すべての行動は、このことを前提している)、私は自分をひとつの全体として扱っているのである。私が愛し、愛される、等、したりされたりする程、同様に私は自分をそのように扱っているのである。こうして我々は、つぎの重要な命題に達する。すなわち、「ひとつの実在がひとつの全体として扱われる程、この実在は、問いと答えとによって行われるような思惟の最中にあって超越的なものなのである」、という命題である。意識とこの実在との間には、ひとつの二者相互間的(dyadique)な関係しか成り立ち得ないのである(〔この二者相互間的な関係は〕より正確には、反省にたいしてそのような関係として現われるところのものである。なぜなら、我々が二人でしかないならば、我々は或る意味で唯ひとつだからである。というのも、認識論者たちの偽-二元論は、実際のところ、ひとつの三元論であるのだから)。二者相互間的な関係、これは、私の以前の論究においては私が「参与」(participation)と呼んだものである。こうして、私の現在の反省と少し前の反省との間に、完全な一致が成立する。こうして、人は分かり始める、「神を信じることは、実在的なものと二者相互間的な関係を保つことであろう」、ということを。だが明らかなことは、この大変抽象的な公式は、明瞭化され特定化されなければならないということである。
 神、それは、実在[la réalité]であり、しかも、三人称のもの[elle]として扱われることは絶対に出来ない限りでの実在である。このことは、私が、「神について可能な判断というものは存しない」、と主張していた時期に、私が言おうと欲していたことではないのか? だがこのことはもっと深掘りする必要がある。「汝」において〈の次元で〉は、判断は存しないのか? 私が誰かに、「きみは善いひとだ」[tu es bon]と言う場合に〔も〕。
 だが、銘記すべきであると私に思われるのは、「汝」の次元でのあらゆる判断は傾聴されるように定められている、ということである。「彼」の次元ではひとつの目的性が存していて、この目的性は「汝」の次元での判断においては存在しないものである【訳者:ここでの最後の「汝」は原文では「il」となっており、前置詞「en」に伴われている。これは文法的にもありえないことであり、「toi」とすべきところを誤植した、と訳者は判断し、「汝」と記した】。人は、この後者の次元での判断は、情報教示のために充てられているものだ、と私に反論するだろう。しかし正にこのことが、「汝」の次元での判断には適用されないのであり、少なくとも第二義的にしか適用されないのである。「汝」の次元でのあらゆる判断は、私と対話者との間のひとつの関係を表現するものであり、ある向きは、この関係は同様に、「彼」の次元についても知られているはずだと言いたいだろう[ainsi que la volonté que ce rapport soit connu de lui]。(「きみは善いひとだ」=教示しているのは、「私はきみが善いひとだと思う」ということ)。要するに、信じる者と神との間には、個人的〈人格的〉な関係しか存しないだろう。そして、信仰の外に自らを置くことは、神を思惟することを自らに禁じることであろう。
(156頁)
 とはいえ、このすべての理論は、信仰に関するひとつの反省であり、しかも、主体の客体への関係へと信仰を変換することはないことを前提するものである。よく見なければならない。
 一九一八・十二・十四。
 現実存在[existence]と述語づけ[prédication]。述語づけの対象[objet de prédication]であり得るものしか、〔つまり〕目印をつける[repérer]ことの出来るものしか、現実存在しない(ひとつの存在判断[jugement d’existence]を述べるためには、諸々の述語を使って目印づけをしなければならない)。ここから、「神が存在すると言うことには意味がないという事実」と、「神に諸々の性格を帰属させること、神を彼に変換することの、不可能性」との間の、ひじょうに明瞭な関係〔が生じる〕。
 しかし、神を思惟するこのようなやり方は、神を全的に私に依存させることに帰着するものではないのか? というのも、私がそれによって対象を理解するところの行為から独立しているものとしての対象のみが、〔対象として〕捉えられているのであるから。ここから、つぎの、あきらかに馬鹿馬鹿しい問題が出てくるのであるが、かといってこの問題を呈示しないのは難しい。すなわち、「私が神のことを思わない限りでの神は、何であるか?」という問題である。ただし、(「神のことを思う」という言葉が大変な曖昧さを秘めているだけでなく)そのことを問うことは、再度神を第三者に変換することであるのは明らかである。(つづく)


つづきは《ガブリエル・マルセル 形而上的日記 第二部 翻訳2》を検索して御覧ください。



 



ヤスパース『哲学』翻訳 第二巻「実存開明」「第三章 交わり」1

2023-08-12 15:43:57 | 翻訳
ヤスパース(6-1)『哲学』翻訳(第6部)第二巻「実存開明」「第三章 交わり」

ヤスパース『哲学』翻訳(第6部-1)第二巻「実存開明」「第三章 交わり」

      古川正樹 訳

2023.4.18~


第三章

交わり


根源としての交わり (50頁)


根源としての交わり

 なぜ交わりがあるのか? なぜ私は私独りではないのか? という問いにたいしては、自己存在への問いにたいしてと同様、核心が言い当てられるべきだとすれば、納得のゆく答えは殆ど不可能である。「私は他者との交わりにおいてのみ存在する」という命題の意味は、たしかに、客観的にも主観的にも、了解行為と行動とにおいて互いに結合している現存在のこととして受け取られ得るものである。そしてその場合、この命題の意味はひとつの規定的なものであって、相互の関係によって存在している[Miteinandersein]という事実によって表示され得るようなものなのである。しかし、この命題意味は、実存的に思念される場合には、言表上では逆説的となるような、自己存在の根源を言い当てるものなのである。この自己存在は、自分自身からして本来的であるものであるにもかかわらず、自分からでは、そして自分のみでは、本来的であるものではないのである。このような実存的な交わりは、(51頁)かの現存在的交わりを自らの肉体として有することになるのであろう。この肉体において実存的交わりは現象し得るのである。
 1.現存在の交わり。— 交わり[Kommunikation]とは、すなわち、他者たちと共に生きることであり、このような生は、現存在において多様な仕方で遂行されるものであるが、諸々の共同体的関係において現に存している。これら共同体的関係は、観察され、それらの諸々の特殊性において区別され、それらの諸々の動機と効果とに関して見通しが利くようにできるものである。共同体のあらゆるあり方は、現存在にとって不可欠であるゆえに、現存在における可能的実存にとって〔も〕不可欠なものであるが、しかし、そのあり方そのものは、決して既に、私が可能的実存として本来的に欲するところのあり方なのではない。むしろ、この共同体のあり方はすべて、観察されるものである交わりの限界に臨んで尋問されなければならないものである。心理学的で社会学的には現実のものである諸関係は、研究の対象である。〔これにたいし、〕真の交わりは、そこにおいて私が本来的に初めて私の存在を知るところのものであり、私はこの私の存在を他者と共に生み出すのである。このような真の交わりは、経験的に手許にあるようなものではない。この真の交わりを開明することは、哲学的な課題なのである。
 a) 共同体における人間の純朴で疑いを懐かない現存在は、自らの単独的な意識を、自らを取り囲む人間たちの一般的な意識を以て埋もれさせてしまうものである。彼は自らの存在について問わない。そういう問いを発することはそれだけで既に不和分裂を突発させるものだろう。たとえ人間が衝動力と本能の確かさとに拠って自らの利益を見いだすことを知っているかもしれないにしても、それでもやはり、人間を拘束し人間が知っているところのあらゆるものは、共同のものなのであって、この共同のものに、人間自身の現存在意識は基づけられているのである。共同体的生の実体、彼がその一員であるところの人間集団の世界と思惟は、個別的人間の特殊な自己意識に対峙したひとつの他のものとして、尋問と吟味が可能なものとして、あるのではない。純朴な現存在としては私は、皆が為すことを為し、皆が信じることを信じ、皆が思惟するように思惟するのである。諸々の意見、目標、気掛かり、喜び、といったものが、一人の者から他の者へと、本人がそのことに気づくこと無しに伝播する。何故なら、皆の根源的で無疑問な同一化が起こるからである。各人の意識は晴朗であるが、各々の自己意識はひとつの帳(とばり)の下に覆われているのである1。〈1. このような原始的状態は、相対化された背景としては常に現実に存続しているものであり、全体としてひとつの可能性であり続けているが、斯くの如き原初的状態の心理学的-社会学的な探究調査は、様々な観点の下で、タルデ、ル・ボン、レヴィ-ブリュール、プロイス等によって為されている。〉 — 自己は、このような共同体を媒介として生きている限りでは、まだ交わりの中に立ってはいない。何故なら、自己はまだ自己自身として自らを意識してはいないからである。私が交わりを欲するのであれば、私はこのような無意識性の中に再び潜り込もうとは思わない。
 b) 自我[das Ich]が自らを意識するものとして他者たちと自らの世界とに自分を対峙させることが出来る場合、そこにはひとつの飛躍があるのである。自我は自らを区別し、(52頁)このことによって、ひとつの根源的な独立性を摑み取るのである。この飛躍は、明晰で強制的な、普遍妥的な論理的思惟を発展させることと結びついており、この思惟においては、最初は夢想のように思える世界が、様々な対象と合規則性とへ結晶化されるのである。これら対象と合規則性とは、規定されて固持されるべきものであり、繰り返し認識され得るものなのである 1。〈1. 自我意識と論理的思惟との事実的な発生と展開という問題は、ひとつの有史以前的な問題であり、月並みな事柄を越え出るあらゆる点においては、実証的な伝承が欠けているので様々な仮定が頼りであるような問題である。〉
 自我が独立したものとして解き放された後の問いは、どのようにして自我と自我とが相互に了解し合い、互いに交際するのか、という問いである。かの、原初的現存在において最も明瞭で無疑問なものである共同体が、消滅したと、我々が考えるならば、存在するのは、現存在する自我原子としての人間たちと、悟性から悟性へ、現存在から現存在への関係としての彼らの関係とであることになる。すなわち:
 第一に、ひとつの思惟内容としての、ひとつの客観的事象を、共同で了解することを通して、自我から自我へのひとつの了解行為が存在する。この了解行為においては、ひとつの適切性がそのものとして理解され承認されるのである。あるいは、そこにおいてひとつの目的がその目的に従属する諸手段とともに共同で摑み取られるところの、行為が存在するのである。このような諸々の共同体は非個人的なものであり、そのような共同体においては、あらゆる自我は、その形式的な自立性にも拘らず、別の自我と原理的に代替可能であり、すべての自我は点の如き存在として相互に交換可能なのである。
 第二に、分離された自我が、あらゆる他の自我を事象として取り扱うという可能性が存在する。諸々の事象内容を共同で了解すること、並びに、他者の諸々の動機を心理学的に了解することが、人が自分のために保持する何か或る目的に基づいて、他者をそのために所有しようと欲するところのものへと、他者を持って行くための手段としてのみ、使用されるのである。他者は、自分自身の意志の伝達を通して、平等な位階を持つひとつの現存在として承認される、ということはなく、この他者にたいしては、支配されるべき自然客体にたいするのと同様な影響行使が、その最後の意味を他者は理解していないところの、諸々の手はずを講じることによって、また、その諸目的を他者は知らないところの、他者の処遇と彼との付き合いによって、為されるのである。ここでも、いかなる個人的な関係も生じることはない。しかし、人が、たとえ全的に或る事象へと向けられて、他者をただ事象においてのみ観じている場合でも、この事象を共同で了解することにおいては他者を固有の自我として非個人的には通用させているのに、ここでは他者自身が事象となり、あらゆる伝達と関係は、ただ、事象を支配する場合と同様に、他者を支配する手段としかならないのである。このような関係が相互的なものである場合、ひとつの闘争が生じる。この闘争は、両者のうちの誰が、秘匿と見せかけの交わりという手段によって、統制される事象となるか、という、そのための闘争なのである。
(53頁)
 c) このような交わりにおいては、私は意識一般である悟性として思惟されているだけである。しかし、このような普遍的な合理性の可能性は、そこにおいて私が更に実存として可能でありつづけているところの、単なる媒体なのである。「合理」[ratio]によっては、私は確かに私自身ではないが、「合理」が無ければ、私は私自身となることは出来ない。私が交わりを摑み取るのは、誰にとっても同一であるような諸事象においてなのであるが、私は、事象を純粋に把握することによって、既に諸事象を越え出て〔交わりを〕摑み取るのである。
 というのも、人間は、決してひとつの単に形式的な悟性自我ではないからであり、決して単に生命力としての現存在ではないからである。人間は〔そういうものではなく〕、ひとつの内実[Gehalt]の担い手であり、この内実は、原初的な共同体状態の暗闇のなかに保たれるか、あるいは、精神的な、意識的となるも決して充分には知られない全体性を通して、実現されるかするものなのである。理念としてのこの全体性は、悟性には明瞭な規定性と合目的性とを共同的なものとして包み越えるものであるが、陰に籠ってはっきりせず衝動に憑かれている個別者の自己中心的な利害関心とは、本質的に異なったものなのである。この、理念としての全体性は、規定的で根拠づけ可能な諸目的によって導くのではなく、ひとつの意味の中へと嵌め込むことによって導く。この意味の中では、個別者は自らが世界へと拡張されているのを見いだすのであり、この世界に貢献〈帰依〉することが彼を充実させるのである。
 統括する理念は、それ自体、いかなる対象的な事象でもないが、それでも、理念の全体性によって一般的であり、それゆえ、理念の非個人性のために、諸々の主観の内での実現に結びついている。これら主観は、理念を、高揚した非対象的な意味において、自分たちの『事象』と呼ぶのである。外側から見れば原初的共同体のような観を呈するものが、理念の肢体となり得るのであるけれども、そうなるのは、自我一般という意識的な独立的自己が媒介部分となることによってのみなのである。この自己は、その際、その原初性と無疑問性を、徹底的に変容させる。一つの全体 — 特定のこの国家、この社会、この家族、この大学、この職業 — という理念における共同体は、私を初めて、ひとつの内実に満ちた交わりの中へともたらすのである。
 とはいうものの、私の私との同一化〈私の自己同一性の確認〉は、この〈そのような〉交わりにおいても、まだ脱落している〈未だ生じていない〉のである。たしかに、世界現存在の客観性のなかでの私の生は、内実を伴う諸々の理念への参与を通してのみ、充実可能なものである。だが、個別的な個人[der Einzelne]は、ひとつの独自な自立性[eine Eigenständigkeit]を保持しているのであって、この自立性は、この客観性を突破することがあるのである。ゆえに、この自立性は、この個人が経験的な個体としては全くこの客観性に吸収されようとも、この客観性に尚も対峙しているのである。理念とその実現〔の場〕における、実存を通しての交わりは、たしかに人間を、悟性や目的や原初的共同体よりも大きな、他者への接近の中に入らせはする。しかし、『私自身』と他の自己との絶対的な接近、この接近においては(54頁)端的にいかなる代替可能性ももはやあり得なくなり、この接近は理念の立場からは、もしかしたら個人的な接近として低く評価されるかも知れないところの、この絶対的な接近は、そのようにして〈いままでのような仕方で〉可能になるのではない。——
 社会学的な諸関係は、その、諸主観に錨留めされた諸側面に従って、つぎの三つの、互いに基礎づけ合う諸方向において、追究される。すなわち、原初的な共同体性の方向において、即事象的な合目的性と合理性の方向において、〔そして〕内実が理念によって規定されている精神性の方向において、である 1。〈1 諸理念の分析は、史実を様々に解釈することによって為されている。これら解釈は、いろいろな時代、文化、民族、制度の『精神』あるいは『諸原理』を把握しようとするものである。これら解釈が、モンテスキュー、ヘーゲル、ランケのように、相互にどれほど遠く隔たっているかもしれないにしても、そうなのである。科学としての社会学が本来的に成果をあげるのは、既述の三つの方向において、事実的に歴史のなかで出現するすべての諸力の、知られたのでも欲せられたのでもない諸結果を指摘することによってである。そういう成果のある場合というのは、社会学が、それら諸結果を規定的に捉えることに成功する場合であって、〔そういうことは〕普遍妥当的に決定的なものとしては第二のグループ〔即事象的な有用性と合理性〕でのみ成功することなのである。〉 にもかかわらず、社会学的関係のどのような特殊な諸現実が考察の対象になろうとも、〔研究者において〕満足が生じるのは常に、何かを、純粋に大衆心理学的に原初的共同体からして解釈したり、純粋に合理的かつ目的に規定されたものとして解釈したり、純粋に理念的にひとつの全体性からして解釈したりするような、境界的〈極限的〉な場合においてのみであろう。問題であるものが、諸々の共同的な労働目標(職業連帯、仕事仲間)であろうと、教師と生徒、医師と患者、上司と部下、売り手と買い手、窓口係と顧客、の間の関係であろうと、契約の際の交渉相手、裁判の前での担当部局と敵対者であろうと、議会での討論やそれと類似の討論の秩序であろうと、祝祭での社交や催しであろうと、友情、仲間意識であろうと、闘争での仲間意識や連帯であろうと、すべての場合において、ひとつの心理学的な現実が基礎[Grundlage]であり、合目的性と悟性が、通用性を有する媒体[Medium]であり、全体性の理念および越え包むものへ帰属性が、多かれ少なかれ意識的な、秩序を形成する絆[Bindung]なのである。この絆は、否認するに到るまで希薄になることがあるかも知れないが、少なくとも、可能なものではあり続けるのである。——
 とはいえ、〔これら〕三つの、客観的となる交わり様態を現前させることにおいて、諸々の限界が感得可能となったのである。これらの限界において、実存的交わりへの方向がはっきりと現われるのであるが、この交わり自体は未だ遭遇されないのである。素朴-実体的な共同体の場合は、限界は、自分自身に拠って立つ自我であった。この自我と他の自我との交わりの場合は、〔この種の自我は〕代替可能な点のようなものであるから、更なる限界は、諸々の全体性の包越的な理念であった。これらの全体性の内で、これらの自我は活動的に作用し、これら全体性を通してこれら自我は、因果的にではなく理念的に結びついているのである。諸理念の許に立つ交わりの限界(55頁)は、今や終極的なものであり、この限界こそ実存である。先行する諸々の交わりのあらゆる段階に結びつけられて、このように現象しながらも、実存はこれらの交わりのいかなるものの中にも終結していない。自ら根源的である実存は、唯一実存にとってこそ必要な諸々の交わりの中に立っているのである。これらの交わりは、実存そのものにおいてのみ、可視的ではなくとも経験可能であるがゆえにこそ、客観的な諸々の交わりと対峙しているのである。私は実存においてこそ私の全本質を投入して存在するのであって、私の現存在を投入して既に存在するのでも、一般性に変換可能な諸形式を通して存在するのでもないのである。
 2.実存的とならない交わりへの不満。— 私があらゆる交わりにおいて特殊な満足を経験するにしても、どんな交わりにおいても絶対的な満足というものはない。というのは、私が自分の交わりの個別性を意識して、それによってこの交わりの限界にぶち当たる時、私をひとつの不満が襲うからである。私はただ、ひとつの規定された方向に在っただけであり、単なる現存在として、自我一般として、ひとつの理念的な全体の機能として、特定の性格として、組み込まれてはいたが、私自身として在ったのではなかったのである。
 それゆえ、交わりにおける不満は、実存への突破のための、ひとつの根源なのであり、この突破を開明することを求める哲学的思惟〈哲学すること〉にとっての根源なのである。あらゆる哲学することが驚きをもって始まり、世界知が懐疑をもって始まるように、実存開明は交わりの不満の経験をもって始まるのである。
 不満は哲学的反省にとっての出発点であり、この反省は、「私が私自身として存在するのはただ、その時々でかけがえのない他者を通してのみである」という思想を了解しようと欲するのである。
 a)意識一般の交わりと現存在の伝承とにおける不満。— 意識一般として私は既に他の意識と共にある用意ができている。意識が対象無しには無いように、自己意識は他の自己意識無しには無い。ただ一つの孤立した意識などというものがあるとすれば、それは、伝達を欠いているものであり、問いも応答も欠いているものである。したがって、〔そもそも〕自己意識を欠いているものなのである。この自己意識は、そのような伝達や問いと応答によって、言葉として既に自分自身を他者から際立たせることにおいてのみ、存在するのである。自己意識は他の自我において自らを再認識しなければならないが、この再認識は、自己との交わり[Selbstkommunikation]において自らを自我として自分自身に対峙させて、普遍妥当的なものを捉えるためなのである。— しかしこの交わりは、まだ任意に代替可能なものであり、単に媒体であって、自己の存在ではない。この交わりにおいて私は誰ででもあるのであって、つまり普遍的な自我一般なのである。私はこの自我一般であることを確かに欲しはするが、私は私自身であることをも欲するのであり、単に誰ででもあることを欲するのではない。 
 というのも、既に経験的現存在として私は、相互に作用し合う他の現存在を通してのみ、存在するのである。ひとりの人間は、出産と(56頁)遺伝のみによって存在するのではなく、彼に彼自身の世界をもたらす伝承を通して初めて、現実の人間なのである。孤立した人間存在というものは限界表象としてのみ在るのであって、事実的なものではない。この孤立人間存在は、発育不良だったのだと考えられるかもしれない。すなわち、以前は聾啞者は精神薄弱〔と見做されていたの〕で、本当の白痴から区別されていなかった。聾啞者が手話を習得し、そのことによって彼らにも伝承が伝わるようになって以来、彼らは全き人間となった、と。— だが、このような伝統がただそれだけのものならば、私は、人間存在の歴史的内実とどんなに交わっても、それを通して私が私自身となるような本来的な交わりの内にはいないのである。客観的な伝統の中に諸々の個人は存在するのであり、これらの個人はこの伝統を私にもたらしてくれるが、このような伝統の中では、私自身は代替可能なものであって、客観性それ自体の中で何かが変えられることもない。しかし人間は単に容器であるより以上のものである。人間がただ、伝承されるものを受け入れるだけならば、人間はそこで窒息してしまうしかないだろう。自分で摑み取ることで初めて、人間は自分自身となるのである。
 b)私独りだけであることへの不満。— 私が交わりの蹉跌に対峙して私自身を摑み取り、私独りで自立しようと試みるならば、不満は — 今や飛躍的に — 強まる。不満は絶対的で窮極的なものとなるのである。私が、あたかも既に私のためには真なるものを知ることが出来るかのように、「生の意味」を『私独り〔のもの〕』として捉えようと試み、そして私が、なるほどよく他者たちを世話し、私には彼らのために正しいと見えることを彼らに為すけれども、しかしその仕方が、あたかも彼らが私とは最も内面的なものにおいて本来関係がないかのような仕方である場合、私は紛糾してしまうのである。私は〔その場合〕真なるものを見いだすことが出来ない。というのも、真であるのは、ただ私にとってのみ真であるのではないものであるからである。私は、他者を愛することを通してでなければ、私〔自身〕を愛することは出来ない。私がただ私であるのみならば、私は荒廃してしまわざるをえない。
 たしかに、ひとつの根源的に真なる衝動というものが私の内にはあって、それは、私独りに拠って立とうという衝動である。私にとって交わりが破砕した場合、私はそれでも私自身として不可侵に生きることが出来るのでありたいのである。しかし、私が、事実的にであれ、準備の不足によってであれ、あり得た交わりを裏切り、〔そして〕不満がもはや交わりへの意志へと転換されなかった場合には、私は無の中へと入り込んだのである。この場合、不満は、あたかも私は存在の外部へ落ちたかのような意識となる。この不満の意識は、不気味となった現存在と共に自分独りであることを前にして、恐怖する。私は、絶望して決意した自己存在の自己充足を哲学することで、自分を助けようと努める。そして私は、そのようにして、私が知らずに私の否定する自由によって私に招いたものを、ただ、ひとつの憶測上不可避なものとして、肯定するのである。現存在は私にとって暗いものとなる。
 それは、私独りのみに拠って立つことの可能性を巡っての、ひとつの内的な闘いなのである。〔そして結局、〕私は、生の意味に、私(57頁)独りだけから到達することを、断念するはずである。闘いは、交わりにおいて、交わりに結合していることを通して、その都度、私の自己存在の決断へと至るのである。交わりは、私の可能的な自己存在の深みからのものであるが、この交わりにおいて、他者における同じ可能性によって語り掛けられて、要求されているのである、「私であるところのものに私は成れ、その都度唯一な他者と共に」、と。
 c)他者への不満。— 他者が彼自身であろうと欲しないならば、私は私自身となることは出来ない。他者が自由ではないならば、私は自由でいることが出来ず、私が他者をも確信しているのでないならば、私は自分を確信していることが出来ない。交わりにおいては、私は自分が私にたいしてのみならず、他者にたいしても責任があると感じている。あたかも彼が私であり、私が彼であるかのように。他者が、〔私が彼と出会うのと〕同様に私と出会う場合に、私は初めて、交わりが始動するのを感じる。というのも、交わりの意味にも私は、私自身の行為のみによって到達するのではないからであり、他者の行為が迎え出なければならないからである。他者が、私を出迎える者である代わりに、彼自身を私にとって客観とするような場合においては、私は、永遠に不満な苦しい関係の中に入らねばならない。他者が自らの行為において自立的に彼自身とならないならば、私も、そうならないのである。他者を私に服従させて配下に置くことは、私を私〔自身〕へともたらすものではなく、他者が私を支配することもまた、同様な結果となる。相互に承認し合うことにおいて初めて、我々は両方とも我々自身として育つのである。我々は共にのみ、誰もが到達しようと欲しているところのものに、到達することが出来るのである。
 d)交わりへの衝動。— 交わりが機能しないことは、私にとって本質的に私の咎となる。たしかに、交わりが明らかに到達されるのは、合目的的な悟性の善意志のみに拠るのではないが、それでも、自己存在を投入することを以てなのである。というのも、私は交わりにおいてのみ、自ら私へと到来するのであるから。私が自分を控えており、相対的で個別的な交わりを既に窮極的な可能性として扱うならば、交わりは決して成功することはない。自らが自分にとっても他者にとっても決定的な要因である、という意識は、交わりへの最高の準備へと駆るのである。
 ひとりの人間へのあらゆる関係は、その各々の関係の、規定的である故に限界づけられた実在性を越え出て、我々〔自身〕に関係してくることがあり得るものである。可能的実存相互の出会いにおいては、世界の内でのすべての理解可能性を踏み越えるような本質的に重要な意義の意識、実存相互の触れ合いあるいは擦れ違いの意義の意識が、しばしば我々がこの意識を正しく了解しなくとも、〔我々に〕押し迫ってくる。我々から差し出された手が本来的にではなく単に共同体的なものとして摑み取られた故の、喪失したかのような無駄遣い〔の感情〕。我々がひとつの交わりを(58頁)破砕せざるを得ない、あるいはこの交わりの破砕を忍ばねばならない、という意識。あらゆる敵対存在の重圧 — 現存在の損害の可能性とは全く無関係であるけれども。あらゆる不機嫌と不和を、我慢可能な場合には、死亡事件のように解消しようとする傾向。憎んでいる者に、その者が死んでしまった後になっても、何かをしてやりたいと思う心根を前にしての恐怖。こういった諸々の感情は、ひとつの実存的な意識を指し示すものであって、この意識にとっては、交わり〔こそ〕は本来的な存在であり、単に時間的な結びつきではないのである。交わりにおけるあらゆる喪失と不発は、本来の存在喪失と同様である。存在とは、互いに共在することであり、この共在は単に現存在の共在ではなく、実存の共在である。だがこの共在は、時間の内では、存続するものとしてではなく、過程であり、危うい冒険であるものとしてあるのである。交わりにおいて私にとって生成したり不発だったりするものは、したがって、そのようにして、窮極の心根に触れるような内面的で物静かな仕方で、起こるのである。したがってまた、既に現実のものとなっている現存在的な交わりへの不満は、一層深くて実存的である交わりへと私を覚醒させるところの、棘なのである。
 e) 実存的交わり。— 交わりを通して私は私自身が出会われるのを知るのであるが、この交わりにおいて他者は専ら特定のこの他者である。すなわち、唯一性が、この〔特定の他者の〕存在の実体性の現象なのである。実存的な交わりは、模範として示される〈予め制作される〉ものでもなければ、真似られる〈爾後的に制作される〉ものでもなく、端的に、その都度の一回性においてあるのである。実存的交わりは二つの自己の間のものであり、この二つの自己は、ただ特定のこの自己たちであるのみであって、代表者たちではなく、ゆえに、代替可能な者たちではない。自己は自らの確信を、絶対的に歴史的な、外部からは承認不可能なものとしての特定のこの交わりにおいて、持つのである。このような交わりにおいてのみ、相互的な創造における自己にとっての自己が在る。歴史的な決断において、この自己は、交わりへの結びつきを通して、自らの自己存在を、孤立した自我存在としては止揚したのであり、交わりにおける自己存在を摑み取ろうとするのである。
 「他者が彼自身であり、彼自身であることを欲し、そして私が彼と共にあり、彼と共にあることを欲する場合に、初めて、私は私の自由において私自身である」、という命題の意味は、可能性としての自由からのみ、摑み取られるものである。意識一般および伝統における諸々の交わりは、認識可能な現存在的必然性の諸々であり、これらが無ければ、無意識的なものの中へ沈み込むことは避けられないことになろう。一方、実存的交わりの必然性は、自由の必然性でのみあり、それゆえ、客観的には理解し得ないものである。本来的な交わりから逃れようとすることは、私の自己存在を放棄することを意味する。私がこの交わりから私を引き離すならば、私は他者もろとも私自身を裏切るのである。
 3.実存的交わりの諸限界。— 実存的交わりの実現は、ひとつの(59頁)無理強いされないものに結びついており、この無理強いされないものは、起こらないことがあり得るのである。〔そしてまた〕実存的交わりの実現は、この実現の現象のひとつの客観的な狭さと結びついている。
 a) 交わりが起こらないこと。— 「私は他者と共にのみ私自身となり得る」という確信が、私の存在意識の根源に存する場合でも、この確信は、〔同時に、〕あたかも、交わり無き人々にたいする一種の有罪判決としては退けられねばならないものであるかのように、傾聴されるのでなければならない。友を見いだすようにと、どんな人々にも通達されているということであってはならない。人は常に〔友を〕求めたが、一度も得られなかった〔ということもある〕。すべての人間が幻滅させたのであり、他の人は運が良かったから友と出会ったのである。人自身は確かに〔出会いへの〕準備をしているのだが、誰も来てくれない〔ということもある〕。
 そのような考え方では、交わりは、外的な事件のように人に当たったり当たらなかったりし得るところの、ひとつの客観的な出来事にされるのである。あたかも人に友が出来るのは物質的な富のようであるかのように。あたかも受け入れる準備は当たり前なことであるかのように、そして、友がいないことはひとつの事象が欠けているようなものであるかのように。けれども、友を見いだすことは、単に受動的な出来事ではなく、それ自体、可能的実存のなかに根拠づけられているのである。友を見いだすことは、現象の次元では、交わりを敢えて行なうことによっても、先走ることを躊躇することによっても、共通の楽しみや関心による集まりの中での単に社交的な触れ合いを、交わりと混同しないという誠実さによっても、同じ様に準備されるのである。友を見いだすことは、孤独を〔人生の〕初期に苦痛に充ちながらも耐えること、自らを守り、待つことが出来ること、によっても、準備される。これらすべての逆は、真の交わりの根源を妨げるのである。真の交わりは、客観的に固定された諸理想を手にして近づき合うことによっては、不可能となるのである。自由な実存との交わりは、いっさいの窮極的な基準を避けることを求める。あらゆる検査は副次的なものに留まり、ただ交わりの媒体となるのみであって、交わりの条件とはならない。「他の人々は神や聖者のようであるべきである」という、本能的な欲求は、いっさいの交わりを妨害するものである。広い視野の現実性と、絶対的な真剣さの可能性とが、内的に緊張している場合にのみ、友は与えられているものである。
 だが、私が自己満足的に、友と交わりを私の功績として、私に帰するならば、私は、もっと深い非真理の中に沈み、本来的にはこの二つを失うだろう。窮極的に私のみに拠るのではないものを、私は私に帰してはならない。確かに、無制約的な実存の一層大きな力が存在し得るのは、幸運が欠けていた場合こそである。
 此処、根源においては、咎についても功績についても語られるべきではない。此処では、欠乏についてのいかなる弁明も存しない — というのも常に私にも欠けているものがあったから — また、(60頁)想像されただけの充実による改善状態のいかなる正当化も存しない — というのも私に帰せられないものが常に付け加わらなければならなかったから。あらゆる実存的なものは、私が目的性をもって欲したり欲さなかったりし得るような諸々の客観性の、外部にあるのである。交わりの歴史的に一回的なものは、ひとつの全体であるが、この全体は、私自身が既に存在して、今や何か或るものを更に得ようとすることによって生じるものではなく、私自身がこの全体のなかで初めて本来的に生成するような全体なのである。しかし、非客観的な全体としては、この交わりは無根拠[grundlos]である。交わりは実存の根源〔そのものであるから〕である。交わりにおいて私の自由が大切である程、交わりにおける功績や咎が存在する。私は、育っている萌芽を軽率に放棄したり、その萌芽の傍らを通り過ぎたりすることがある。あるいは私は、この萌芽が直ちに枯死してしまうように生きることがある。頓挫して発展しなかった交わりに臨んで、諸々の咎の感情に苛まれる場合もあれば、交わりが実現したのに、理解出来なくなった贈り物のようで、自分の功績ではないという意識が私を一杯にする場合もあり、また、〔交わりが〕実現されなくなって再び孤独の意識が私を充たす場合もある。しかしこの孤独は窮極的なものでは全くないのであって、私は孤独を真実に突破しようと努めたが故に、この孤独のなかで私は自分にひとりの友を、超越者そのものにおいて創造することになるのである。
 b) 交わりの歴史的な狭さ。— それはあたかも、万人が万人にたいして要求を持っているかのようである。ひとつの交わり意志にたいして自らを拒むことが私の咎であるように、現実的な交わりの中へ踏み入ることは、他の諸可能性を排除することを結果として有する。私はすべての人間を得ることはできないのである。
 だが、私は、最大限可能な多数の人々と交わりを求めることによって、既に交わりを壊しているのである。私が万人に、すなわち、私に出会うすべての者に、公平になろうと欲するならば、私は自分の現存在を諸々の表面的なもので充たし、空想的な普遍的可能性のために、制限されている故に各々唯一の歴史的可能性であるものにたいして、私自身を拒むことになるのである。
 交わり的な存在意識の根源には、この存在意識の現象の客観的な狭さが、不可避的な咎として結びついているのである。しかしこの〔現象上の〕狭さにおいて、真正な広さもまた初めて生じるのである。


実存的交わりの開明

 自己充足への傾向に抗して、意識一般の知で満足することに抗して、個人の我意に抗して、自らを自らの内に閉ざそうとする生の衝動に抗して、哲学することは自由を開明しようと欲する。この自由は、常に〔自由を〕脅かすものである(61頁)現存在の独我論あるいは普遍主義を前にしながら、交わりを通して根源的に存在を摑み取ろうと欲するのである。この哲学することは、私自身からして自分に呼びかける、私を開いたままに保ち、そうすることで、実現された交わり的な結合を無制約的に把持せよ、と。哲学することは、可能性を守ることに努めるものである。この可能性は、意識一般の独我論や普遍主義においては、慰め無きままに否認されるものなのである。
 1. 孤独 — 統合。— 私が私自身に到る場合、この交わりには二つのものが存する。すなわち、「私であること」と「他者と共にあること」である。私が自立した者として独立的に私自身でもあるのでないならば、私は他者の中で完全に私を失うのである。〔この場合〕交わりは私自身もろとも同時に廃棄されてしまう。逆に、私が自分を孤立させ始めるならば、交わりは次第に貧弱で空虚になり、交わりが完全に打ち砕かれるという極限的な場合には、私は自分であることを止めてしまう。私は点のように空虚になって〔言わば〕気化してしまっているからである。
 孤独は社会学的な孤立と同じではない。ほぼ原初的な状態で、自立的な自己意識も無く、自らの共同体からはじき出される者は、依然として内面的にはこの共同体の内で生きるか、非存在の暗い絶望意識を持つかである。彼は、護られながら孤独であるのでもなければ、締め出されて孤独であるのでもない。何故なら彼は、「自分自身にとっての自分」ではないからである。
 発達した状態のはっきりした意識において初めて、「私自身であること」は「孤独であること」を意味すると言ってよいようになる。だがそう言ってよいのは、私は孤独においては未だ私自身ではない、というあり方においてである。というのも、孤独は可能的実存の準備意識であって、この可能的実存は交わりにおいてのみ現実的〔実存〕となるからである。
 交わりは、その時々に、二人の間で生じるのであり、二人は結びつき合うが、依然として二人であるに留まらざるをえない — この二人は孤独から互いのほうへ来るのであるが、それでも、孤独を知っているのは、ただ、二人が交わりの中に立っている故にのみなのである。私は、交わりの中に歩み入ること無しには、自分となることは出来ず、孤独であること無しには、交わりの中に歩み入ることは出来ない。交わりによる孤独のあらゆる止揚の内で、ひとつの新たな孤独が成長するのであり、この孤独は、私自身が交わりの条件であることを止めること無しには、消えることはあり得ないのである。私が、自分自身の根源から私であることを敢行し、それゆえ最も深い交わりの中へ歩み入ることを敢行するのならば、私は孤独を欲せざるを得ない。たしかに、私は自分を放棄して、距離感無く、他者のなかで〔言わば〕液化することがあり得る。だが、自己がもはや自己存在と距離を置くこととの硬さ[die Härte des Sslbstseins und Distanzierens]を欲さないならば、そういう自己は、せき止められずに浅い流れのなかで力無く流れ去ってしまう水と同様なのである。
 現存在においては、自分自身を熱情的に捧げることと、厳しく孤独のなかで自分を保つこととの、両極性は、実存的に(62頁)止揚され得ないものである。可能的実存は、現存在においては、ただ、二つの極の間の運動としてのみあるのであり、この運動は、その根源と目標が暗いままのひとつの行路のなかのものなのである。私が孤独を、常に新たに克服するために、敢えて受け入れようと欲さないならば、私が選ぶのは、混沌とした溶解であるか、自己無き形式と路線での固定化であるかである。私が敢えて帰依することを欲さないならば、私は硬直して空虚な自我として打ち砕かれるのである。
 したがって、自己の現存在においては、不安静も留まりつづけるのであって、この不安静はただ諸々の瞬間においてのみ解消され、じきに新たな形態で生じてくるのである。だからといって、このような運動は、希望無く駆り立てられているような、いかなる無際限な反復でもない。この運動において可能的実存は方向と上昇を摑み取り、この方向と上昇との目標と根拠は、いかなる洞察にも存続しているものではないけれども、超越行為にある実存にとっては開明可能なものとなるのである。
 孤独のこのような交わりに反対して、この交わりとは根源的に疎遠なひとつの根本態度が、対立する。すなわち〔この態度は〕、「そのような交わりは単に、孤独な者たちの共同体という、希望無き試みである。そこでは単に、我意が強情な自己存在があるのみであり、この自己存在は、真正な共同体の内に存するところの真理にたいして、自らを閉ざす。罪ある孤独者は、ひとつの哲学的営為を、孤独の仲間を持つという自らの妄想として、自分のために作り出すのである」、と〔言おうとするのである〕。だが、それでは真正な共同体とはどのようなものなのか、という問いにたいしては、これが答えとなる:「すべての人間たちを結びつけ得るもの」、と。これこそが、啓示された真理であり、信者たちの共同体においては、この真理に従順に従わねばならないのである。あるいは、それは、正当な世界整備の理念であり、すべての力を唯一の意志に導かれた権力へと排他的かつ国家国民的に統合するという理念、万人の幸福としての制圧的な世界形成の理念、等々である。人間は自分自身から撤退しなければならない。私が全体に奉仕するならば、私は真の共同体の内にいるのである。自己存在は自己喪失であることを意味する。〔そう、この態度は言うであろう。〕
 両者、交わりへの哲学的態度およびこの敵対者たちは、「真理は、共同体を創設するものである」という命題を確信している。宗教と哲学は、次のことに関しても〔見解が〕一致している、すなわち、単に了解可能なものは、ただ、見せかけの共同体を、客観的に知られるものにおいて建てるだけである、ということに関して。了解可能なものは、本来、理解不可能なものの内における共同体にとって、媒体なのであって、この理解不可能なものを了解可能なものは、明瞭化の無限な過程へと引き入れるのである。だが、知られたものとしての単に了解可能なものは、自己存在から離されているゆえに、無拘束となる。この知られた了解可能なものが主要事となると、共同体をゆるがせにする。すべてを明澄な水のように合理化するならば、共同体としての交わりは消え去っているであろう。
(63頁)
 共同体を創るところの理解不可能なものの、場と根源に関して、分離が始まる。この理解不可能なものが存するのは、ひとつの哲学する現存在にとっては、事実的に相互に出会う人間たちの自己存在の現実においてであり、ひとつの従順な現存在にとっては、客観として固定化された神の啓示においてか、マルクス主義のような世界像の権威的な正当性においてかである。私にとって価値があるのは、生身の人間たちへの私の交わりの歴史的現実のほうであることがあろう。その場合、私が自分であるのは、私が客観的真理として聴取し得るもののおかげであるより以上に、その人間たちの自己存在のおかげなのである。あるいは、私は人間たちへの私の可能的な交わりを、ひとつの一般的な「万人への隣人愛」の中に沈み込ませることがあろう。その場合、この万人への隣人愛は、自らの支えを、神性への私の無世界的な愛において持つか、あるいは人類の使命という、ひとつの合理的であるにもかかわらず理解不可能なほど暗い意識において持つかなのである。私は、自己存在を交わりにおいて獲得するために、常に新たに孤独を敢行するか、あるいは私は、自分をひとつの別の存在において究極的に止揚しているかなのである。
 この分離は、「万人の共同体」という可能性への態度のなかで深化させられる。経験的な考察において、たしかに、繰り返し、つぎの命題、すなわち、「より多くの人間たちが何か或るものを了解する程、そのものは内実を持つことが益々少なくなる」、という命題は真理であることが、思い知らされる。しかし、哲学的な真理は、すべての人間を、彼らとの交わりが要求され続けるところの、可能性ある他者たちとして見るのであるから、この哲学的真理にとっては、つぎの要請は止揚することの出来ないものなのである、すなわち、「最も深い真理は、すべての人間が了解することが出来るであろうようなものであり、その結果として、ひとつの唯一の共同体となるであろうような真理である」、という要請がそれである。このようなディレンマにおいて、つぎの根本心術が、他の心術と分離するのである。すなわち、「暴力的に統一を強要しようと欲し、全く表面的な理解をもって、それどころか理解無き服従をもって、自己満足する」ところの心術が、「真理のために何ごとをも欺瞞的に先取しようと欲せず、それゆえ、事実的であってただ真正な交わりの内でのみ、俯瞰し得ない過程において克服されるべきものを、承認する」ところの他の心術と、分離するのである。なるほど、自らの秩序の内で現存在の可能性を気遣う共同体は、万人を了解するという目的を持っていなければならない。だが、この共同体は、正に其処で私が本来的存在の意識を獲得するような共同体ではなく、人間世界の秩序〔と言うべきもの〕であって、其処では、理解されるようにならないものが相互に敬意を払い合いもし、また、拡大してゆく交わりの内でますます接近し合ってゆくという課題がいつまでも存しているのである。
 孤独と交わりとの緊張における実存の可能性は、選択であって、この選択は、(64頁)誰にとっても普遍妥当的なものとして思念されているのではなく、自己存在にとって無制約的なものとして思念されているのであり、人間にとって接近可能な存在を人間において摑み取ることとして思念されているのである。
 2.開顕化 — 現実化。— 交わりにおいて私は私にとって他者と共に開顕する。
 この開顕化は、しかしながら同時に初めて、自己としての「私」の現実化なのである。およそ私が、開顕化は生まれつきの性格のひとつの開明であると考えるならば、私はそのような考えによって、実存の可能性を見捨てるのである。この実存の可能性は、開顕過程において自らにとって明澄になることによって自らを更に創造するものなのであるが。対象的な思惟にとっては、当然のことながら、前以て存在しているもののみが開顕化することが出来る。だが、生成をもって同時に存在をもたらすような開顕化は、無から現出するかのようなものであり、それゆえ、単なる現存在の意味におけるものではない。「私は生まれつきそうなのだ」という観方に私が立つならば、私の素質を私は人生において認識するかもしれない。だが、私は私であるところのものに留まり続けるのである。そのようにして私は心理学的な考察によって自分に関わり〈態度をとり〉、「完全な経験的知というものは既に早くから私に関して、私が何であるかを私に言うことが出来るだろう」ということを前提するのである。このことは、諸々の素質や特性については適切なことであり、これら素質や特性を知ることは、私の状況における「方向定位〈定位・方向づけ〉」(Orientierung)に属することなのである。だが、可能的実存の決断する意識は、この所与性を摑み取るのである。この所与性に関して明晰さを探求することは、ただ、実存的開顕化の前提であるのみであって、この開顕化によって、世界の内で、私が経験的現存在としてそれであるところのものが明瞭になるのみならず、私自身であるところのものが明瞭になるのである。このような開顕化にとって、与えられたものの状況における実在的な諸限界を承認することは、つぎのことを意味する、すなわち、「私は与えられたものにおいて、やはりただ、ひとつの別の実現の〔ための〕素材を得るのみなのだ」、ということ、「したがって、与えられたもののそのような承認は、いかなる知も究極的ではないからといっても、しかし同時に、経験的な眼差しにとってはありそうもない、あらゆる限界を踏み越える可能性を、含み持つのだ」、ということを。— 実存的な「開顕性への意志」は、見かけ上は対立し合うものを、自らの内に含んでいる。すなわち、「経験的なものについての仮借なき明晰性」と、「これを通して、私が永遠にそれであるところのものに生成する、という可能性」。また、「経験的に現実的なものの不可避なるものによる縛りつけ」と、「この不可避なるものを、摑み取ることにおいて、〔別のものに〕変えるという自由」。そして、「既在を承認すること」と、「あらゆる固定化された既在を否認すること」〔、このような、見かけは対立し合うものを含んでいるのである〕。
 このような「開顕性への意志」は、交わりにおいて自らを全的に敢行するのであり、この交わりにおいてのみ、自らを実現し得るのである。つまり、この意志は、あらゆる既在を差し出すことを敢行するのであるが、その理由は、そうすることにおいて自分自身の実存が初めて自らに到来することを知っているからである。これに対して、「閉鎖性への意志」(覆面への、諸々の防御手段による未然防止への〔意志〕)は、ただ見かけ上交わりへ歩み入るのであるが、(65頁)〔交わりへの意志として〕自らを敢行するのではない。何故ならこの意志は自らの既在を自らの永久な存在と混同しており、既在を保全することを欲しているからである。閉鎖性への意志にとって開顕化は破壊であろうが、自己存在にとっては開顕化は、可能的実存のために単に経験的に現実的なものを摑み取り克服することなのである。というのも、開顕化において私は自分を(存立する経験的現存在としては)失うのであるが、それは自分を(可能的実存として)獲得するためなのであるから。閉鎖性において私は(経験的存立としての)自分を守るのであるが、(可能的実存としての)自分を失わざるをえない。開顕性と実存的現実性とは、「相互に無から生じるように見えながら自分たち自身を支え合う」という関係にあるのである。
 開顕化としての現実化の、この過程は、孤立した実存においてではなく、ただ他者と共にのみ遂行される。私は個別者としては私にとって開顕的でも現実的でもない。交わりにおける開顕化の過程は、かの唯一無双の闘争であり、これは闘争ではあるが同時に愛であるような闘争なのである。
 3.愛しながらの闘争。— 愛として、この交わりは、どのような対象にでもお構いなしに当たってゆく盲目な愛ではない。そうではなく、この交わりは、見透す力のある、闘争しながらの愛なのである。この愛は問いただし、難しくさせ、要求し、可能的実存に基づいて他の可能的実存を摑み取るのである。
 闘争として、この交わりは、実存を巡っての単独者の闘争である。この闘争は、自分と他者との実存を同時に[in einem]巡る闘争なのである。現存在闘争においては、あらゆる武器の利用が通用し、策略と欺きが不可避となるが、これは敵としての他者に対抗する態度なのである — このような他者は、ただ端的に他者なのであり、対立的に作用する自然に等しい —。一方、実存を巡る闘争において問題なのは、これとは無限に異なったものである。すなわち、余すところ無き開放性が問題なのであり、すべての権力と優越性とを締め出すことが、自分自身の自己存在と同然に他者の自己存在が、問題なのである。このような闘争において、この両方の自己存在は、〔相手に〕率直に自らを示して問いたださせるということを敢えてする。実存が可能である場合には、実存は、(部分的には客観的となりつつ、現存在の動機からは理解不可能なままな)闘争しながらの自己献身を通して、(けっして客観的とはならない)このような自己獲得として現象するであろう。
 交わりの闘争においては、ひとつの無比な連帯性がある。この連帯性が初めて、かの法外な問いただしを可能にするのである。なぜなら、この連帯性が、敢行を支え、共同の敢行にし、成果を共同的に保証するからである。この連帯性は闘争を実存的交わり〔の次元〕に限定するのであるが、このような交わりは常に、その都度の二人の者の秘密なのである。このようにして、公然性のために身近な友人たちが存在し得ることになり、この友人たちは最も決定的に(66頁)実存を巡って互いに格闘するのであるが、この闘争においては収穫と喪失とは共同のものなのである。
 
〔つづきは、《ヤスパース『哲学』翻訳(第6部-1)第二巻「実存開明」「第三章 交わり」》を検索して御覧ください。〕


根源としての交わり (50頁)
1. 現存在の交わり —(51頁) 2.実存的とならない交わりへの不満 —(55頁) 3.実存的交わりの諸限界 —(58頁) 

実存的交わりの開明 (60頁)
 1. 孤独 — 統合 —(61頁) 2.開顕化 — 現実化 —(64頁) 3.愛しながらの闘争 —(65頁)








じぶんたちと他人

2023-08-01 03:50:17 | 日記

じぶんたちと他人


 訓 

 
最も身近な人間との安定した関係が、じぶんらしい安定した状態の基礎である。しかしその際、じぶんたちと他人という敷居も生じ、異質な他人への敵意も生じる。しかし、その最も身近な者もまた、その他人よりも酷いことをじぶんにすることを知るとき、他人をゆるせるようになる。
 
 
 
 
別事
 
子供を持つことは女性の幸せだという。そして子供を持たない女性は、子の無いことをかこつ。そういう女性は、子供の幸せをかんがえたことがあるだろうか。子を授からないのは、その女性の子になって不幸になるような子供が現われないためなのである。