高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

人間にたいする存在の明白な悪意

2023-03-31 02:30:20 | 日記

人間にたいする存在の明白な悪意



 
これまで生きていて気づくのは、存在には人間への、はっきり言えば人間の愛への、明白な悪意がある、ということだ。「秒速」の裏のテーマはこれであることは、気づかれてよい。この作品の中で主人公のモノローグとして言われる「(存在の)明白な悪意」は、かりそめの言葉ではなく、全編を覆っていることに気づくべきだ。「秒速」の解説をするつもりではなかったが、結果としてそのことにも気づいた。ぼくの、これまで生きてきたことのなかで気づくことなのだ。人間の不幸は、自然なことではなく、意図的なものである。だから、だれもじぶんだけを責めることはなく、他者を責めるだけのこともない。これから生じる結論は多いだろうが、いまここでそれにゆくつもりはない。ただ、もっとゆったり構えていていいということは言える。
 
 
 
 
 
 
 

日本人の人間関係

2023-03-27 21:07:31 | 日記

日本人の人間関係


 

 
未だ神を知らない幼い兄弟仲間のつもりの次元を越えないのが、日本人の人間関係。だから、すべてが甘えを越えないし、甘えを捉え返して甘えの意義を認識することもないのだ。 他者への道徳的な要請や忠告も、普遍性を気取りながら「甘え」のベースの上でやっていることに気づかないなら、そうとうに迂闊だ。
 
 
 






”感情の言い分に関する格率について”

2023-03-27 09:50:25 | 日記

”感情の言い分に関する格率について”

 

初再 

2020年09月03日

 
相手の感情だけでなく、自分の感情の言い分も聞いてやれ。この格率が妥当する人間はきわめて稀である。たいていの人間は、この反対の格率(「自分の感情だけでなく、相手の感情の言い分も聞いてやれ」)を採用すべき者たちであって、その無法ぶりは全くおどろくべきものである。怒  
 このようにして、多くの者は、自分のできないことばかりを相手に要求している。知性が無いからである。事実、自分を謙遜している者は常に同時にその謙遜に反したことをやっている。(自分に留まっている者は稀である。)
 
知性の無い者が、良識だけは発揮しようとすることは、おそろしい。この世の誤りはすべてそこから生じていると言ってよい。狂信の源である。
 
 
解っていてその反対を為すのと、解らないで同じことを為すのとでは、害は後者のほうが無限に大きい。狂信から為すからである。 
 狂信よりも、あまのじゃくのほうが無限に優れている。 ぼくはたかだか、あまのじゃくに甘んじようとするだけである。ときどきはあっぱれなことをするだろうが、自惚れはしない。神のようになろうとはしない。キリスト信者だって、内実を伴ってそれができた者はいない。なぜなら、信者になった時点で、何か錯覚しているとぼくは思うからである。
 「神のごとくなりなさい」というイエスの言葉には、ぼくは反対だ。できもしないことだからである。あるいは、イエスの言う意味は、もっとちがうものである。彼も怒ったではないか。偽善者を増やしたいのではあるまい。
 
 
神にたいする唯一の義務は、自分自身であることである。ほかのなにものでもない。すべての正しい根源は、「自分自身であること」にある。あるいは、「自分自身」であるべく努めること。これを迂回するから、すべては蹉跌する。日本人の殆どはまだそういう知性のレベルに達していない。
 
 
 

 

人種がちがう

2023-03-27 03:33:10 | 日記

人種がちがう

 

 
他から言われて態度を変えるような者は、他律ではなく、反省できて自分を変えるくらい自立力があるのだ。自己変革力は自立力である。他からの言は契機になろうが、他から動かされるのではなく自ら動くのだ。ところがこの世は、他律か、自己変革的自立力がない者が殆どだ。ぼくは後者を問題にしている。だいたい後者なのだ、ぼくの回りにいる者、いた者は。真に反省するには高度の知性が、高度の反省力がいる。そんな者などめったにいない。そんなものが無いのに、他を判断し、言うことはする。そういう者らにどれほど迷惑をうけてきたことだろう。人種がちがうのだから早く別れたいものだ。
 
人種とは内面的なものだ。表面的なものではない。