高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

高田博厚「モーツァルトの親密」

2020-09-27 17:16:58 | 日記
 
(高田博厚 芸術論)

 
 著作集 III、313-317頁 「モーツァルトの親密」 


 
このような文章は全体がかけがえのない価値をもち、そののなかから特に選べるものではないが … 
 
《モーツァルトの親密性は私たちにとっては「せまき門」なのである。難解なのではない。私たちの安直な感傷には応じてくれない。》 
 
《彼を理解するには、私たちの小賢しい「批評眼」を捨て、解釈することをつつしみ、私たち「自身の時間」をかけて、耳を傾けなければなるまい。「天才とは〈定義〉の外(そと)に在るものなのだ」(カザルス)。》
 
《ここにはベートーヴェンの「悲劇的運命」とは違った「運命」がある・・・ 「存在」は運命と共に激昂したり悲嘆したりする波を立てない。河床を伝ってしずかに流れる水のようである。》 
 
《「現世で闘いながら、現世とふっ切れてしまう」。モーツァルトの音が響くところでは、「問題の重荷を背負ったこの世の存在が開かれて、その後ろから疑う余地のない〈存在〉が、〈神の国〉が現われる。この〈神の国〉は子供の眼にしか見えない。》 
 
《私たちは長い人間歴史の中に、一貫した「普遍」なるものを探せばよいのであり、これが芸術の「存在理由」である。「普遍の中に生きる大いなる個性」、これゆえにモーツァルトは偉大であり、「天才」であった。》 
 
《それらが徐々に「私の世界」のものとなったのは、自分の音楽についての知識でも勉強でもなかった。おそらく私自身の「人生」の歩みによってであろう。・・・ モーツァルトの「親密」を全く受容できるか、できないかは、私の「人生」自体によるだろう。「神を持つ人生」。》 
 
《「眼を閉じて聴こう……モーツァルトを」。彼は私たちの「内部」にいる。「神」が私たちの中に「在る」ように……》 
 
 
 
 
 



人間、自らの本質に背くもの

2020-09-23 16:42:08 | 日記
 
哲学者ガブリエル・マルセルの著作に、「人間、それ自らに背くもの」と訳された著作がある。原題は、≪Les Hommes contre l'humain≫であり、「人間的なものに反する人間」という意味である。「人間的なもの」とは、ここでは、人間の本質、人間をして本来の人間たらしめるもの、であることは、注意すれば解る。人間は、本来の人間の本質に反したあり方をして、この世にある。もっともらしい偽善的なあり方をして在るということと解すれば、ほとんどの人間がそうである。自分で自分を人間的だとさえ思いつつ、じつは人間を演じているだけである。これは恐ろしいことであるとぼくは思う。なぜそういう偽善、むしろ擬態があるのか。自分の歴史のなかで「人間」を、つまり「自己」を培う内省の努力を怠ってきたからである。ほとんどの人間は、この世に合わせているだけである。そこに矛盾すら感じない。人間が人間の擬態を演じている、このことの恐ろしさの感得が、ぼくにこの覚書を書かせた。「人間、それ自らに背くもの」という言葉の想起とともに。
 高田博厚の芸術の巡礼の路は、マルセルの哲学思索と同じ「ひとつの路」の上にある。
 
 
 
 
 
 

想像と記憶の意味、「神」へ至る路について 高田博厚「音楽と思い出」より

2020-09-21 13:46:01 | 日記

(高田博厚 芸術論)

このような文章は写し書くことじたいが魂の功徳になると思い …
 
このような文章が書けるひとはやはり無条件にぼくの先生である。
 
彼、高田の言う「神」を、これほど正確に感得させる文章も(敢えていうが)稀だろう。神に回心させるほどの美の経験の意味を。
 
 
《 そこで私は、音楽が天啓として私たちに与えてくれる「想像(イマジナシオン)」と「思い出」の意味を理解する。私たちは平生、社会の中で存在することや、他との関係や、また自分自身の中のことがらについて、精神的にもまた生理的にも、さまざまな相互関連の上に運命的に立っていると思っているが、よく反省してみると、むしろ反対に、自分の中に、まるで互いに関係のない多様の要素がばらばらに併立しているのに驚く。ある外部の力が、私たちの中にそれらを押しこめ、私たちがそれらを受容することを余儀なくされているだけであって、矛盾がそのままに存在しているだけである。そうして私たちの真の調和とか諧和はもっと他にある。それを私たちに暗示してくれるのが芸術なのである。そういう調和の世界が事実に実現するかしないかの問題ではなく、そういうものが私たちに在ることをのみ芸術は感じさせ、窺わさせる。優れた芸術、とくに音楽が、私たちに「人生」を連想させ、思い出の中にひたらせるのは、この賜物なのである。想像とか空想の美しさは、まだ知らぬ未来にかけるもののように、一般は思っている。これは逆であろう。想像の真の美は過去へ遡って過去が再現するところにある。なぜなら経験なくして、人間はどのような想像も生まれず、またすばらしいのはこの過去への想像自体が節度、全く数学的な節度(ムズユール)を持っていることである。しかもその中で、私たちの「人生」が私たちにとって自由であったように、限りない「自由」を持つ。そしてこれは常に一貫しており、結局は私たち人間は、「神」というより他現わしようのないものに結ばっている。人間が生きて経験したがゆえに、人間に在る「想像」や「思い出」の美しさは、ついに「神」に至るものと思われるがよい。音楽がそれを最も見事に示してくれている。 
 私はギリシアに行って、アクロポリスのパルテノンを見た時、とっさにバッハの音楽を思った。これは私の予備知識でもなんでもなかった。ギリシア建築のあの列柱の秩序の諧和が、バッハの音階を連想させたのでもなかった。そういう秩序と諧和を生むに至った人間の深く広大な愛情を感じ、現前するものが、それの「懐かしき風景」であったのである。音楽はそこへ私たちを直接に導いてくれる。モーリアックが『夜の終り(ラ・ファン・ド・ラ・ヌユイ)』の中で、テレーズに言わせている。「たぶん、ただ音楽だけが、二つの魂を顕わにして示し合わせるでしょう……」。このあまりに直接な力におびえて、トルストイは『クロイツェル・ソナタ』を書いたのであろう。モーロアもどこかで書いていた。愛情の嵐を抜けてきた男女が、魂の鎮ったとき、男が女に言う。「ね、フーゴー・ヴォルフのあの『隠棲(フェルヴォーゲンハイト)』を歌ってごらん……」。ヴォルフもまたそのようにして、「古い肖像画へ」や「廃址の柱」を作ったであろう。それからデュパルクはボードレールのあの『旅への誘い(アンヴィタシオン・オオ・ヴォアヤージュ)』や『前世の生活(ラ・ヴィ・アンテリユール)』を曲にしたろう。そしてシューベルトは「夕陽に向かって(イム・アーベントロート)」を書き、シュトラウスは「明日(モルゲン)」を書いたであろう…… 》 
 
高田博厚著作集 III、296-297頁 「音楽と思い出」 1953年 
 
 
 
 
 
 

〈神〉と「神」

2020-09-18 17:30:57 | 日記
 
凡庸な人間は凡庸な人間で引き下がることをせず、やはり自己正当化のために判断を行使し、そのために〈神〉まで持ち出すことをする。
本物の人間は、そういう愚劣な反撃をかならず受ける。だから覚悟して相手にしないがよい。「神」が反撃してくれるであろう。 








 
 

全人間的営為である芸術

2020-09-15 22:57:32 | 日記
美と人間
 
「現在の日本に真の美が稀であるのは、思想の営為が、芸術家自身において、世俗性を脱しておらず、ここに、内面の分裂があるからである。」

 
美は、絶対的な美のみを美と云うのであって、絶対的なものに表面的と内面的の区別は無い。表面と内面の絶対的統合が美の本懐である。表面的な美というものはありえない。正確には、表面的な美で満足するようにはわれわれの本性はつくられていない。われわれはかならず内面的な美を希求するようにできている。そして、内面的な美は、表面に迫(せ)り出してくるものとしてのみ、われわれはこれを経験する。この意味において、内面の美と外面の美の区別はありえない、と、ぼくは言っているのだ。 
 
美しくなりたいなら、美の本源である魂が迫り出すよう、内面を磨くことである。愛をもつことである。愛は内的な美の希求である。 
 
芸術は、このことの証言でなければ、いっさいの意味はない。
 
芸術は、この意味で、全人間的な営為であるから、いわゆる美感覚のみの問題ではなく、思想的な営為でもある。思想の営為を俟ってはじめて美感覚そのものが充全である。 現在の日本に真の美が稀であるのは、思想の営為が、芸術家自身において、世俗性を脱しておらず、ここに、内面の分裂があるからである。美を求めているつもりでいながら、判断原理そのものは世俗のものである。 美は本質的にメタフィジックなものであり、人間自身の志向がメタフィジックとならなければ、真に現われない。 これは、「神」の伝統をもたない日本にとっての難問である。 宗教やスピリチュアリズムで解ける問題ではない。
 「神」の問題は、自己との真の自問自答、知性の問題である。