高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

人間世界を超えた世界内面空間 リルケの路 関係の鎮静 リルケと森有正のレゾナンス

2022-07-18 15:14:06 | 日記


2022年06月21日(火) 


 
いま時間が身を傾けて 私にふれる
明るい 金属的な響(ひびき)をたてて。
私の感覚はふるえる 私は感じる 私にはできると――
そして造型的な日をとらえる
 
私が眼にとめるまで何ひとつ完成されてはいなかった
すべての生成がとまっていた
私の眼ざしは熟れている そして花嫁のように
どの一瞥にもその欲する事物(もの)がやって来る
 
何ものも私にとって小さすぎはしない それでも私はそれを愛し
金地のうえにそれを大きく画いて
高く掲げる そして知らない
それが誰の魂を解き放すかを……
 
 「僧院生活の巻」(一八九九)から 富士川英郎訳 『リルケ詩集』
 
リルケを読むことは、人間世界を超えた内面世界に移ることである。瞬時に人間の俗諺は、眞空の無音のなかのように聞こえなくなる。リルケを読むことの意味をぼくは新生的に経験した。 この純粋境において「人間の咎」は無いことが解った。
 まさにぼくの「魂」を「解き放った」。
 
 
「人間となること」において人間関係を重視することは、「人間」から離れさせることになる。「もの」になることが、人間を「人間」にするのである。ここにおいてヤスパースとリルケは決定的に違うのである。
 
「リルケ」になることを妨げている存在は、神ではなく悪魔であることが、ようやくぼくにも解ってきた。神や良心の名の許に悪魔の徒である者と、ぼくはとても多く遭遇した。
 ヤスパースほどの人物は多くいない。多くの者がヤスパースの真似事をすると、悪魔の徒となる。器が違うのだ。デカルトはじぶんの真似をしないようにと言ったが、ヤスパースもまったく同じことを言ったのである。
 
「リルケの路」は、良心や咎からの自由の路である。このことを正しく理解する者はすくないだろう。「もの」となることが人間となることであることを理解する者がすくないように。
 
 
どうも、ヤスパースやマルセルの人間関係の世界を、ぼくは好きでないようだ。ぼくの魂の路ではない。両者が孤独を知らないのではなく、深く知っている。そこから人間関係に、かれらの仕方で再度関わる関心が、ぼくにはないのである。ぼくはほかのあり方を知っており、こちらのほうがほんとうだと思う。 リルケであり高田博厚である。 とくにリルケは他者の騒音を消してくれる空間にぼくを移し入れることが、きょう解った。 それとともにぼくの体調も良くなり、苦痛も消えた。ぼくの存在全体が「リルケ」を喜んでいるしるしであり証だ。
 
もの的な非人情で豊饒な感性こそ人間の路である。
 
 


2022年07月05日(火) 


森有正はリルケの愛読者であり、思想的に深い影響を受けた。「リルケのレゾナンス(共鳴)」とじぶんで言っている。リルケの言葉も同じ作用をぼくにすることをこのところ言ったから、ここで書いたこともよく納得できる。
 

2018年07月26日(木) 

 
きょうは どうしたわけか、過去の人間関係が、もともと関係などではなかった経験として、きれいに清算されているのを感じている。 ぼくのなかのなにが鎮まったのか、どうして静まったのか、その探究はアバウトでよい。 きのう、森有正の文に再開したことの作用であろう、と言っておくことが、表向きにはよいし、しかも嘘ではないことである。