日限山4丁目日記

横浜市港南区日限山4丁目は美しい町です。美しい庭・家は町を美しくし、人々を幸福にします。まちびと

ひぎり郷土誌編纂委員会、地域の団体の歴史や活動に関する原稿を募集

2016年10月11日 | 日記
ひぎり郷土誌編纂はひぎり連合自治会の企画です。

日限山4丁目は1972年に造成地の宅地販売が始まりました。
したがって44年の歳月が流れたことになります。

1972年には1丁目にはすでに50軒以上の家が建っていました。
したがって1丁目は4丁目より早く50周年を迎えることになります。

2丁目の北半分は1丁目と同時期に造成されました。
日限山小学校用地を含む2丁目の南半分は3丁目、4丁目と同時期に造成されました。

ひぎり郷土誌はひぎり地区50周年の記念事業として出版する予定のようです。

最近50年の歴史を一言で言えば、大規模宅地造成地らしく家がどんどん増えた、最近は世代の交代が始まって改築が増えつつある、一方で発売当初の建築協定が無効となり、宅地細分化が起こり、住宅密集地化が進んでいる、しかし道路は変わらず、比較的広くて整然とした道路が町の環境を守るのに役立っているということではないでしょうか。

日限山4丁目について言うと、西側に広大な自然公園である舞岡公園が接していることが素晴らしいと思います。
人々の庭が美しいので4丁目の町中を散歩するのも楽しいですが、すぐこの公園に行けるのは最高です。

この公園は横浜市は最初は日野公園墓地のような広大な公園墓地にする考えでした。
しかし、公園墓地の建設が決まる前に久遠寺が4丁目の南側に上永谷墓地をつくる計画が西洗自治会に伝わりました。
久遠寺は、市の公園墓地に並んで南のはじに自分の墓地をつくることを考えたと思います。
西洗自治会はすぐ久遠寺の墓地建設に反対し、組織的に反対運動を展開しました。

この反対運動の過程で、町の西側に広大な公園墓地を建設する考えが市にあることがわかりました。
これは大変なことになったということで、まずは何が何でも久遠寺の墓地を阻止し、その勢いで市の公園墓地も阻止しなければならないと考えました。
当時の4丁目の住民は3グループに分かれて、毎週、久遠寺、横浜市役所、京急不動産に行き、墓地建設をやめてほしいとお願いに行きました。
市議会にも行き、すべての政党に墓地建設中止をお願いしました。

市はすでに久遠寺に建設を許可していたので許可を取り消すことができませんでした。
久遠寺はすでに建設計画を深く進めていたのでやめず、強引に建設を始めました。
業者は建設現場に工事用の高い囲いをつくり、中でブルドーザーで整地を始めました。
住民はただちに囲いを全部取り外してしまいました。
警察が来ましたが、住民の激しい勢いに圧倒されて傍観するだけでした。

久遠寺はただちに裁判を起こしました。
裁判所は西洗自治会は負けるので示談に応じた方がいいと勧めました。
西洗自治会は示談に応じるしか方法がないと判断し、多少の条件をつけて反対運動をやめました。

市や市議会はこの西洗自治会の激しい墓地反対運動に驚きました。
市議会議員は、住民は墓地がなくて困っているのではないか、どうしてこんな激しい墓地反対運動が起こるのかと、みんな驚いていました。
市は広大な公園墓地をつくる計画を進めていましたが、西洗自治会の激しい反対運動を見て、もっと激しい反対運動を受けると予測しました。
市には、公園墓地ではなく大規模自然公園を建設する考えもありました。
急速に公園墓地にする考えがしぼみ、大規模自然公園にする考えが強くなり、今日の舞岡公園が建設されることが決定されました。

西洗自治会50年史を書くとすれば、この墓地反対運動は特筆すべきことと思います。
最大の業績ではないでしょうか。

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