高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

マルセル「稜線の路」17

2022-09-25 17:05:02 | 翻訳
61頁

(アリアーヌ) わかってるわ。

(ジェローム) ぼくはただ、マドモアゼル・マザルグに、最近ドイツで出版されたローゼンミュラーのソナタ作品を見せに来ていただけなんだ。

(ヴィオレット、ぱっとしない声で。) とても見事なソナタのようね。 

(アリアーヌ) あなたは、音楽の佳作作品の予約申し込みをしていらっしゃいますか? 音楽作品は、いまでは値段がひどく高いのです。以前は私、全作品を買っていました。それはもうできません。でも私は、バールに、素晴らしくよくできた会社を見つけました。郵便で、私が注文する作品はすべて送ってくれるのです… あなたにそのアドレスをお教えできます。それで私に五十フラン戻ってきます。

(ジェローム) スイス・フランでね。つまり二百五十フラン。税込でそれ以上。ここでは目の飛び出る額だ。

(アリアーヌ) そのとおりね、あなた。私はスイス・フランで数えるのに慣れてしまって、そんなこと、もう考えることもしなかったわ。

(フェルナンド) ここでの生活は、あなたには安あがりに思えるにちがいないわ。

(アリアーヌ) それには気づかないわね。反対に、いつも私、額のものすごさに最初びっくりするの。それから(つづく)


62頁

(つづき)私、反省すると… (ジェロームに。)聞いて、あなた、私が思案している間、助けていただけないかしら。プリュニエさん処へ車を走らせて、イセエビを一匹持って来ていただきたいのよ。フィリップが夕食に来るけど、これより彼を喜ばせるものはないことを、私、知ってるの。(ヴィオレットとフェルナンドに。)私の兄は食道楽で、私は感心してますし羨んでもいます。言っておかなければなりませんが、この二年というもの、私は食餌療法中で、水炊きのヌードルとジャガイモなんです。(フェルナンドの同情的な感嘆の声。)時々、私も療法に違反しますけれど、罰はすぐに来ますわ。

(ヴィオレット) なぜそのようなことを? 

(アリアーヌ) いいですか、私思うのですけど、けっして真面目すぎてはいけません。或る点を越す真面目さは、悪徳に似ていますわ… あなたの顰蹙を買ったのでなければよいですが。

(ジェローム) プリュニエさん処へ電話できただろうに…

(アリアーヌ) 遅すぎるわ。もう、好きな時にイセエビを配達してはくれないでしょう。あなたをうんざりさせ過ぎる?… ありがとう、ご親切に。ではまたじきにね、あなた。(ジェローム、とてもぎこちなく、それじゃあ、と、二人の女性に言う。フェルナンド、ジェロームに同伴する。


63頁

第十一場

アリアーヌ、ヴィオレット

(アリアーヌ) 私、まず、あなたの小さな娘さんのことについて、あなたから教えていただきたく存じます。そして娘さんを抱くこともゆるしていただければと思います。ご存じのように、私は子供が大好きなんです。私たちの大きな悲しみの一つは、ジェロームと私には…

(ヴィオレット、ひそかに。) でも… 最後の言葉は多分言われていないわ。

(アリアーヌ) 不幸なことに、三年前、私は手術を受けて、子供を持つ希望が許されなくなりましたの… 私があなたに、モニクちゃんのことを教えてほしいと言ったからといって、あなたには苦痛ではないでしょう?

(ヴィオレット) 娘の名前をご存じなのですか? 

(アリアーヌ) あなたのお姉さまが私に教えてくださいました… 彼女はすべてを私に語りましたが、私の思うに、私がそれらすべてを、取り決められたことみたいに判断していると、あなたが推測なさるのは、私を侮辱することではないしょうか? まったく逆です。












マルセル「稜線の路」16

2022-09-25 13:32:20 | 翻訳
58頁

(ジェローム、苦々しく。) どうして、単純に、ぼくを愛している、と言わないんだい?

(ヴィオレット) いいえ、ジェローム、それはとても難しいことよ。もし、わたしがあなたを愛していないのなら、すべてはとても単純でしょうけれど。

(ジェローム) それ、ぼくにたいして言っているの?

(ヴィオレット) すぐそういうことを、ためらいもなく。そうなら解放でしょうね。 

(ジェローム) きみはそれを望んでいるんだ。

(ヴィオレット、低い声で。) いいえ、それを望むことすらできないわ。(そのとき、外のドアを鍵で開ける音がし、そして声がする。

(フェルナンド、外から、姿が見えない誰かに向かって。) ここの階段は大変で、昇降機は半分の時間しか働かないのよ。私たち、あんまり急いで登りませんでした? (フェルナンドが現われ、すこし息切れしているアリアーヌが続く。


第十場

同上の人物、フェルナンド、アリアーヌ

(アリアーヌ) すてきなお宅ですこと! (つづく)


59頁

(つづき)何という空間、何という明るさ!(窓の処へ行って眺める。

(フェルナンド) ほとんど工場の煙突しか見えませんけれど、すくなくとも空気はいいですね。それはほんとうです。 

(アリアーヌ、戻ってきて、ヴィオレットに。) こんにちは、マドモワゼル。とうとうお会いできて、私、どんなに嬉しいでしょう! あなたのお噂を聞くようになってから! (ジェロームに。) こんにちわ、あなた。マドモアゼル・マザルグが、あなたはここに居るだろうと私に話していたわ。

(ジェローム) うん、ぼくは…
 
(アリアーヌ、彼の言葉を遮る。彼に、その当惑を示すことを許さないためであるかのように。)いい機会だわ。私、車を持ってる。あなたが望むなら、私たち、一緒に帰りましょう… でもむしろ、いいえ、考えさせて… ヴィクトールに言ってちょうだい、あなたが好きな処へ運転してくれるようにと。私はバスを使うわ。

(フェルナンド) ここからは、地下鉄がいちばん便利ではないかしら…

(アリアーヌ) とんでもない。換気が欠けると、私、病気になるわ。

(フェルナンド) それは解るわ。私も、最初の頃は、あなたと同様だったもの。

(アリアーヌ、ヴィオレットとジェロームに向かって。) 私、(つづく) 


60頁

(つづき)ジャンヌ・フランカステルさんから、あなたがたが彼女のお家で会っていたことを、知らされておりましたの。(ジェロームに。)でもあなたは、そのことを私には何も言わなかったわね。隠し立てするひとね! (ヴィオレットに。)ジェロームがあなたのお役に立てているのなら、とても嬉しいことですわ。今日の名手のひとりの生涯が始まるかもしれないという気がしておりますの。

(ヴィオレット) まあ! わたしは名手ではありませんわ、奥さま。

(アリアーヌ) 女性演奏家の、で宜しいでしょうか。 (ジェロームに。)あなたは、コンサートホール経営の世界に沢山の知り合いがあるはずだから…

(ジェローム) それは間違ってる。ぼくはまったく誰の知り合いも無いよ。

(アリアーヌ) でも、批評家というものは…

(ジェローム) ぼくたちの特権について、きみは幻想を一杯じぶんで作り上げている。赤色証明書のことのほかは…

(アリアーヌ) 赤色証明書って何?

(ジェローム) 免税証明書のことだよ。

(アリアーヌ) そんなに面白くないわね。

(ジェローム) でも、欠かせないものだよ。








マルセル「稜線の路」15

2022-09-25 13:20:37 | 翻訳
55頁

(ジェローム) 答えることもしたくない。

(ヴィオレット、深く悲しんで。) 彼女とあなたの間には、ほかの壁は無いのよ。その壁が落ちた日には…

(ジェローム)  それは間違いだ。

(ヴィオレット) 彼女があなたを許すだろうということを、あなたはよく知っているわ。

(ジェローム) それこそ、ぼくが我慢できない考えだ。そんな日があったら、その日から彼女はぼくにとって、ぞっとするものになり始めるだろう… そしてぼくたちは、ぼくたち二人は、どんなことになってしまうのだろう?

(ヴィオレット) もう、「わたしたち二人」、というものではなくなるでしょうね。あなたが在り、わたしが在る… むしろ、いまのは間違っていて、こうではないかしら、わたしたち二人というのは、依然としてつづいていて、いつも、わたしたち二人でしょうけれど、思い出のなかでそうなのよ。

(ジェローム) きみは、苦しむと窒息する、と言ったばかりじゃないか。それで苦しまないのかい? (ヴィオレット、答えない。) 言いなよ、きみは、こういうことすべてに、やりきれなくなっている、ということを。きみは、自分を取り戻そうとしかしていない、ということを。どんな代価を払ってもだ。わかるものか、きみには、きっと、計画があるのだろう?

(ヴィオレット) ジェローム!

(ジェローム) きみをそのことで非難するどんな権利がぼくにあるだろうか? ぼくはきみの人生を壊したんだ…

(ヴィオレット) 私はもう始まっていたのよ。


56頁

(ジェローム) そいつのことは話さないでくれ… それもぼくが耐えられない考えだ。今晩のように、そいつが来たことをぼくが知っても、何になるんだ、確信しても… ぼくに打ち込まれる釘みたいなものだ。ぼくにはもう引き抜けない。

(ヴィオレット) その… その感情を、あなたがほんとうに経験しているとは、わたしには思えないわ。それはむしろ、あなたが自分に作っている観念で、一種の自己暗示だわ。あなたは知りすぎている、セルジュがどんな男か、どんな立場をわたしの生活のなかで占めたかを。

(ジェローム、苦々しく。) たしかに。ぼくたちは二人とも、故意に、自分が苦しむきっかけを自分で作っていると、自白しているんだ。 

(ヴィオレット) いいえ、いいえ、アリアーヌは、全然べつよ… おそろしいわ。(沈黙。) 

(ジェローム) 彼女はきみの姉に、近いうちに、きみたちに会いに来ると、書いてきたのかい? 

(ヴィオレット) ええ… ああ! ジェローム、彼女と会うことなんか、わたし、望んでないわ。彼女がこわい。

(ジェローム) それこそ、彼女が、彼女をよく知っているほどの人々に抱かせることがある、最悪の感情だよ。

(ヴィオレット) あなたは、わたしを解ろうとしていないわ…


57頁

(ジェローム) 実のところ、ぼくもきみが彼女に会うことを望んでいない。会ってしまったら、いっさいがもっと一層難しくなるだろう。

(ヴィオレット) 彼女がパリに居る間は、あなたは、もうここには来ないでね。  

(ジェローム) じゃあ、どこでぼくたちは会うんだい? ジャンヌの処でかい?  

(ヴィオレット) あの小さなあずまやは、何日か前から怖いわ。

(ジェローム) きみは筋が通っていないな。きみ自身だよ、ジャンヌがいないからといって、そんな考えを起こしていたのは… 

(ヴィオレット) 彼女に許可をもとめる勇気を、わたし、どうして持てたのかしら、解らない… 

(ジェローム) 彼女は、いっさいを見抜き、いっさいを勇気づけていたんだ。 

(ヴィオレット) そういう黙許が、わたしには、不名誉に思えるときがあるわ。 

(ジェローム) ぼくはここに十五分前から居るけど、すこしは優しい言葉の一つも、きみはぼくに言ってくれていない… 

(ヴィオレット) この状況はとても残酷で、わたしがあなたに抱いている愛をわたしが感じることを、時々妨げているの…